SilverRing
月神 奏空
第1話
ちなみに、晴陽は帰るという言葉を使っているが空音の元へという意味ではない。二人は別居婚だった。
初めは晴陽が空音の借りているアパートへ引っ越してくるという予定だったのだが、空音の幼なじみであり大親友の
「ソラー、今日のご飯なあに……?」
窓越しに梓が問いかけてくる。咥えタバコで左手にスマホを持ち右手で晴陽に《気を付けて》と返信し、スーパーのチラシを表示する。そして右手の人差し指を親指で弾いてから親指以外の4本の指を折り曲げて指先を顎の下に当てる。少し待ってて、という手話だ。
「りょうかーい。じゃあ先にシャワーしてくるね」
全体的にサイズの小さい紅月は、新機種になる度に大きくなっていくスマホを片手で操作できなくなってしまった。両手を使うのでほぼ必然的に咥えタバコになる。スマホに夢中になりすぎて灰皿に灰を落とすのも忘れ、風に煽られた灰が顔に飛んでくることはしばしばある。
「んー……」
安売りになっているものを見てもイマイチ心躍るものがない。しばらく悩んでから一週間分の献立を自動で作成してくれるアプリを開いた空音はタバコを灰皿の中で揉み消し、一度スマホをポケットにしまってくるりと振り返って恐らく部活終わりと思われる高校生達をぼんやりと眺める。元気いっぱいに笑い声を上げながら歩く姿を見ているとふと(ああ、肉がいいな)と思い至った。新しいタバコを咥えてオイルライターで火をつけ、パチンと蓋を閉める。ポケットからスマホを取り出して献立アプリを開いてスクロールしていく。ぴたりと指を止めてから画像をタップしてレシピを見つめる。左手にスマホを持って右手の人差し指と中指でタバコを挟み、細く長く紫煙を吐き出す。ゆっくり一服を済ませて部屋の中を覗くといつの間にか相当な時間が経っていたようで梓は既にシャワーを終えて戻っていた。
「アズ。今日生姜焼きでいい?」
ベランダから部屋の中へと戻った空音は梓から消臭スプレー攻撃を受ける。タバコの臭いが嫌いな梓の攻撃はほぼ毎度のこと。顔にかからないように手で覆うのも慣れたものだ。空音は大人しく消臭スプレーを浴びながらその場で一周する。続けて何本か吸ったためかいつもより念入りに消臭されている気がする。
「豚?」
空音を甘めのフローラル系の香りに変えた梓が問う。空音は少し迷った様子を見せてから首を横に振った。
「鶏むねだな」
「それなら喜んで」
1キロだったか2キロだったか、少しだけ体重が増えたらしい梓はヘルシーなものがいいようだ。そんなの誤差の範囲だろうと空音は言い聞かせたが、ぽっちゃりとした体型がコンプレックスな彼女にとっては体重増加は恐ろしいものらしい。学生時代、どうしても減らない体重に悩んでいたことのある空音もその気持ちはわからなくはないので少しでもヘルシーな料理を選んであげることにした。
冷蔵庫のチルド室から鶏むね肉を出す。繊維を断ち切るようにそぎ切りにして塩コショウを振って片栗粉をまぶす。玉ねぎはくし型に切っておく。めんつゆとみりんを合わせてチューブの生姜とにんにくを入れてよくかき混ぜる。フライパンに油を引いて、肉を焼いていく。両面に焼き色がついて火が通ったら一旦皿に移して玉ねぎを炒める。玉ねぎがしんなりしてきたらたれと肉をフライパンに入れて炒め合わせ、味が馴染んだら完成。
千切りにしたキャベツとミニトマトと合わせて皿に盛り付けてテーブルに置く。木綿豆腐の冷奴と朝に作っておいたナスの味噌汁も並んだところで梓が茶碗にご飯をよそう。
「ソラ、このくらい?」
梓が普段自分が食べる分の三倍をよそって、量を見せながら問いかける。空音は冷蔵庫から缶ビールを出して蓋を開け、タンブラーに注ぎながらちらりと見ただけでこくこくと頷いた。どれだけよそったとしてもどうせおかわりをするからと雑に返事をしがちである。
空音は平均より身長が低いだけではなくほっそりとした体つきをしていてか弱くさえ見える体格だが、とにかくよく食べる。白いご飯はとにかく大好きで茶碗一杯で済ませるなんて有り得ない。おかずよりもご飯をたくさん食べるので、ご飯はいつも多めに炊いてある。
学生時代の空音は梓よりもずっと太っていて、体重だけで言っても現在の倍はあった。運動が苦手なこともあってころんころんとまん丸体型だった空音だが、実家を出て一人暮らしを始めてから激痩せして今の体型になったのだ。それからあまり太らなくなったとのこと。梓は羨ましいと口では言っていたが、不健康な痩せ方をした空音と同じことをするつもりはない。
空音が激痩せしたのは単純によくご飯を食べ忘れたからだ。何か作業をしているとついつい夢中になって、食事を摂るのが面倒になり後回しにする。すると、自分が食事をしていないことをうっかり忘れて一日を終えることだってあった。大好きな親友の梓がそんな不健康な痩せ型をするなど決して許さない。空音はしつこいくらい何度も梓にそう言ってきた。
梓は空音を怒らせないよう、空音に嫌われないよう、絶食は決してしないと誓ったのだ。
空音は梓のご飯の量を「そんなの3口で食べ終わる」と揶揄するが、彼女が大食いの人物にありがちな例えをしているだけであって、成人女性として最低限の量はきちんと摂取している。空音が食べ過ぎなだけだ。
「にんにく多め?」
ふわりと香ってくるにんにくの香りはいつもより強めだ。就労支援事業所【はぐっと。】でミスが続いてしまった梓は少し気分が落ち込んでいて食欲も落ちていたが、そんなことにも関わらず思わず溢れそうになる涎を飲み込んだ。
「アズ、今日ちょっと元気ねえから食いたみねえかと思って味付け変えてみた」
こうやってご飯に乗せてみな、とたれを掬いながら1切れをご飯に乗せる空音。梓も真似をしてご飯に乗せる。そして鼻腔をつく匂いであることに気が付いた。
「ちょっと待って、ごま油?」
「正解」
空音と梓、2人共大好きなにんにくとごま油の組み合わせ。落ち込んでいたことなんてすっかり忘れて夢中になってぺろりと平らげる梓に、空音は満足気に微笑んだ。
たっぷりとたれを絡めた肉にかじりつき、大きく口を開けてご飯を梓の2口分口に運んで頬を膨らませながら咀嚼して飲み込む。うんうん、と頷きながら肉をご飯の上に置いて千切りキャベツを食べた後、肉とご飯を一緒にかき込む。唇の端から溢れたたれを指で拭ってぺろりと舐め、ゆっくり味わってから味噌汁を飲む。
あまり行儀が良いとは言えないが、豪快な食べ方は見ている方もいっそスッキリする程だ。
あっという間に大盛り1杯のご飯を平らげ、おかわりをするために立ち上がる。タンブラーに注いだビールには一切手をつけていない。
料理を終えると空音はビールを出すのだが、ご飯を食べ終わるまで呑むことはない。呑む時に出せばいいんじゃないかな、と梓は何度か提言したことがあるのだが、もうすっかり習慣になっているようだし、本人がいいならいいかと指摘することをやめた。
大盛り2杯のご飯を平らげてからグビグビと喉を鳴らしてビールを呑み終え、ぷは、と息を吐いた。
「相変わらずいい食べっぷりといい呑みっぷりだねー。泡ヒゲついてるよ」
梓は頬杖をつきながら空音の口元を指差して笑う。ぺろりと舌を出して舐めとって、空音は冷蔵庫にしまっておいた缶の残りをタンブラーに注いだ。
「ねえ、ソラ。どうしてもっと晴陽サンに来てもらわないの?」
梓の問いかけに、空音はぴたりと動きを止めた。
梓は空音のアパートに泊まる日の方が確かに多い。しかし毎日泊まっているわけではない。自分がいない時には晴陽に泊まりに来てほしいと思う梓はほとんどの日を1人で過ごしているのを知ってから何度も問いかけた。
「そう頻繁に来てもらうくらいなら同居した方がいい」
そして毎回同じ答えが返ってくる。梓はゆっくりと瞬いて、いつもは踏み込まずにいたがついに耐えられなくなって聞くことにした。
「じゃあ、どうして同居しないの?」
梓が晴陽に対抗心を燃やし、敢えて生活を変えずにいるのはただの嫉妬からだ。だけど、空音が望むならいつだって泊まりに来るのをやめる。晴陽の方がいいというのならもちろん尊重する。彼女が幸せになれるのが梓にとって一番大切なことだから。それは空音だってよくわかっているはずなのに。
「まだ覚悟がないだけだよ」
自嘲を含んだ声色。梓は更に踏み込む。
「結婚したのに?」
「結婚、したから」
珍しく、空音は梓から露骨に顔を背けた。これ以上の言葉を聞くことはまだできない。梓は食器を重ねて両手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」
ごくり。ビールを飲み込んだ空音の喉の音が、やけに大きく響いた。
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