第32話   父と子

 夜一に怒りを向けられた円清は涼しい顔をしていた。


 落ち着け、と柔らかな声で夜一を宥めてベンチに座らせる。


「その剣幕から察するに番組のネタじゃなかったようだな。夜一、お前は本気で声優を目指しているのか?」


「うん、俺は父さんのような声優になりたんだ」


 夜一は強く言い放った。


「だって俺が声優というか役者という職業に興味を持ったのは、父さんが書いた「みちおくんになる方法」だったんだよ。それに小学生の頃、一人のクラスメイトに児童劇団に誘われた。そのクラスメイトは早口言葉を空ですらすらと言えるほど凄い奴だった。だから劇団に誘われたときは嬉しくて急いで家に帰って母さんに頼んだんだ。僕も児童劇団に入りたいって」


「美樹は許さなかっただろう?」


「これでもかってぐらい思いっきりビンタされた。ついでにお前には役者の道には足を踏み入れてほしくないからって、中学のときには演劇部に入部することも許されなかった」


 厳密に言えば演劇部に入部することは高校でも禁じられている。


 それほど美樹は声優だった円清を未だに恨んでいるのだろう。


「それって俺のせいだよな?」


「ほぼ百パーセント。だからって俺は父さんのことを恨んでいないよ。それどころか、あの件のお陰で叔母さんから聞くことができたんだ。母さんから父さんは病気で死んだって聞かされていた俺には衝撃的だったよ。俺の父親は生きていて声優をしている上里円清だって。俺の父親は『破天荒勇者みちお』のみちおに声を吹き込んでいた凄い人なんだって」


 とにかく、と夜一は握り込んだ右拳を円清に向けた。


「その頃から俺は絶対に声優になると決めた。だから高校を卒業したらすぐに専門学校か養成所に通……いたいところだけど我慢して就職するよ」


「おいおい、声優になりたいと宣言した後に就職するってどういうことだ?」


「単純に金銭問題。学費を稼ぐために一旦就職しようと思っているんだ。母さんは誰かのせいで役者嫌いになっているから当てにできないしさ」


「だったら父親である俺を頼れよ。養成所に通うだけの学費は出してやるさ」


「出してやるって簡単に言うけど、必要なお金は養成所の学費だけじゃない。東京に住むための家賃や光熱費なんかも――」


「お前、俺の年収が幾らか知っているか?」


 円清は身を寄せてくると、夜一の耳元で自分が一年で稼ぐ金額を囁く。


 一瞬、夜一は意識を失いそうになった。


 月五千円の小遣いで日々をやりくりしていた夜一にとって、円清の年収は驚きを通り越して恐怖すら覚えるほどの大金だったからだ。


「どうだ? これで俺を頼る気になったか?」


 さすが二十五年間も現役で活躍している声優は違う。


 俗に声優は食えない職業と言われているが、その中にベテラン声優は含まれないらしい。


 しかも円清は血の繋がりのある実父だ。


 ここで甘えても罰は当たらないだろう。


 などと思ったのは数瞬だけ。すぐに夜一は小さく頭を左右に振った。


「止めておくよ。やっぱり学費ぐらいは自分で稼ぐ」


「なぜだ? 法的には他人でも実の父親が金を出してやると言ってるんだ。子供だったら素直に甘えておけ」


「いや、ここで甘えたらどこまでも甘えてしまうような気がする。だから嬉しいけど父さんの申し出は断るよ。ボクサーもハングリー精神が強い人間のほうが成功すると聞くしね。それに父さんにはラジオ放送部の番組にゲスト出演してくれただけで十分さ」


「血の繋がった息子の頼みだったからな」


 不意に円清は左手首に嵌めていた腕時計を見た。


 どうやら約束の五分が経過したらしい。


 円清は「よっこらせ」と親父臭い言葉を吐いて立ち上がる。


「まあ、俺を頼るかどうかはゆっくりと考えるんだな。高校卒業まで三年あるんだ。その間に気が変わったらいつでも連絡してこい」


「もう父さんの事務所に電話をかけるのはこりごりだよ」


「じゃあ、お前のスマホ貸せ。いい機会だからラインを交換しよう。父さん、ようやく最近になって覚えてな」


「最近になってかよ」


 夜一は円清に自分のスマホを渡した。


 すると円清は新しい玩具を与えられた子供のような顔で互いのラインを登録する。


「これで親子の絆がより一層深まったな」


「普段から滅多に会えないのに絆も何もないと思うけど」


「夜一、父親じゃなくて一人の声優として忠告してやる。あんまり人の揚げ足ばかり取っていると大人になって苦労するぞ。特に声優は上下関係に厳しいからな。間違っても先輩にそんな口を利くなよ」


「これでも声優に関する本は何冊も目を通したんだ。声優業界が実力主義の縦社会ぐらい知っているさ」


「実践に勝る勉強はない。これも一人前の声優になる条件だから覚えておけ。それと――」


 円清はにやりと笑った。


「さっきの朗読は恐ろしく下手だったぞ。起承転結も何もなかった。あれではモデルのジャック・マイヨールが天国で悲しむ。唯一、及第点だったのはアドリブで尺を持たせたことと、タイトルの二つだけだな。朗読するために必要な声とジャック・マイヨールが愛した海をかけて声の海という題名にしたんだろう」


「父さんには分かったの? あれがジャック・マイヨールをモデルにしたって」


「分からいでか。俺がパーソナリティをやっている番組でもお前に言っただろ? 何かしらの困難に陥ったときはジャック・マイヨールの本を読んでみろって。それとも、あの回の放送を聴いてなかったのか? ラジオネーム・朝一番さん」


 夜一は口から心臓が飛び出るほど仰天した。


 どうして円清が自分の使用していたラジオネームを知っているのだろう。


〈上里円清のボイス・クリニック〉のメールフォームには、本名や住所を記載する項目はなかった。


 あったのはラジオネーム、性別、メールアドレスなど個人情報が分からないよう工夫されていたメールフォームだった。


「何を驚いている? お前、他のアニラジにも同じペンネームとメールアドレスでメールを送っていただろう。中には本名と住所を記載する番組もあったんじゃないのか?」


「あったけど……それでどうして朝一番が俺だって父さんに分かるんだよ。まったく父さんには関わりのないラジオ番組だったのに」


「パーソナリティは違っても構成作家が一緒だったんだよ。お前が本名と住所なんかの個人情報を記載したラジオ番組と〈上里円清のボイス・クリニック〉の構成作家がな。それに数ヶ月前にゲームの公開オーディションで最終まで残ったそうじゃないか。それで構成作家がお前の名前を覚えていたのさ。もっとも朝一番がお前だと知ったのは最近だったけどな」


 世も末だった。


 まさか、そんな裏技がラジオ業界に存在していようとは思わなかった。


「また一つ勉強になったな。声優業界は横の繋がりも強いんだ。これに懲りず〈上里円清のボイス・クリニック〉にメールを送ってくれよ、ラジオネーム・朝一番さん。何たってラジオ番組は視聴者のメール数とアクセス数で持っているんだからな、ラジオネーム・朝一番さん」


「ラジオネームを連呼するのは止めてくれ! 実の父親に言われると恥ずいんだよ!」


「悪い悪い。久しぶりにあった息子を少しからかいたかっただけだ」


 円清は鼻息を荒げている夜一に手を振りながら歩き始めた。


「じゃあな、夜一。さっきも言ったけど、お前たちの番組がコンテストに入賞するよう祈っているよ。心からな」


「入賞するに決まっているさ。あれだけ一生懸命やったんだから」


「だといいな。入賞したらメールぐらいよこしてくれよ。俺がパーソナリティをしている〈上里円清のボイス・クリニック〉にな」


「それだけは絶対に断る!」


 夜一は円清の背中に向かって叫んだ。


 それでも円清は立ち止まらない。


 八天春学園から立ち去るために開いていた正門へ向かっていく。


「入賞したらメール送るよ、父さん。番組じゃなくてスマホのほうにね」


 夜一は自分の我がままを聞いてくれた円清に頭を下げた。


 こうして無事に八天春学園ラジオ放送番外編を録り終えた日から一ヵ月後。


 綾園市のホームページや地元の新聞紙に、綾園動画コンテストの入賞作品が掲載された。

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