第26話 本番開始
声優にとって経験は大事な要素の一つ。法律に違反するような行為は論外だが、様々な人生経験は必ず演技の肥やしになる。
それを円清は遠回しに伝えたのだ。
今回のゲスト出演はラジオ放送部のためではなく、自分の演技の幅を広げる機会の一つだと。
「他に質問は?」
しばしの沈黙の後、武琉は短く息を吸い込んで円清を注視した。
「あります。上里さんが今回の番組に出演してくださるにあたって、肖像権はすべてラジオ放送部にあると思って構いませんか?」
肖像権とは読んで字の如く、個人の顔や姿を写真や本などの媒体に掲載されることを拒む人格権の一つである。
著作権ほど知名度は高くないものの、今回の番組収録に至ってはその限りではない。
何しろ今回のラジオ放送は映像つきなのだ。
「君たちの番組を承諾したことが答えでは駄目かい?」
「いいえ、ワン(俺)としては上里さんの口から聞けたことで安心しました」
夜一は武琉が何に安心したのか理解不能だった。動画コンテストに作品を応募するだけで肖像権も何もないだろう。
これが受賞すれば話は別だと思うが。
「武琉、もういいだろう。あまり質問するのは上里さんに失礼ってもんだ」
「いや、これはどうしても直接訊きたかったことで――」
うるさい、と一喝するなり秋彦は円清に頭を下げた。
「すいませんね、上里さん。うちの構成作家が色々と口やかましくて」
「気にしてないよ。それよりも質問が終わったのなら収録しようか? 時間が押したら私よりも君たちが大いに困るのだろう」
「はい、それはもう。それでは上里さん、さっそくブースの中に移ってください」
円清は台本を片手にブースへ向かった。
さすが本物のラジオ番組のパーソナリティを務めている円清だ。
勝手したたる我が家のように足取りが軽やかである。
直後、秋彦は夜一と奈津美に顎をしゃくって見せた。
「夜一、奈津美。何をボケっとしている。お前たちもブースに入ってスタンバイするんだ」
部室内の時計に目をやると午後二時五十分を過ぎていた。
四時までに収録を終えなければならないことを考えると、不測の事態も考慮して一分でも早く収録を始めたほうがいい。
夜一は台本を持って立ち上がった。
「どうした?」
俄然やる気になった夜一とは対照的に、席に座ったままの奈津美は小刻みに全身を震わせていた。
青ざめた顔で下唇を噛み締めている。
「もしかして緊張して来たのか?」
好物の餌を奪われた小動物のように奈津美は夜一を見上げた。
「緊張せえへんほうがおかしいわ。あの上里円清さんと一緒にラジオやるんやで。そう考えたら急に身体が震えて来てもうて」
「公園で子供たちに歌って見せたときの度胸はどうした……なんて言ったところで無駄か。状況が状況で相手も相手だしな」
だが本番中も緊張で縛られていては収録に悪影響を及ぼす。
そのため、夜一は奈津美の心身を縛っていた緊張という名の鎖を外すために魔法の言葉を教えた。
「奈津美、ノーシンキンだ。今は収録を無事に終わらすことだけを考えろ」
「ノーシンキンって考えるなって意味?」
こくりと夜一は首肯した。
「余計なことは考えるな。むしろプロ声優の上里円清とラジオができることを楽しめ」
「せやけど……」
「ノーシンキン、ノーシンキン。俺たちは金をもらって仕事をするプロじゃない。だったら素人らしく全力投球しようぜ。な?」
夜一の励ましは多少の効果を生んだのだろう。
奈津美は「ノーシンキンか」と呟くなり、台本を持って颯爽と立ち上がった。
「そやな。うちらはプロやない。単なる素人や。せやったら全力で頑張らなあかんよな」
「その意気だ。さあ、ブースへ入ろうぜ」
「うん」
夜一は緊張の鎖を外した奈津美を連れてブースの中へ足を踏み入れた。
「あれ? どうして名護先輩も入ってくるんです?」
自分の席に座った夜一は、奈津美の後からブースに入ってきた武琉を訝しげに見た。
「今回、ワン(俺)はカメラマンも兼任する。昨日の夜に秋彦と相談したんだが、やっぱりカメラを固定して収録するより誰かがカメラを操作したほうがいいと思ってな」
「名護先輩、カメラマンなんてできるんですか?」
「相手にカメラを動かしてズームとアップを場面ごとに切り替えるだけだ。それに番組進行の指示は副調整室から秋彦がすべてやってくれる。だからワン(俺)のことは気にするな」
つまり、今回の収録は以下の配置で行うらしい。
―
― (奈)
(君) ― 机机机
(秋)―(円)机机机 【カ】(武)
― 机机机
― (夜)
―
この配置ならば三人の顔を映すことが可能だ。
またカメラを左右に操作すれば一人ずつに注目させることもできる。
夜一、奈津美、円清の三人は指定の席に座るとヘッドホンを着用した。
『おっほん。え~、僕の声はちゃんと聞こえますか?』
ヘッドホンを通して慇懃な口調で喋る秋彦の声が鼓膜を震わす。
「はいはい、部長の声は一言一句聞こえてます」と奈津美。
「大丈夫です。どう……いえ、何でもありません」と夜一。
「もう少しだけ音量を下げてもらえると助かるな」と円清。
『分かりました。本番はもう少しだけ音量を下げて収録します。では、本番前に改めて番組の進行確認を行いたいと思います』
秋彦は喉の調子を整えるために一つ咳払いする。
『今回の番組コンセプトは綾園動画コンテストに映像つきのラジオ番組を応募することです。収録時間は約一時間を予定していますが、一時間ジャストで終わらせる必要はありません。あくまでも目安と考えていてください。パーソナリティは朝霧夜一と門前奈津美。特に朝霧夜一がメインで番組を回して行きますのでよろしくお願いします。え~と、上里さんからは何か質問はありませんか?』
「私はゲストで来ている身だからね。番組進行はすべて君たちに任せるし、必要ならば指示にも従うから安心してほしい」
『ありがとうございます。それでは今から八天春学園ラジオ放送部番外編の本番収録を開始します。くどいようですが収録予定時間は一時間。そしてゲストに来てくださった上里さんの都合上、番組は基本的に休憩を挟まない一発録り。よほどのことがなければ中断しません。と言うか中断したときは収録失敗となりますから各自――特に夜一と奈津美の二人。お前ら絶対にとちるんじゃねえぞ!』
「部長、本番前にそんなこと言われたら余計にプレシャーかかりますって。なあ? 夜一君もそう思うやろ?」
「同感。ディレクターならパーソナリティの心情に気を遣う必要もあるでしょう? なのにパーソナリティの不安を煽るようなことを言ってどうするんですか。そんなことだとディレクター失格ですよ」
『うっ……この野郎ども。本番前になって急に一人前の口を利くようになりやがって』
次の瞬間、ブースの外で秋彦が両手で大きく「○」を作った。
『合格だ。その調子なら本番で馬鹿な真似はしないだろう』
秋彦がミキサーを操作したのだろう。
スタジオブースに設置されていたスピーカーから軽快なBGMが流れ始める。
(ノーシンキン、ノーシンキン)
秋彦の声を聞きながら夜一は複式呼吸を繰り返す。
さっきは奈津美に偉そうな口上を立てた夜一だったが、実は誰よりも緊張していたのは夜一本人だった。
少しでも気を抜けば意識が飛んでしまうような感覚が身体を支配している。
けれども意識を失っている場合ではなかった。
嘘でも冗談でもなく、今から映像つきのラジオ番組を収録するのだ。
ラジオ放送部が負った多額の借金を返すために。
(大丈夫、落ち着け。落ち着くんだ、夜一。台本は最初から最後まで読み込んだ。今日の体調も万全。喉の通りもいい。やれる。俺なら絶対に最後まで番組を進行できる)
『それじゃあ、そろそろ本番に行きたいと思います。本番十秒前。十……九……八……七……六……五……』
早鐘のように鳴り響いていた心臓の動悸が緩まっていく。
『四……三……二……』
絶対に番組を成功させるという強い意志が体内の奥底から沸いて来る。
『一……』
午後二時五十五分。
『キュー』
映像つきラジオ放送部番外編の幕が上がった。
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