第28話

   

「それにお水を飲ませたら飲ませたでおしっこも出ちゃうわよね」


 のっぴきならない状況とは言え、高校生の男子が看護師でも親兄弟でもないクラスメートの女子にシモの世話はされたくないだろう。もしも大輔に薄っすらとでも意識が残っていたら、これを理由にもっともっと深い眠りに落ちてしまいそうだ。起きる事を拒否されてしまいそうだった。


「私は別にヤブサカデナイ……は『積極的にやりたい』って意味だったかしら。そうじゃなくて。ええと。『やってあげてもいいわよ』的な日本語は無かったかしら」


 大輔ならすぐに「それだったら」と答えてくれそうだと知世は思った。


「真田君は博識だものね」


 懐かしむように目を細めてしまった後、知世は慌てて首を振る。


 まだ何も終わってはいないのだ。真田大輔は今、知世の目の前に居る。


「……心臓も動いてる。息もしてる。冷たくもなってない」


 昨日の夕方から今朝まで十数時間も様子を見たが大輔の容態に変化は無かった。


 良くはなっていないが悪化もしていないように見える事が救いと言えば救いか。


 だからと言ってこのまま知世の自室では預かり切れない。


 真田大輔をお人形さんみたいに寝かせてはおけない。椅子に座らせて飾ったりだのクローゼットの奥にしまったりだのも出来ない。捨て猫みたいに隠しつつ育てる事も無理だ。


「真田君は真田君の自宅におかえりいただくしかないのよね」


 当然、この状態の大輔を担いで真田家にお届けするわけにはいかない。知世の細い体では筋肉で重い大輔を支えながら歩く事は出来ない――といった意味ではなくて、事情を知っていながらも知世では真田家の方々に説明が出来ない、合わせる顔がないという事だ。


「真田君の自宅の場所も知らないし」


 連れてはいけない。大輔には大輔の足で自宅まで帰ってもらうしかない。


「すぅー……、ふぅー……」と深呼吸をひとつしてみる。


「昨日の夜」はもう上書きされてしまっているから、そこに戻っても真田大輔は長崎宅の知世の部屋に居る。目指すは「一昨日の夜」だ。


 宮下ワタルの自殺を阻止した翌日だ。知世が「痴漢に襲われそうになった」というテイでリセットをしてしまった夜だ。


 ――リセット。


 知世は自宅マンションのリビングに居た。


 母親は奥のキッチンで知世がリクエストした豚肉のピカタを作ってくれていた。


 しばらくして父親がお土産にケーキを持って帰ってきた。


 時計の針は7と8の間で重なっていた。


 知世も母親も食事はもう済んでしまっていた。


 父親からは「遅くなりそうだから先に食べてて」とのメッセージは送られていたが「ケーキを買って帰る」とは書かれていなかった。


「普通にゴハンも食べちゃったし。夜も遅いからケーキは明日もらうね」


 知世は「ケーキがあるってわかってたらゴハン軽めにしておいたんだけど」と白々しい言葉を上手にかたって自室に戻る。


 知世はスマホを手に取った。時刻は午後8時31分。画面を見詰める。32分。充電の残量をチェック。33分。電波状況をチェック。34分。マナーモードになっていないかを見る。35分。着信音のボリュームを上げる。36分。画面を見詰める。37分。画面が消える。38分。消えた画面に触れる。触れる。触れる。39分。また画面が消えてしまわないように数秒に一度のペースで触れ続ける。40分。


「59、58、57……」


 知世は呟き始めた。気持ちがはやって2秒の間に「56、55、54」と3つもカウントしてしまったりとしていた。


「――60。あら? まだ40分?」


 その十数秒にスマホの時計は「8:41」を表示した。


「…………」と知世は押し黙ってスマホを見詰める。じっと見詰める。


 見詰め続けていると「8:42」に変わった。


「はあ……」と溜め息。


 ……大輔からの着信は無かった。


「前」は「8:41」に電話があった。着信履歴にも残っていた。


「……もしかしたら。なんて。思ったりもしたけど」


 やっぱり「真田大輔は動いていない」のだと知世は思った。


 よくよく考えてみればリセット前の記憶が残る大輔だから無事に目を覚ましていたとしても「前」と同じ行動を取るとは限らないのだが、今の知世にはよくよく考える余裕など無かった。


 知世は考える。


「真田君は今頃どうしてるのかしら」


 今回のリセットで戻った先は、大輔も学校からは帰っているはずの時刻だった。


 真田家の生活サイクルは分からないが知世の家では夕飯の直前だった。


 大輔も知世と同じようにリビングに居ただろうか。それとも自室だろうか。


 リビングに居れば「動かない」状態の大輔をすぐに家族が発見してくれるだろう。


 自室に居たとしも「ご飯よー」と呼びに来た母親なりに見付けてもらえるだろう。


「動かない大輔」を見たら大輔の御家族はきっと驚いてしまう事だろう。


「改めて申し訳ないと思うわ」


 大輔を線路に突き落としたのは知世ではなく、むしろ即死だった大輔をリセットで助けているわけなのだが、結果として命だけしか救えていない現状に却って罪悪感のようなものが募っていた。


「真田君の様子を見てすぐに救急車を呼ぶかしら。心臓も動いていて息もしてるから一晩は様子を見るかしら」


 どちらにせよ今日明日には病院に連れて行ってもらえるだろう。病室でなら餓死もシモの世話の心配もせずに眠っていてもらえる。「日にち薬」が効けば、そのうちに大輔も目を覚ますかもしれない。


「だいじょうぶ。きっと、だいじょうぶ」


 知世は小さく唱えた。


 次の日。大輔は学校に来なかった。


 休み時間になると宮下ワタルから「長崎さん」と声を掛けられた。


「真田君、どうしたんだろう。何か聞いてる?」


「いいえ」と知世は首を振る。


「そっかあ。長崎さんなら知ってるかと思ったんだけど」


 宮下ワタルの言葉に知世は一瞬だけ「え?」と思ったがその表情から察するに深い意味は無さそうだった。


 宮下ワタルは知世が引っ掛かった事には気付いていない様子で話し続けていた。


「昨日は普通に来てたけど。一昨日、おれが……アレして受け止めてくれたときに、やっぱ、どっか痛めてたりしたのかな。それで病院に寄ってから来るんで遅刻とか」


「昨日も一昨日も真田君は元気にしてたから。宮下君に関わって怪我をしたりはしてないと思うわよ」


「そうかな」


「ええ。ただの寝坊で遅刻してるだけかもしれないし」


「真田君が? そんなことあるかな」


「学校に来る途中でお腹を壊して駅のトイレに閉じこもってるとか」


「はははっ。ナイでしょ。真田君だよ?」


 宮下ワタルの笑い声に応えて知世も「うふふ」と微笑んだ。


 本当に「そんなこと」だったらいいのに。


 でも「そんなこと」ではないと知世は知っていた。


「真田君だったら……登校途中で遭遇したひったくり犯を取り押さえて、引き渡した警察に事情を聞かれてたから遅刻とか。道端で倒れてたお婆さんを背負って病院まで運んでたから遅刻とか」


「あら。真田君てそういうイメージ?」


「あは、はは……。前はもっとクールなヒトだと思ってたけど。実際、おれは助けてもらっちゃったから。いざというときには熱血な感じかなあと」


「へえ……」と知世は本気で感心してしまった。宮下ワタルは、


「あ、おれがそんなふうに言ったこと、真田君本人には言わないでよ? ほんとに」


 まるで恋する乙女みたいに顔を赤らめていた。



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