第14話 たぶん
ナナイ山岳麓に設置されている転移結晶は、もはや欠片と呼んでも差し支えがないほどに小さい。設置場所も、魔物避けの紋章魔術こそ刻まれているものの、ここで一晩も夜を明かしたら気の滅入ってしまうような粗末な小屋である。
眼の前で輝く光の波が十分に静まってから、リリエリはゆっくりと目を開いた。先程までいた小都市エルナトの転移場の清廉な景色はすっかりと失せ、目の前には仄暗い灯りに照らされた褪せた木壁としけった木の匂いだけがある。……転移成功だ。
リリエリは床に彫り込まれた紋章魔術をなるべく踏まないようにして小屋の外に出た。
もうじき太陽が顔を見せようという時刻だった。山岳から吹き下ろすキリリと冷えた風が呼吸の度に肺を刺激する。とはいえここは比較的温暖な土地であるから、昼頃には活動に適した気温になってくれることだろう。
天気はやや曇り。雨の気配はない。今日もまた絶好の冒険日和である。
リリエリは周囲をさっと見渡した。魔物の警戒、というわけではない。都市の大壁ほど厳重ではないが、転移結晶の設置点は十分に魔物避けを施す決まりとなっている。彼女が探しているのは、ヨシュアの姿であった。
□ ■ □
あれから。
依頼を受注し、ギルドを出た二人はまずヨシュアに充てがわれた居住地に向かった。特筆すべき点のない、一般の冒険者が住まうようなごく普通の石造りの建物であった。ややギルドや商業施設からは遠いものの、その分閑静で過ごしやすそうに見えた。
「綺麗で良いところですね。広さも申し分なさそうです」
「そうだな。……これは、月にいくらほどあれば払えるだろうか」
「そうですねぇ。依頼料だけで考えると、B級下位なら三、四回ほど受ければ足りるんじゃないでしょうか」
普通と評したが、リリエリが住んでいる区域と比べると二回りほど上等だ。
「この場所からは少し遠いですが、南の方に工房街と呼ばれている地域があります。武器や防具など、冒険者としての準備はだいたいそこで揃います。エルナトの転移場はここです。転移のための手続きが少しかかるので、お早めに。それから……」
ヨシュアに渡していた地図を広げ、いくつかの主要な施設に丸をつける。地図があるのだし、現地まで案内する必要はないだろう。ヨシュアは幾度か頷きながらリリエリの説明を聞いていた。
「……とまぁ、直近で使いそうなのはこの辺ですかね。他に聞いておきたいことはありますか?」
「いや、たぶん大丈夫だ。色々ありがとう」
「では、明朝日の出の頃にナナイ山岳の転移小屋付近で待ち合わせましょう。よろしくお願いしますね」
「こちらこそ、よろしく」
□ ■ □
これが最後にヨシュアを見た記憶である。
この後リリエリは自宅に戻り、それはもうワックワクで明日の依頼の準備をした。魔物解体用のナイフの手入れをしたり、中の荷物が軽くなる紋章を付与したバックパックの準備をしたり、二人分の保存食を確保したり。
B級下位依頼。ナナイ山岳。そして戦いのできる冒険者とのパーティ!
自分が二人ほど入りそうなバックパックを背負ったリリエリは、それはもう昇る朝日に負けないくらいにキラキラと輝く眼をしていたわけである。
だからというわけではないが。
リリエリの眼は、夜明け前の薄暗い世界の中であっても、ばっちりとそれを捉えることができた。
太陽の昇る方角からゆっくりと歩いてくる男。シルエットしか見えないが、リリエリは確信した。彼はまさしくパーティメンバーたるヨシュアその人だ。
シルエットを見ただけでわかる。彼は普通の人よりとても背が高くて、とても細身であるから。
ではなぜこんなにもはっきりとシルエットが見えるのだろうか?
それはひとえに、ヨシュアが何一つ荷物を持っていないためであった。
武器なし。防具なし。バックパックなし。その他あったら助かるもの、全てなし。
「おはよう」
「……おはようございます」
ヨシュアの足が、リリエリから三馬身ほど離れた位置で止まる。丁度その時太陽が水平線から顔を出し、さっと辺りを光で染め上げた。
わかる。はっきりと見える。
この男、本当に何も持ってない。
より正確に言うと、腰元に小さいベルトバッグが下げられているものの、それもリリエリの握りこぶしが二つ入るかどうかといったサイズ。とても役に立つとは思えない。飴でも入れてんのか?
「ヨシュアさん、あの、武器は」
「ない」
「防具とか」
「必要ない」
「荷物……」
「……必要だったか?」
必要じゃないのだろうか。逆に。
S級ともなると荷物なんていらないという域に達するのか?
リリエリはふとヨシュアと初めてであった時のことを思い出した。
小エルナト森林で行倒れていた男。ろくな荷物も持たず、血だらけで眠っていた男。
てっきり過酷な旅を経て行き着いた果てがあの姿なのだと思っていたのだが。……この男、荷物の一つも持たずに壁外に出ていたのか?
「……本当に必要、ないんですか?」
「……たぶん」
せめてそこは断言してほしいな、とリリエリは思った。
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