第17話 声優を目指したキッカケ
朝霧夜一は子供の頃から一人で遊ぶことが好きだった。
サッカーや野球などは論外。
小学校で流行っていたカードゲームにも参加せず、図書室で借りた児童書を読んで日々を過ごしていた。
極度の人見知りだったわけでもなく、誰かに苛められていたからでもない。
ただ単に幼稚園から身についていた一人遊びの癖が抜けなかっただけである。
そんな夜一が同級生から疎外されるのは当然のことで、小学五年生のときには誰も夜一に話しかけてくる人間はいなくなっていた。
寂しいと思ったことはない。
様々な本を読んでいれば寂しさなど感じなかったからだ。
しかし、何年も同じ生活を続けているとさすがに飽きてくる。
とある日の土曜日。
すべての授業が終わった放課後、図書室で何冊かの本を借りた夜一はそのまま校舎裏に足を運んだ。
夜一が通っていた小学校の校舎裏には、情操教育の一環として設けられた多種多様の花が植えられている花壇があった。
読書には快適な場所である。
遊ぶスペースがないので人気もない。
グラウンドとは遠く離れているので大声を出しても誰かの耳に届くこともなかった。
だからこそ、夜一は密かに練っていた計画を実行した。
借りてきた本の内容を声に出して読み始めたのだ。
地の文はもちろんのこと、主人公やヒロインの台詞も一言一句飛ばさずに。
キッカケは『みちおくんになる方法』という一冊の本だった。
みちおくんとは十数年も続いている長寿アニメの主人公の名前だ。
普段はおっちょこちょいな駄目キャラだが、実は異世界から訪れる魔物と闘う戦士のみちおくんに夜一はただならぬ親近感を覚えていた。
なぜなら、小学生のみちおくんも学校では一人で読書をするキャラだったからだ。
みちおくんみたいに僕もなれるかもしれない。
タイトルからそう判断したものの、内容を読んだ夜一は眉間に皴を寄せた。
本の中身はみちおくんの声をあてていた声優の人生録だったのだ。
今まで読んできた血沸き肉踊る冒険活劇本とは打って変わり、声優の歴史から声優事務所を選ぶ方法が詳しく書かれた実用書を読むことは難解を極めた。
たとえすべての漢字に振り仮名がついていてもである。
その頃の夜一は歌舞伎などの旧劇とエンターティメントを追求した新劇の区別もつかない小学生だったのだ。
それでも夜一は最後まで『みちおくんになる方法』を読破した。
みちおくんの声優だった上里円清が語る声優事情は読み進めるごとに面白くなり、この本のお陰でアニメや海外の映画には声優と呼ばれる人たちが声をあてていると分かった。
それだけではない。
声優の練習法の一つとして書かれていた、活字を声に出して読むということに興味を惹かれたのだ。
なので夜一はさっそく実行に移した。
最初は当然の如く棒読みだったものの、次第に夜一はキャラに応じて感情を込めるようになった。
主人公は熱血漢で逞しく、ヒロインは声色を変えて女性らしく。
悪役に至っては裏声を使って皮肉たっぷりに演じていた。
いつしか夜一の遊びは読書から朗読に変わった。
大勢の前で披露するのは気恥ずかしかったので、校舎裏や空き地を選んで朗読に耽っていた。
もちろん、このときの夜一に朗読を披露するという考えはなかった。
活字を声に出して読む。その行為自体を純粋に楽しんでいたのだ。
けれども見ている者は見ているもの。
ある日、校舎裏で朗読に夢中になっていた夜一に興味を惹かれた少年が近づいてきた。
竜田功太郎というクラスメイトである。
「こんなところで何してんの?」
夜一は心臓が飛び出るほど驚き、不審者を見るような目で功太郎を睨みつけた。
「前々から変な奴だと思っていたけど想像以上に変な奴だな。クラスメイトに声をかけられたのがそんなに驚くことなのか?」
「いきなり声をかけられたら誰でも驚くよ」
唯一の趣味を目撃された恥ずかしさも相まり、夜一は図書室で借りた本を持って校舎裏から立ち去ろうとした。
「待てよ。お前、もしかして劇団にでも入っているのか?」
「劇団?」
夜一は足をぴたりと止め、ニキビが目立つ功太郎をちらりと見た。
「違うのか? 俺はてっきり劇団で出された朗読の課題を練習しているものと」
「え~と、竜田君だよね? 君は劇団に入っているの?」
「劇団と言っても八人しかいない小さな児童劇団だけどな。あ……そういや三日前に一人辞めたから今は七人か」
大人びた口調をしていた功太郎は花壇の縁に腰を下ろす。
「それでも演劇の練習はきちんとやるぞ。発声練習とか音楽に合わせて踊ったり、お前がやっていたような本の朗読をやるんだ」
功太郎は手招きして夜一を呼ぶ。
どうやら隣に座れと言っているらしい。
変な奴だと夜一は首を傾げた。
クラスで空気扱いされていた自分に対して、今さら積極的に近づいてくる人間がいるとは思わなかったからだ。
「いいから座れよ。演劇に興味があるんだろ。だったら俺が教えてやるからさ」
「ごめん。急な用事を思い出したから帰るよ。それじゃあ」
夜一は颯爽と踵を返し、昇降口に向かって歩き出した。
功太郎の顔と名前はクラスメイトなので知っていたが、だからと言って気さくに話せるような間柄でない。
加えて功太郎の勝気な態度がどうも自分の性と合わなかった。
「何だよ、連れないな。劇団に入ればプロの役者さんから本格的なレッスンを受けることもあるんだぜ。そうすればお前の朗読も今よりもっと上手くなるのに」
不意に夜一は歩みを止めた。ゆっくりと振り返る。
「それって僕の朗読が下手だってこと?」
突如、功太郎は腹を抱えて笑い出した。
「笑わせるなよ。まさか、あんな程度で上手いと思っていたのか?」
正直、夜一は思っていた。
少なくとも始めた頃よりは格段に上手くなっていると。
「これだから素人は……いいか? 朗読ってのは奥が深いんだ。お前のように声を出して読むだけが朗読じゃない。聞く人間の頭にイメージが湧いてくるのが本当の朗読なんだよ」
温厚な夜一もさすがに我慢できなかった。
頭の後ろで両手を組んでいた功太郎に人差し指を突きつける。
「じゃ、じゃあ、僕より上手いって証拠を見せてよ!」
「おいおい、いきなりキレんな」
「うるさい! いいから何か見せてってば!」
「そう言われてもな……証拠って何を見せればいいんだ?」
「何でもいいから!」
身も蓋もない言い方だったが、怒りを覚えていた夜一は一歩も引かなかった。
「それなら劇団で練習している発声の滑舌文でいいか?」
「滑舌文?」
「こんなやつ」
功太郎はニヤけていた表情を引き締めた。
「青巻紙。赤巻紙。黄巻紙。長巻紙。巻巻紙。紙巻紙。七五三。十五夜。七五調。八五郎。熊五郎。菊五郎。子鴨が親鴨の上。孫鴨が子鴨の上。巣鴨。駒込。駒込。巣鴨。菊栗。菊栗。三菊栗。合わせて菊栗。六菊栗。隣の客はよく柿食う客。向こうの客もよく柿食う客。うちの客もよく柿食う客」
夜一は口を半開きにしたまま唖然となった。
「どうだ? 中々すげえだろ?」
「凄い!」
功太郎が口の端を吊り上げると、夜一は先ほどの怒りなど忘れて叫んだ。
「それって劇団に入れば誰でも教えてくれるの?」
「これは発声練習用の滑舌文だって言っただろ。こんなもんウォーミングアップさ。劇団に入れば演劇についてもっと先生が教えてくれるぞ」
夜一は地面を蹴って功太郎に走り寄った。
「僕も劇団に入る!」
「近い近い。顔が近い!」
急接近した夜一を、功太郎はやんわりと突き飛ばす。
「そんなに俺のいる児童劇団に入りたいなら父ちゃんか母ちゃんを連れて来い。劇団の名前は〈シルバー・フォックス〉。毎週土曜の夜から市民会館を借りて練習しているから」
「土曜って今日じゃないか!」
「ああ、今夜七時三十分から練習する。だから来たいなら――」
「絶対に行く!」
夜一は図書室で借りた本をランドセルに仕舞って脱兎の如く駆け出した。
野球やサッカーに興じているクラスメイトたちには目もくれず家路を急ぐ。
小学校から住んでいたマンションまで約二十分。
夜一は一度の休憩も挟まずにマンションのエントランスに辿り着いた。
すかさずエントランスを抜けて二階へ。
重たい鉄扉を開けてリビングに向かうと、珍しく休みだった母の美樹と叔母の宏美が仲睦ましく談笑していた。
だが、今の夜一に二人の談笑など眼中になかった。
「お母さん! お願いがあるんだけど!」
開口一番、夜一は唾を飛ばす勢いで美樹に言い放った。
「藪から棒に何なの?」
「僕、習い事がしたい!」
「習い事? どうしてまた急に?」
目眉をひそめた美樹とは対照的に宏美は大きく頷く。
「いいじゃない。子供のときの習い事は大事よ」
「そう言えば私たちも子供のときに学習塾やプールに通わされたっけ」
美樹は小さく首肯した。
「いいわよ。それで何の習い事がしたいの? 夜一」
「児童劇団!」
夜一は満面の笑みで答えた。
「クラスの子の一人が児童劇団に入っているんだって! 確か劇団の名前はシル……まあ、いいや。とにかく近所の市民会館でやっているらしいから僕も」
そこまで言ったとき、夜一の左頬に衝撃が走った。
「お母さん……」
夜一はじんと痛む左頬に手を当てた。
いきなり美樹に平手打ちをされたのだ。
「劇団? 駄目よ! 役者になりたいなんて絶対に許さないからね!」
美樹は颯爽と立ち上がると、全身を小刻みに震わせてリビングから出て行った。
「大丈夫? 夜一」
しばし唖然としていた夜一に宏美が声をかける。
「ごめんね。姉さんの代わりに私が謝るわ」
「何で叔母さんが謝るんだよ! 悪いのはお母さんじゃないか! どうして劇団に入りたいって言っただけで殴るのさ!」
夜一は悔しさのあまり目頭を熱くさせた。
女手一つで自分を育ててくれている母親の美樹には感謝しているが、理由の一つも言わず劇団に入ることを拒むのはあんまりではないか。
などと奥歯を軋ませていると、夜一を抱き締めた宏美が美樹の怒りの理由を教えてくれた。
夜一に瞬きを忘れさせるほどの驚愕の事実を。
「お~い、夜一君。もう放課後やで。いい加減に起きや」
夜一は目蓋を上げるなり、何度も瞬きを繰り返して周囲を見回す。
そこには何の変哲もない一年A組の風景があった。
教室の壁に設置されていた時計で時刻を確認すると、午後三時をとうに過ぎていた。
どうやら六時間目の授業の途中から無限の世界へ旅立ってしまっていたらしい。
「夜一君、相方を無視するのはあかんで」
ふと正面に顔を戻すと、両頬を膨らませていた奈津美と目が合った。
「別に無視したわけじゃない。ただ久しぶりに嫌な夢を見たから少しな……」
「ふ~ん、まあええわ。それよりも早く部活へ行こうや。さっき部長からメールが入ってん。授業が終わったらすぐに部室へ来るようにって」
(多分、あのことだな)
夜一は目を完全に覚ますために大きな欠伸をした。
軽く首を左右に振って凝りを解す。
「先に行っててくれ。俺も帰る支度をしたらすぐに向かうから」
「ほうか? なら先に行っとるよ」
「ああ、絶対に行くから」
「分かった。ほんなら部室でな」
奈津美の背中を見送った後、夜一は机の上に散漫していた教科書を鞄の中に仕舞い始める。
やがて帰る用意が整い、いざラジオ放送部の部室へ向かおうとしたときだ。
「ねえねえ。今の子って他のクラスの子よね?」
窓際で駄弁っていたクラスメイトの話し声が聞こえてきた。
「もしかして朝霧君の彼女かな?」
「ええ~、あんた知らないの? 今の人、私たちの先輩だよ」
「先輩ってうちらと同じ一年生だったじゃない。白のリボンして」
「違うわよ。ほら部活の先輩が言っていたでしょう。去年の一件で留年になった人がB組にいるって」
「うわあ……じゃあ、あの人がそうだったんだ」
(去年の一件って何だ?)
聞き逃せない話に夜一は耳を澄ましたが、クラスメイトたちは夜一が聞き耳を立てていたことに気がついたのか逃げるように教室から出て行ってしまった。
「くそ、気になる。最後まで聞かせろよな」
などと悪態をついても仕方なかったので、夜一は鞄を持ってさっさと部室へと向かった。
文化系サークル棟の裏手にあったラジオ放送部の部室へと。
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