第12話 厄災
「私が生まれているかどうかといった頃の話です。この辺りではスキュラと呼ばれる魔物が暴れ回っていたそうです。……スキュラは、厄災に相当する魔物の一体でした」
人々の生活に甚大な被害を与える魔物を、ギルドは厄災と等級づけている。現時点で厄災認定されている魔物は五体。ヨシュアを呪っているとされる邪龍ヒュドラもまた、厄災が一つである。
厄災という単語が出た時、ヨシュアはごく僅かな時間だけ歩みを止めた。だが何も言わず再び歩き出したので、リリエリはそれに気づかなかったふりをした。
「スキュラは多頭の犬に似た、巨大な不定形の姿をしていたとのことです。討伐されるまでに三つの街や村を破壊しました。そのうちの一つが、シジエノです」
「……討伐できたんだな」
「討伐した冒険者は、その討伐を最後に冒険者を辞めてしまったそうです。……あまり詳しい話は、教えられていません」
二人が進んでいる道の両側には柵が建てられていた跡がある。これらがスキュラの歩みによって薙ぎ倒されたのだとしたら、体長だけで人間二人が両手を広げた程度の幅を持っていたことになる。
もしかしたら、それ以上に大きいのかもしれない。巨大な、という言葉だけでは全てを知ることはできない。
リリエリはそっとヨシュアの様子を窺った。
スキュラと同じ厄災級であるヒュドラも、シジエノのような場所を生み出してきたはずだ。周囲を腐敗させるという特性を踏まえると、さらに甚大な被害を振りまいてきた可能性がある。
ヒュドラの発生地は大都市アルタン周辺。エルナトからずっと遠く離れた土地の出来事だ。
酷い災害だったと聞く。悪い噂もいくつか知っている。でもそれだけだ。
海洋に浮かぶ小島のような世界では、情報の受け渡し一つとっても容易ではない。こと遠方の状況に至っては、道中で尾鰭がついては消えるため正確性が著しく落ちる。ただのC級冒険者が情報の真贋を判定するのは難しい。
リリエリは邪龍ヒュドラによって変えられた世界を知らない。……ヨシュアは知っている。誰よりも近くで、ヒュドラによる害を目の当たりにしたはずだ。
淀みなく歩き続けるヨシュアの後頭部を眺める。ヨシュアは邪龍ではない。人間だ。そう心から思っているはずなのに、頭の中であの日聞いた声がこだまするのだ。
――それはいつまで保証されるんだ?
リリエリは自分の思考の中にそっと沈み込んだ。もしも、もしも本当にヨシュアさんが邪龍に成り果てるとしたら、私は――
「リリエリ」
「…………っ、はい。なんでしょうか!」
底の底まで沈みつつあったリリエリを引き上げたのは、ヨシュアの声であった。
「遠くにたくさんの建物が見える。きっとあれが村の中心だろう」
「相変わらず、とても目が良いですね」
リリエリの目には建物は見えない。リリエリはただの人間だからだ。
ヨシュアの目には建物が見えている。――ヨシュアが人間ではないからか?
緩く頭を振って、リリエリは思考を頭の中から追い出した。
結論は必要ないだろう。少なくとも、今はまだ。
■ □ ■
村の中心部は、懸念していたよりも酷い状態ではなかった。農地と居住地の間にはもう一重の魔物避けが張られていて、それが功を奏していたのだろう。もっとも、今となってはそれらは木片となっているが。
ヨシュアは疎らに存在している建物の間を気の向くままに歩いた。八割が木造で、残りが石造りだ。ほとんどが全壊ないしは半壊していて、屋根壁床の全てが無事な建物はなかなか見当たらない。
「どれも壊れているな」
「そうですね。もっと奥に、無事な建物があれば良いんですけど」
半壊の集会所を過ぎ、壊れた樽の立ち並ぶ商店らしき廃墟を過ぎ。やがて二人は一軒の建物の前で足を止めた。
診療所のような建物であった。年月による風化は見られるものの、雨風の侵入を防げる程度には形を保っている。
建物自体にも魔物避けの結界が彫り込まれていて、これがこの場所を守り続けていたのだろう。シジエノの人々にとって、きっと大切な建物だったのだ。
「ここなら仮住まいには十分ですね」
建物の中にはまるで人が慌てて逃げ出した後のような生活感が残っていた。受付台の上で風化している書面。植物を飾っていたのだろう褪せた鉢植。すっかり色の落ちたワードローブの中には埃を纏った黒い上着が静かに吊るされていた。
奥の方には、患者のための部屋だろうか、薄汚れたベッドが四台、それと小さいかまどが据えられている部屋がある。
仮住まいとしてはこの上ないほどに上等な環境だ。これなら二週間と言わず、一月だって隠れ住むことができるだろう。
エルナトには戻らないほうが良いかも知れない。そう言い出せるほど、リリエリは覚悟が決まっていない。
エルナトには親友であるマドがいるし、リデルに頼んでいる特注の杖だってまだ受け取っていないのだ。
レダの目さえ欺ければ、それでいいはず。
ここはあくまで仮住まい。リリエリはそう自分に言い聞かせながら、深く埃の積もったかまどを一つ撫でた。
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