【三村さん】
とある日の夜。
三村さんがやってきた。
最後に会った時より大分痩せて、というか、酷くやつれていた。
いつものようにゾンビみたいな足取りで帰宅した琴浪は、三村さんを部屋へと通すと、珍しいことに電気を点けた。
ざざざざ、と何かが逃げていく音だけが響いて、あとは綺麗に静まり返る。
前回と同じ位置に三村さんを座らせた琴浪は、くたびれたスウェットを掴むと、脱衣所へと引っ込んだ。
よかった。人前で急に着替え出すような真似をしなくて。
戻って来た琴浪が、三村さんの前で黙って胡座をかく。
促すような言葉はひとつもなかったが、三村さんは少し迷った後、フローリングの上に新聞を広げた。
ベッド以外には何もない部屋なので、致し方ない判断である。
載っているのは、何年も前の交通事故の記事だった。
中学生の男の子が横断歩道を渡っている最中、違法薬物使用者の車に轢かれ、搬送先の病院で亡くなったそうだ。
「息子のことが思い出せないんです」
三村さんの表情には、薄い困惑だけがあった。
そこには悲しみも焦燥もなく、だからこそ何よりも気味が悪いほど強く欠落を感じ取ることができた。
「これが息子だってことも、少しするとすぐに忘れてしまうんです。健忘症の一種だと言われて、病院にも通っているんですけど」
三村さんは呑気とも言える程度の戸惑いを示しながら、慎重に、要するに、スピリチュアルに傾倒した新興宗教の信者だと思われずに済むように気を配った声音で呟いた。
「多分、お医者様じゃ解決できないことなんですよね」
ここまで無言で聞いていた琴浪は、感情の薄い声で答えた。
「そうでもないですよ」
それは、過度に平淡な口調だった。
「そりゃあもちろん、捧げたものを取り返すなんてことはお医者様には出来ませんけど、失った結果あらわれた症状への対処は可能な筈です。
難しくはあるでしょうし望んだ結果が得られるとも限りませんが、そんなのはあらゆる病気に対する治療がそうでしょうよ。きっとね。
とにかく、除霊だの解呪だのお祓いだの何だのかんだのしなくたって解決はできますし、したことになります。ただ、三村さんが望んだ方法を取らない限り、ご自分では到底解決したとは思えないだけです。
ともかく、そもそも俺のところになんて来たってどうにもならないんですよだって何も呪術的なことなんて詳しくないんだから、詳しかったらこんなことになってないんだから、詳しければもっと早く上手く何とでも出来たんだからつまり三村さんが俺にして欲しいことが息子さんの思い出を取り戻したいと言うことでしたら到底無理ですし、あのクソッタレなマンションにお邪魔したって抜け殻なんて残してる訳もないので全部無駄なんですよね。
だからそのまま、素直に病院に通ってた方が百倍マシだと思いますよ」
後半、かなり投げやりな響きになった琴浪の言葉に、三村さんはゆっくりと、噛み締めるように幾度か頷いた。
「そう、ですよねえ……」
困ったように笑った三村さんが、辿々しい手つきで新聞をしまおうとする。けれども、彼女の手は途中で止まり、そのまま、ぼんやりとした視線が紙面へと留まり続けた。
沈黙の中、ぺとぺとと、生肉のやや粘質な足音だけが小さく響いている。
琴浪は、俯いたまま動こうとしない三村さんを特に気にかけることもなく、怠そうな足取りでキッチンへと向かった。
そうして、薄暗いキッチンで、用意した晩飯を立ったまま食べ始めている。
どうでもいい話だが、今日は親子丼にした。
いや。厳密に言えば生肉と鶏卵は食材的にも親子とは呼べないし、単に卵とじ丼ということになるのか。
まあ、どうでもいい話だ。本当に。
十分後。
琴浪は親子丼をすっかり食べ終えると、冷凍庫から生肉にあげる用のささみを取り出しながら呟いた。
「まあでも、ムカつくんでもう一回会いに行ってもいいですよ」
「は、はい?」
「なんとか様のとこ。俺あいつのせいで熱出たんすよ、最悪でしょ」
「はあ、ええと……」
「そのせいでハゲには訳分からん嫌味言われるし。先輩は居なくなるし。気色悪いパーティには参加しないとだし。最悪でしょ」
三村さんは、あんまり分かっていない顔のまま、そうですね、と相槌を打った。
解凍されていないささみを、生肉がしゃくしゃく削りながら食べている。
恐らくだが、三村さんとしては、虚空に消えていく冷凍ささみの方が気になったんだろう。
「そういや、何を渡しちゃったんですか」
「え?」
「何も思い出せなくても、何が無くなったかは覚えてるんじゃないですか」
三村さんは、唯一の拠り所に縋るようにして、よれた新聞紙を抱え込んでいた。
「あの…………ランドセルとか、文房具だとか……そうですね、卒業アルバムとか、賞状、とか……なんでしたっけ、そう、ゲームのカードとか、あとは……ビー玉とか、沢山あって。変ですよね、なんの役にも立たないのに、綺麗で、あと浴衣、ちっちゃい頃のですけど、ああ、それとグローブ、多分、野球部だったのかな」
そこまで呟いて、三村さんは曖昧に笑った。
笑って、どうにも涙が出ないことに失望したように溜息をついて、力の抜けた声で呟いた。
「だって、他の何も代わりになってくれないから、仕方ないじゃないですか」
「そうですね」
琴浪の声には、肯定も否定もなかった。
何の温度もない、ただの音の連なりだ。
「私が忘れてしまったから、忘れたことを思い出したから、治療を始めてからは色んな人が息子の話をしてくれるんです。
聞いてると、私には勿体無いくらいの良い子だったんだろうなって、分かるんですよ。
そんな良い子がこんな歳でなくなるなんて、本当に悲しい事故だったんだなと思って。
でも、それだけなんですよね」
三村さんは笑いながら呟くと、ふと窓の外を見やって、慌てた様子で新聞を畳んで、鞄を片手に立ち上がった。
今が深夜で、とっくに日付も変わってることに、ここで初めて気付いたみたいだった。
「あの、遅くにごめんなさい。こんな話聞いてもらって、ご迷惑おかけしました」
「ええまあ。それは全く、その通りですけども」
琴浪は心底うんざりした様子を隠すこともなく答えたし、半ば追い出すようにして三村さんを見送った。
「でも、忘れるのは悪いことじゃないと思いますよ。忘却って人間に許された一番の幸福なので」
後日。
琴浪は、今度はきちんとスーツ姿で、例のマンションを訪ねた。何故か僕も付き添うことになった。
生肉がとびっきりに喜びながら琴浪の足の間を走り回っていたことしか覚えていない。それしか覚えていたくない。
忘却は人間に許された一番の幸福である。
多分。
「ところでお前、自分の名前言える?」
………………。
この場合は違うんだろうな。
多分。
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