第10話 巣
もうじき昼に差し掛かろうという頃合い。二人は未だ繁茂した森から抜け出せずにいた。
時折顔を見せる魔物などはさしたる脅威にはならない。それよりも、人の手の一切が入っていない自然の方がずっと厄介であった。
視界を遮る枝葉を一つ一つ叩き落とし、足に絡まる根を都度都度引き千切って進まなくてはならない。結果として、二人は出発地点からそう離れられずにいた。
「このままでは日が暮れても抜けられないかもしれませんね」
シジエノ廃村の大体の方向はわかっているが、道中の森の広さ深さはわからない。だが、このままのペースで抜け出せるほど楽観視できる状況ではないだろう。
この場所で明かす一夜は、開けた川縁で明かす一夜とは訳が違う。光の差さぬ空間から沸く魔物の脅威が四方を囲む中、どれほど体を休められるかは疑問だ。魔物避けの結界にだって限界はある。
なんとか脱出したいところではあるが、最悪のケースも想定しておくべきだろう。リリエリはヨシュアの背の上からそっと周囲を窺い見た。少しでも大きな木の洞を探し、泥土を体に塗って体臭を落とし、火を使わない食事を用意し、それから……
「少しいいか」
「! はい、なんでしょう」
「身を顧みなければ、もう少し早く進める。俺だけではなく、アンタも多少の怪我をしてしまうかもしれないが」
「……このままここで夜を明かすよりは、そちらの方がいいのかもしれませんね。ちなみに、ヨシュアさん自身の怪我はどれくらいになる想定ですか?」
「…………掠り傷」
本当か?
リリエリはありったけの疑念を込めてヨシュアの後頭部を睨みつけた。それでヨシュアの頭の中がわかるわけではないが。……問いただしても仕方あるまい。
ヨシュアは一度リリエリを降ろし、バックパックに入っていた鍋をリリエリの頭に被せた。小柄なリリエリには少し大きく、視界の大半は鍋の中だ。
前が見えない状態は怖いと鍋を傾けるより早く、ぽんとヨシュアがリリエリを背負う。
「しっかり捕まっていてくれ」
「ちょ、ま、」
急に強い風が吹いた。
いや、密度の濃い森の中でこんなにも風が通るはずがない。バキバキと断続的に硬いものを砕く音が聞こえている。前方、左右、足元からも。
ヨシュアが全てを薙ぎ倒しながら、前進している。
ぐわんと頭に衝撃が走る。ヨシュアがぶち壊した枝が何かが強かに頭部にぶつかったようだ。この鍋がなければどうなっていたことか。
頭部こそ守られているものの、しがみついている両手は剥き出しだ。鋭い葉が、枝の切っ先がリリエリの手を突き刺し、切り裂いていく。
それでも手を離すわけにはいかない。しっかり捕まっていてくれと、ヨシュアに言われているのだ。
大嵐にも似た暴力の気配を、暗闇の向こうに感じている。真っ直ぐに曝されているヨシュアの身を案じることしか、リリエリに出来ることはない。
■ □ ■
唐突に風が止んだ。
ヨシュアの足がピタリと止まり、動かない。ぐ、と力を入れていることは背中を伝って感じ取れるものの、一向に前に進まない。
「ヨシュアさん、どうしました?」
「……糸が」
もう鍋を被っている必要はない。リリエリはそっと鍋を持ち上げ、前方を見た。
ヨシュアの両腕が、光に捕らえられている。違う。光ではない。
「蜘蛛の巣……?」
規則正しく網を張る糸が、リリエリの眼前でヨシュアに絡みついている。それは都市内で見る一般的なものよりもずっと太く、ずっと大きな蜘蛛の巣であった。
ヨシュアはなんとか巣から抜け出そうとしているようだが、べっとりと張り付いた巣が彼から離れる気配はない。ここまで振るっていたらしいアダマンチアの剣も捕らえられているようだ。
あのヨシュアの腕力をもってしても脱せない蜘蛛の巣。リリエリの背中にひやりと恐怖が差した。巣であるからには、主がいるはず。今は姿が見えないが、悠長にしている時間はない。
幸い、背負われていたリリエリは蜘蛛糸に触れていない。ひょいとヨシュアの背から飛び降りたリリエリは、腰元に携えていた愛用のナイフを取り出した。
ミスルミンという鉱物でできたナイフだ。先端が欠けていてもなお、リリエリの大切な愛用品である。
糸に向かって慎重に、垂直に刃を当てる。切れる強度ではあるが、時間のかかる作業だ。
「利き手はどっちですか」
「左だ」
リリエリはまずヨシュアの左手を解放した。そうしてミスルミンのナイフを手渡し、残りの部分はヨシュア自身に切り裂いてもらうことにした。
たが、ナイフだけではなかなか抜け出せないだろう。リリエリはバックパックを開いた。ナイフ以外の手段を探さなければいけない。オーソドックスな回答は、火。
リリエリは灰色の金属でできた手のひらサイズの円筒を取り出した。紋章魔術による点火器である。熱水を作り出す小鍋を失ったために購入した、比較的新顔の道具であった。
試しにヨシュアから離れた部分の巣に火をつけてみる。推測通り、あっという間に火がついて氷のように溶けていった。
「火に弱いみたいです。そちらにも火をつけていいですか」
「構わない」
先程の強固さが嘘のように、あっさりとヨシュアは蜘蛛の巣から解放された。一時はどうなることかと思ったが、対処法さえ押さえておけばなんとかなりそうだ。
「びっくりしましたね。先を急ぎま、」
目が合った。ヨシュアとではない。ヨシュアの背後に音もなく降り立つ、巨大な蜘蛛とである。
咄嗟に彼の名前を呼ぼうと、リリエリは大きく息を吸った。だが、息を声に変える暇はなかった。
ぐちゃり、と木の実を潰したような音がした。その時にはすでに、大蜘蛛の頭部は真ん中からぱっくりと二つに分かれていた。
緑色の体液に濡れたアダマンチアの剣が、ヨシュアの左手に握られている。大蜘蛛の頭を叩き切った、ようだ。目で捉えられなかったから、推測でしかないが。
「先を急ごう」
事も無げにヨシュアが言った。
一時はどうなることかと思ったが、それは杞憂だったのかもしれない。
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