第8話 衣食住はさておき


 何事もなく一夜が明けた。

 日の完全に登りきってない時刻から起き出したリリエリは、近場の野草や木の実を取りつつ今後の動き方を考えた。


 宮廷魔術師という立場なら、エルナトに長く留まることは難しいだろう。一週間、望ましくは二週間は時間を置きたいところだ。その時間でヨシュアが既にエルナトから逃げたと思ってくれれば助かるのだが、……そうでない場合は、また別の手を考えなくてはいけない。


 未来の不安は確かにあるが、それよりもまず目先の現実に対処する必要があった。


 基本的に壁外は留まるところではない。転移結晶を用いて道中をショートカットし、最短で目的を果たし、すぐに帰還するべき領域だ。

 十分な食事、安全な住居、清潔な衣服。壁外でこれらを満たすのは至極難しい。壁外に十数日も滞在するというのは、もはや緩やかな自殺とも言えた。


 ただし、これは一般の冒険者に限った話である。

 壁外での生存において、リリエリの右に出るものはいない。


 右足が動かない身で未だに冒険者としていられるのは何故か。こと収量が求められるような採取に特に秀でているのは何故か。


 息を殺して、気配を察して、いないもののように進む。

 木の根を食み、泥水を啜り、石の上に眠ってでも生きる。

 そのような泥臭い胆力が、逃走と生存に特化した知識が、何よりもリリエリをリリエリたらしめているのだ。


 ……十分な食事、安全な住居、清潔な衣服を満たせているかと言えば、そういう訳では無いのだが。


 ヨシュアが壁外にいる理由は、要はリリエリの我儘だ。そういった立場上、可能な限り安心安全快適な壁外に滞在してもらいたいという気持ちがリリエリの中にあった。


 とはいえ二週間ともなれば多少は我慢をしてもらう場面も出てくるだろう。ちらりと申し訳無さが頭を掠めたが、……まぁヨシュア単体での壁外生活に比べれば百倍は人間らしい生活を提供できるだろう。ヨシュアときたら、闘争と死亡にばかり特化しているわけであるからして。


 リリエリは行方不明中のヨシュアの生活を想像しようとしたが、嫌な光景ばかりが浮かんだので諦めた。実はただどっかの都市でぶらぶらしていただけでした、ってオチであってほしい。

 

 ともかく。二週間も壁外にいようと思うならば、ある程度の覚悟と準備が必要である。ましてや今のリリエリは一人ではなく、ヨシュアと一緒なのだ。


 その準備の一つとして、リリエリにはある考えがあった。

 目的地であるシジエノ廃村。廃れてから十余年は立っているが、形を残している建物があれば生活はぐっと人間らしいものになる。竈なんてあればそれはもう実質家だ。いける。


 まずはシジエノ廃村に向かう。そして生活の基盤を整えてから、ゆっくり周辺のマッピングを行う。二週間経ったらエルナトに戻ってみて、それからのことはそれから考える。


 パーフェクト。非の打ち所のない完璧な作戦だ。

 リリエリは無意識に鼻歌を歌ったりしながら採取作業を進めた。


 今採っている紫色の実は人間が食べてもいい味をしていないが、栄養はあるので丸呑みすれば良し。

 さっき採った草は摂取すると幻覚を見るが、栄養はあるので寝る前に食べれば良し。

 遠くに見える木の枝は食べられないし栄養もないが、噛んでるとなんか味がするから良し。


 リリエリの考える壁外耐久生活というのは概ねこんなものである。命さえあれば良し。



■ □ ■



 ヨシュアは朝に弱い。


 リリエリが(リリエリ基準で)三日分の食料を採り終えた辺りでようやくヨシュアが起き出した。帆布を張っただけの寝床から這うようにして現れた姿は、不健康極まりない彼の容姿も相まってなかなかホラーじみている。

 ヨシュアはそのまま幽鬼のように立ち上がって、ふらふらと川縁に向かって歩いていった。


 綺麗な水は貴重だ。身綺麗にできるならしておくに越したことはない。

 ヨシュアが服を着たまま小川の中へ立ち入っていくのを、リリエリは料理をしながらなんとはなしに眺めていた。ばさりとヨシュアが木綿の上着を雑に脱ぎ、ざばざばと川で濯いでいる。


 筋肉はついているのだろうが、それ以上に骨の印象が強い痩身。その背の中心には、強い光の下でないとわからない程度にうっすらと黒の幾何学模様が刻まれている。……紋章魔術だ。


 認識した瞬間、リリエリはすぐさま顔を背けた。

 紋章魔術を直接身体に施すのは禁忌である。冒険者資格は当然剥奪。付与した効果によっては壁外追放や死刑もあり得る、比較的重い罪だ。


 だが迅速に視線を外したのでセーフ。四捨五入したら実質何も見ていないようなものなのでオーケー。

 リリエリはヨシュアに背を向けるような位置に自然に移動して、何事もなかったという体で料理を続けた。何かあったら知らなかったんですで通そう。これ以上の厄介事は抱えきれない。


 背後から水音が聞こえている。なるべく目の前の料理に集中を注ぎ込みたかったが、どうしても先程の光景が頭の中をちらついていた。

 思ったよりも嫌悪感は薄い。邪龍に呪われた男という存在がもう既に脱法感があるからかもしれない。


 あの身体能力や再生能力が外法によるものだと言われればすんなりと納得できる。それほどまでにヨシュアの存在は並外れている。

 だがいくらなんでも死を覆すような魔術はこの世には存在しないし、そもそもヨシュアの力は邪龍の呪いによるもののはずだ。でなければレダがヨシュアの命を狙う理由がない。呪いは確かに存在している。

 だったらあの紋章魔術はなんのために? 


 ……リリエリは考えるのをやめた。自分は何も見ていない。つまり、考える必要はなし。

 都合の悪いことには大いに目を背ける。これもまたリリエリの生存術である。

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