第42話 シブヤ 再会②
渋谷の夕暮れどき、混雑のピークはこれからだ。求めたものを半分つかみ損ねた感覚を手に、錠は流れに紛れて街をさまよった。徘徊するうち、いつしか懐かしく覚えのあるあたりを歩いていた。ここしばらくは、渋谷に寄っても足を遠ざけていたエリアだ。
錠はとある喫茶店の前で足を止めた。格調高いアンティーク風でありながら、丸みのある模様がどこか愛嬌をかもしだすその扉にしばし目をとめていたが、やがて小さくつぶやいた。
「いまさら気にしてどうする」
錠は扉に近づき、ノブに手をかけた。ドアベルが軽やかに迎え入れる。すぐに店員が現れ、奥の壁際の席に通された。
錠はアイスティーを注文してからサングラスを外した。キャップは被ったままだ。左側面の壁にもたれてそっと周りを見渡すと、客の入りは八分ほどだろうか、ほとんどが誰かとペアでいる。
錠の他にパートナーがいないのは、右隣のテーブルにいるサマージャケットの若い男性ぐらいだ。大人が一人通れるくらいの通路を錠と隔て、本を読んでいる。
アイスティーがやってきた。まずはガムシロップを注ぎ、サマージャケットがどこかに向かって手を上げるのを横目に、グラスをストローでかき混ぜた。氷が軽く音を立てる。
それに被せるように、ヒールの音が近づいてきた。その響きが手前で止まり、錠はふと顔を上げた。
相手の視線が、錠を固まらせる。
「どうかした?」
ジャケットの男が、やわらかい口調で女性に問いかけた。
「ううん、なんでもない」
女性は慌てて彼の向かいの席に腰を下ろした。男は錠を見やったが、錠は反対側の壁に目を向けた。
「遅くなってごめんなさい」
「いいや、全然」
錠は斜め前、その視界の片隅に元彼女のシルエットを捕らえながら、顔の火照りを抑えられなかった。ここは元カノ玲子と二人でよく来た店だ。それを承知で入ったのだ。だが、この状況を想定するはずもない。
どんなに無関心を装おうとも、耳は二人の会話をキャッチする。それをわかってか、玲子の声も錠の聞きなれたトーンではなかった。会話の内容も当たり障りのないことばかりだ。しかし他愛のないやりとりさえも、錠の胸を今はきつく締め付ける。
やがて、ジャケットの男は時計を見た。
「そろそろ行こうか」
「うん。その前にちょっといい?」
そう言って玲子は席を立ち、背を向けて離れていった。化粧室の方向だ。
わずかなスペースを挟み、男二人は妙な緊張感を醸し出す。それを破ったのは相手のほうだった。
「君だったんだ」
そう言って男は壁を越えてきた。
「流本錠くん、だよね」
「あん?」
店に入ってから、初めて錠は彼の顔を見た。やはり見覚えのある相手だ。男は笑みを浮かべ、余裕を見せつける。錠は顔を背けた。
こいつ、東大大蔵か。
まだ錠が玲子と交際中のことだ。錠は彼女とその男が二人でいるところを見てしまった。
玲子と会う約束の日、待ち合わせの場所に珍しく早めに着いた錠は、その近くのコンビニで立ち読みをしながら時間を潰していた。そのときだった。書籍コーナーのウィンドウの前を二人が通り過ぎていった。仲良さそうに微笑み合う二人の顔をいまだに忘れることができないでいる。
そのあと、錠と玲子は時間どおりに会ったが、錠は問い詰めることもできず、ただ冷たく当たるしかなかった。玲子も錠の態度から目撃されたことに気付いたに違いない。
東大大蔵と玲子の関係は如何なるものだったのか、その時点ではっきりとしたことはわからなかった。だが、正面から向き合うことのできない錠は、その後も会うたびに冷めた態度を取ってしまった。
やがて、彼女は錠の贈った物ではなく、見覚えのない高級品や、それまでとは違う香水を身につけ現れるようになった。
あの日、高層ビルで食事をしたあと、ビルの谷間で次の約束をしようとしたが、玲子は錠の提案を保留した。それだけでもう、錠は懐疑を抑えることができなかった。そうなると、錠の心は裏腹な言葉を発せずにはいられない。
「どうせ、他の男のところに行くんだろ」
玲子は長い髪で顔を隠し、無言でうつむいたまま否定もしなかった。
「こないだのあいつか」
黒髪の挟間から眉間の歪みをわずかにのぞかせて、玲子は答えた。
「そうよ」
彼女は、相手は東大を出て大蔵省で働いていると告げた。錠は言葉にならない感情にのみ込まれ、しばし抗ったが、やがて息苦しさから逃げたくて沈黙を破った。
「行けよ」
その言葉に、玲子は背を向けて駆け出していった。
あのとき、本当に言いたかったこと、聞きたかった言葉はなんだったか、そんな思いが今ごろになって浮かぶ。
錠が過去に心を沈めている間も、東大大蔵は笑みを浮かべていた。
「玲子さんに彼氏がいたのはね、知ってたよ。でもそれがあのジョーだったなんて、思いもしなかった」
錠は、ほとんど氷だけのグラスをかき混ぜた。
「僕がアプローチしたんだ。最初は取りあってももらえなかった」
意外な言葉に、手の動きが止まる。
「ここ、ひょっとしてよく使ってた? いや、彼女がお気に入りって言うもんで、僕たちもね」
錠は東大のほうに顔を向け、ここまで出なかった表情を見せた。
「よくしゃべるな、エリートさんは」
相手は思わず目をそらしたが、笑みは絶やさない。
「デリカシーないって? うん、まあ、そのくらいじゃないとやってられないさ。こう見えて、プレッシャーやら何やら日々抱えてる。それでも前に行くにはいろいろ大変なんだよ。恋愛でつまずいてるわけにもいかなくてね」
そう言って、クールに鼻を鳴らした。
錠は不意にグラスに目線を戻した。その眉間に深くしわが走る。
「だから無駄な駆け引きはせず、まっすぐ伝えたんだ」
それを聞かされた瞬間、今度は敗北感に似たものが胸中をかすめた。
「仮に、相手が日本代表だったとしても、そうしたね」
錠はストローで再び氷をかき混ぜた。ぎこちない音が響く。
「このまま、眠っておいてもらいたい」
その言葉はある意味、挑戦状ともいえたが、今さら東大大蔵のエリートがミスのレッテルを張られた男に何を言っているのか、錠はグラスを見る目を泳がせた。
玲子が戻ってきた。
「行きましょうか」
玲子は座らずに男にそう言った。そして一歩前に出ると、それまでとは別のトーンの声を出した。
「あのね」
錠はキャップのつばごしに、ヒールの先がこちらに向いているのに気付いた。
「前田くんたちがね」
予期せぬ展開に、グラスに手を当てたまま耳だけを預ける。
「前田くんたちが謝りに来た。許してくれって。錠は悪くないって」
錠は思わず顔を上げた。キャップのつばで玲子の顔は視界に入らない。が、その目線の高さには見慣れたバッグが下げられていた。そしてかすかに懐かしい匂い。
「怒ってないから。じゃ」
そう言って玲子は出口に向かった。錠は玲子の立っていた空間に目をとめたまま、その香りを見送った。そこへフレームインしてきた東大大蔵は、涼しげな口調で一言残し、そしてアウトしていった。
「僕は転んでもただじゃ起きないから」
二人が出ていったあと、氷が溶けきる前に錠も店を出た。そして駅に足を向けた。
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