第20話 賭け事あるいは約束



「……もう戻れなくないですか?」


 七合目の森は深い。樹冠は完全に空を覆いつくしており薄暗く危険な場所だ。都市に近く冒険者の立ち寄りが比較的多い、よく知られた場所であることを加味しても危険度はB級程度。……昼間の話である。夜間の危険度はA級だ。まともな人間なら夜中に森の中を移動しようなんてまず思わない。まともな人間なら。


「……いけるんじゃないか?」


 ヨシュアがまともでないのはこの際事実として受け入れるとして。


「ヨシュアさん、この暗さのなか真っすぐ五合目に向かえる自信ありますか」

「ないな」

「ですよね」


 ヨシュアがA級の魔物を物ともしないほどに強いと仮定しても、指針のない闇の森で彷徨うリスクは無視できない。というかヨシュアには森で行き倒れていた実績があるわけで、安心できる要素は一切ない。夜には特有の魔物が出るし、地形を確認できず崖から落ちてしまうかもしれないし、単純に森の中に長くいること自体が危険だ。


「今日はここで一夜を明かすのが一番安全ですかね。山小屋に宿泊する前提だったので、野営の準備はないんですが……」

「上には山小屋はないのか?」

「……ナナイ山岳十合目、頂上に一軒あります。ありますが、まさか」

「そこに向かえばいいだろう」


 馬鹿なのか? ……とは一概に否定できなかった。


 ナナイ山岳は八合目中腹以降は森林限界となっている。目下の障害は魔物の住処となっている森の道中であり、五合目に向かうよりも頂上を目指した方が早く森を抜けることができる。つまり、より安全な可能性がある。

 加えて、ナナイ山岳の頂上は一つだ。あてもなく五合目の山小屋に向かうより、目的地は遥かに明瞭。途中から森を出ることを踏まえると、視界状況もぐっと良くなる。

 

 だが、そこまでして山小屋を目指すメリットが果たしてあるだろうか?

 五合目を目指そうが頂上を目指そうが、夜間に森を抜けることに違いはない。夜行性の魔物が活動的になっている今、その行動はあまりにも危険すぎる。いくらヨシュア個人が常人の十倍腕の立つ冒険者だとしてもだ。


 一方山小屋を目指すメリットは単に今夜を快適に明かせる、ただそれだけ。であれば、少しばかり環境が悪くてもこのまま魔物除けの中で日の出の時間を待つ方がいいんじゃないか。

 リリエリはそういったことを主張しようとした。天に誓って、女神テレジアに誓って、本心からヨシュアの愚行を止めようとしたのである。


「山頂では杖の素材として優れた鉱石が採れると聞いているが」

「……ありますねぇ」


 例えば月光鉄。エルナト周辺で採掘できる中で最も魔力伝導効率が良い純金属で、月鋼という合金の材料の一つになる。

 例えばミタマゴケ。大気魔力の吸収性に優れた染料になり、これで刻み込んだ紋章魔術は非常に高度に魔法の再現が可能だ。

 例えばカーシャライト。モス状鉱。亜アダマンチア。

 

 リリエリの頭の中にいくつもの単語が溢れ出す。どれもこれも、知識としてのみ知っている素材だ。高価で手出しが難しく、自分で採取することもできない。永遠の憧れだと思っていた。絵に描いたパンのような、そこにはあれど決して得ることはできないものだと。


 ほとんど無意識にリリエリはナナイ山岳の山頂に目を向けた。月明りでぼんやりとシルエットのみが見えている。あの場所にはそれらがある。……ヨシュアがいれば、手が届く? 

 

「既成の杖を買うのは高いかもしれないが、材料を持ち込めば現実的な価格になるんじゃないか」

「なります。なりますが、」

「アンタの杖を壊してしまったこと、負い目に感じているんだ。……その、信じられないかもしれないが」

「……危険すぎます。ナナイ山岳の九合目以降はA級扱いです。私を連れたうえで山頂に行こうだなんて、無謀すぎる」


 今度はヨシュアが森から山頂にかけてを眺めた。見えるものなどほとんどないはずであるが、ヨシュアは何かを測るような仕草でじっとその景色を見つめていた。そうして山の頂から目を離さないまま、言った。


「アンタに危険を及ぼさないことは約束する」


 ヨシュアの強さは本物だ。リリエリという荷物を抱えていてもなお、息一つ切らさないでここまで駆け抜けてきた男。

 日中にも聞いた言葉を、同じ調子で同じ文言で繰り返す男のことを、果たしてどこまで信じていいのだろう。


 ……信じないで、なにがパーティだろうか。目の前の冒険に賭けないで、なにが冒険者だろうか。


「……わかりました。私も約束します。ヨシュアさんにもしものことがあったら、私もここに骨を埋めていくと」

「それは、ちょっと困るな」


 杖の放つ明かりの中、ヨシュアは困惑と笑みを半分ずつ混ぜたような表情を作った。相変わらずほとんど表情筋の動かない男だ。この人の表情を自信をもって読み取れたのは、もしかしたらこれが初めてかもしれないとリリエリは思った。


「では、早速向かいましょう。目指すは月光鉄です!」

「……山小屋、だよな?」

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