第9話 敵国の王子同士

 ミケの髪と軍服には、水滴が付いていた。

 やはり雨が降り始めたのかと思いつつ、私はそれをハンカチで拭う。

 窓辺から移動して膝の上に乗ってきたネコは、また前足で顔を洗っている。

 ネコがトラちゃんに好意的ではないのは、彼が私を刺した張本人だからだった。

 ミケの剣幕に驚いた子ネコ達はネコのお腹の下に潜り込み、じっと観察している。

 ミケと……彼と対峙する、トラちゃんを。


(い、胃が痛い……)


 ミケが侍女も衛兵も下がらせてしまったため、部屋の中の人間は彼とトラちゃんと私の三人だけになっていた。

 元敵国同士の王子達が、テーブルを挟んでそれぞれソファに腰を下ろす。

 問答無用でミケの隣に座らされた私は、緊迫の状況に戦々恐々とした。


(この世界に来る前の私だったら、きっと胃に穴が空いてた……)


 しかしながら、今の私は一味違う。

 異世界転移中にネコの細胞が混ざったせいか、少々図太くなったのだ。

 私は、壁際に置かれた時計を目にして果敢にも挙手をする。

 時刻は、正午を過ぎていた。


「あのー、ミケさん。ちょっと、いいですか?」

「……なんだ」

「提案なんですけど……せっかくですので、一緒にお昼ご飯食べません?」

「……タマは腹が減っているのか?」


 ミケは、そんな気分になれないと言いたげな顔をする。

 それでも、私の話を一蹴しようとはしなかったため、遠慮なく続けた。


「私とトラちゃんは時間の融通がききますが、ミケは難しいでしょう? お昼を食べ損ねたミケが、お腹を空かせたまま午後の仕事をする光景を想像すると……」


 ここで、私の脳内にて、人間のミケがマンチカンのミケに置き換わる。

 脳内の彼はお腹をグーグー鳴らしながら、短い前足で一生懸命書類にサインをし続けていた。その切ない表情に、たちまち打ちのめされた心地になる。

 私は、隣に座るミケの金髪をなでなでしながら叫んだ。


「か、かわいそうすぎる──ひどい! そんなの、鬼畜の所業ですよ!」

『やっかましいぞ、珠子ぉ! 情緒の忙しいやつじゃな、まったくっ!』

「いったいどんな想像をしたんだ……」


 ネコには呆れられてしまったが、ミケは毒気を抜かれたような顔になった。

 トラちゃんは、じっと私を見つめている。

 ともあれ、私の意見も一理あると思ったのか、ミケは小さなため息とともに言った。


「そうだな……食うか」


 こうして、非公式ながらベルンハルト王子とラーガスト王子による初めての会食が始まった。

 いや会食どころか、トラちゃんが王宮に軟禁されてからすでに半年経つが、ミケがここに顔を出したのも初めてである。

 理由は、トラちゃんの取り調べを将官に一任していたから、国政に関わっていなかった彼が有用な情報をほとんど持っていなかったから、というのが表立ったものだが……


『この小僧は珠子を刺した張本人じゃ。そりゃあ、足も遠のくじゃろうよ。我だって、こいつの顔など見たくもないわい』


 膝の上のネコが、相変わらず不機嫌そうに呟いた。

 一緒に食卓を囲むと言っても、和気藹々とした雰囲気には決してなりえない。

 けれども、こうしてミケとトラちゃんが揃ったのを見ると、思う。


(ナイフが刺さったのが、私でよかった……)


 こんなことを口にしたら、きっとミケに怒られてしまうだろう。

 おそらくは、私の母を自任するネコにも、刺した本人であるトラちゃんにも。

 私自身、刺された時の痛みも恐怖も覚えていないから言えるのだとも思う。


(でも……もしもミケが刺されていたら、トラちゃんはあの場で即刻断罪されていたかもしれない)


 まだ親に庇護されているべき年齢の子が、戦争の矢面に立たされて犠牲になるなんて、あまりにも悲しいことだ。

 そんな決断をミケにさせずに済んだこと、もちろんミケ自身が傷付かなかったことを思うと──


(ちょっとだけ……ちょっとだけ、この傷跡が誇らしい)


 無意識に服の上から左脇腹の傷跡を摩る私を、ネコが見ていた。

 ミケも何か言いたそうな顔をしたが、その手元に目を止めた私が口を開く方が早かった。


「ミケ、チーズとマリネだけですか? えええ……もっと載せましょうよ! 牛とか豚とか鶏とか!」

「いや、肉ばっかりだな。こういうのはな、載せ過ぎると巻く時に困るんだぞ」

「あっ、トラちゃんも! フルーツしか載せてないじゃない! 意識高い系女子なの!?」

「意識高い系って? タマコは欲張っててかわいいね。いっぱい食べて?」


 王子二人の繊細そうな手巻きサンドとは対照的に、私のはたっぷりの燻製肉に始まり、生野菜やクリームチーズのディップ、ゆで卵のスライスが幅を利かせている。

 メンズのが細巻きなら、私のは極太巻き……というか、そもそもこれは巻けるのだろうか。

 ミケもトラちゃんも、生粋の王子様というだけあって余裕も品もあり、私は自分一人だけがっついているのが恥ずかしくなった。

 一方、がっついていると言えば……


「タマ、あいつらはいったい何を騒いでいるんだ?」

「何か……追いかけてる? でも、何かいるようには見えないけど……」


 二人の王子の視線が、いつの間にかネコのお腹の下から出ていた子ネコ達に集まる。

 彼らはミーミー鳴きながら、あちこち駆け回っていた。

 私が今さっき、ミケをなでなでしたついでに取り除いた黒い綿毛がふわふわと舞うのを追いかけているのだ。


『出勤前に珠子が散々払ってやったのに……こいつ、半日でもうこんなに溜め込んできたのかい』


 ミケが置かれたブラックな状況に、さしものネコも呆れたように言う。

 そんなネコだが、基本的には自身のフェロモンが効く相手からしか負の感情を摂取できない。

 ただし、ミケ、トラちゃん、ロメリアさんのそれに関しては、私が黒い綿毛の状態にして体から引き離すことで可能となった。


 しとしとと雨の音が聞こえてくる。

 ミケは、欲張り過ぎた手巻きサンドに四苦八苦する私を面白そうに眺めていた。

 しかし、紅茶が適温になるとそれで唇を潤し、トラちゃんに向き直る。


「お前、タマを呼び寄せるためにわざと食事を抜いたな? そうすれば、世話係の侍女からタマに相談が行き、タマもそれを無視できないとわかっていたんだろう」

「あはは、バレちゃった。だって、タマコと一緒にいたかったんだもの。あなたまで来るとは思わなかったけど……」


 さっさと食事を終えた王子達が、しばし無言のままお互いを見据える。

 先に動いたのは、トラちゃんだった。

 彼はテーブルの上に片手を突いて身を乗り出し、ねえ、と口を開く。


「僕は、いつまでここでこうしていればいいのかな」

「戦後処理が落ち着くまでだな。今はここで大人しくしているのが一番安全だということくらい、お前自身もわかっているだろう」


 敗戦により王政が崩壊したラーガスト王国では民衆が蜂起し、国王や王太子をはじめとする王族が軒並み処刑された。

 そのため、国王の直系で生き残っているのは、もはやトラちゃんただ一人だという。


『ふん……皮肉なことよ。この小僧は、敵国の捕虜になったおかげで、一人だけ生き残ったんじゃから』


 ネコは吐き捨てるように言うと、私の膝の上で丸くなった。

 王政に恨みを持つ国民から命を狙われる可能性があるため、トラちゃんがベルンハルト王国で捕虜をしている方が安全なのはわかる。


(でも、見張りとか時間制限をつけたりして、もう少し自由に過ごさせてあげてほしいな……)


 そう思ったが、口に出さなくてよかった。

 この後ミケが続けた言葉で、私は自分の考えが浅はかであることを思い知る。


「この王宮とて、必ずしも安全とは言えん」


 彼は胸の前で両腕を組み、視線をトラちゃんから宙に逃して続けた。


「戦争で傷ついた者や家族を失った者が、ベルンハルトにも大勢いるからな。彼らがラーガストに……その王子であるトライアンに憎しみを抱く権利を奪うことは、私にはできない」


 戦争を先に仕掛けたのは、ラーガスト王国である。

 その凶行が末王子の望むところではなかったとしても、ベルンハルト王国の人々は怒りの矛先を向けるだろう。

 ミケは深いため息を吐き、トラちゃんに視線を戻した。


「我々は、お前を生かすと決めてここに置いている。よって、もしもお前の命を脅かす者が現れれば戦わねばならない。それが……ベルンハルトの人間であったとしてもな」


 敵国の王子を守るために、同胞同士が戦う。

 ミケにとっては何としても避けたい事態であろうことは、確かめるまでもない。

 私は丸まったネコの背中を撫でながら、うんうんと頷いた。

 

「そっか……トラちゃんの軟禁は、トラちゃん自身を守るためでも、ベルンハルトの人達を守るためでもあるんですね」

「そういうことだ」


 そんな私とミケの会話を、トラちゃんはじっと黙って聞いていた。

 彼にも言い分はあるだろうが、それを必死に呑み込もうとする姿は見ていて苦しくなる。

 自然と唇を噛み締める私の横で、ミケはまたもう一つため息を吐いた。

 そして、近々伝えようと思っていたことだが、と前置きして続ける。


「トライアン・ラーガスト──お前の母親についてだが」


 弾かれたみたいに、トラちゃんが顔を上げた。

 それを真正面から見返して、ミケは淡々と告げる。


「彼女は無事だ。ラーガスト王国内に設けたベルンハルトの総督府にて保護しているとの報告が上がっている。何も心配することはない」


 思わぬ朗報に、私はよかったねとトラちゃんに声をかけようとした。

 しかし、すんでのところでそれを呑み込む。


「そう……そうなんだ……あの人は、生きているんだね……」


 はあー……と、トラちゃんは肺が空っぽになるくらい長い長いため息を吐いた。

 それが、単に母の無事が判明して安堵したからというよりは、何だかもっと複雑な気持ちが込められているような気がして、胸がざわざわする。

 思わずミケの顔を振り仰ぐが、彼は小さく肩を竦めて見せただけだった。

 そうこうしているうちに、ミケがここにいるのを把握していたらしい侍従長が、お茶のおかわりを持ってきてくれた。

 とたんにネコが飛び起き、顔を輝かせる。


『極上のランチ、キタコレー!!』


 今日も今日とて、侍従長はネコ達に大人気だ。

 あんなに不機嫌そうだったネコが、にゃあんにゃあん、とかわい子ぶった声を上げて飛び付いていく。

 もちろん、子ネコ達も一斉にそれに続いた。


「ちょっとちょっと! ポットを持っていらっしゃるから危な……」

「うふふ……いやはや、ポットが邪魔ですな」


 ネコ達にメロメロになった侍従長は、今にもポットを放り出しそうだ。

 それを阻止しようと慌てて席を離れた私は、知らない。

 ミケとトラちゃんが、この時どんな会話をしていたのかを──


「敵味方は関係なく、一人の大人として、お前のような子供が不遇な目に遭うことを心苦しく思うし……できることなら、健やかに過ごさせてやりたいと思う」

「子供扱いしないでもらいたいんだけど」

「実際、子供だろう。しかし、そうであったとて許せないことはある──タマを刺したこと、これだけは」

「……それは、僕自身もそうだ。一生この罪を忘れないよ」

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