第8話    声優になるための覚悟

 もう何度このアーカイブを繰り返し聴いているのだろうか。


〈上里円清のボイス・クリニック〉はアニメファンや声優ファンの間ではカルト的人気を誇っているアニラジだ。


 毎週送られてくるメールや葉書の数はコンステントに数百通を超え、ゲストの回となると千を超えるメールや葉書が来ることもあるらしい。


 そんな〈上里円清のボイス・クリニック〉に夜一は何十通とメールを送り続け、今年の一月に初めて一通のメールが採用された。


『さあ、余計なお喋りはここまでにして本題に入ろうか。朝一番さんは来月に高校受験とは違う大事な試験を受けるんだね? 資格試験かな? とにかく朝一番さんにとって重大な試験なことはメールに書いてある内容からでも読み取れるよ』


 円清は『う~ん、不安と緊張を解消させる方法か』と溜息混じりに呟く。


『難しい悩みだね。僕たち声優も常に不安と緊張を持って生きている。それこそ新人やベテラン関係なくね。たとえば声優の仕事にアニメのアフレコがある。アフレコっていうのは映像の中のキャラクターの口に声優さんが実際に声を吹き込む作業のことね。正式にはアフターレコーディングって言うんだけど、それだと長いから略してアフレコって言うんだ……おっと話が逸れたね。つまり、このアニメのアフレコをする仕事が一本あるとしよう。当然、誰かがアニメのキャラに声を吹き込まなくてはならない。だけど声優は新人からベテランまで含めると星の数ほどいる。どんなにアニメ番組の本数が多くなっても声優の数よりも増えることは絶対にない』


 夜一はスマホから流れる円清の声に耳をかたむける。


『だから僕たち声優が仕事を取るときはオーディションを受ける。早い話は試験だね。アニメに登場するキャラクターのイメージに合った声優さんを見つけるため、アニメ製作会社のプロデューサーさんが候補となる声優さんを募集するんだ。続いて候補に挙がった声優さんが所属している事務所に募集の連絡がいく。そこでピックアップされた声優さんが現在受け持っている仕事と今回の仕事の収録時間が被らないなどの必要事項が確認された上で満を持してオーディションが行われるんだ』


 不意に夜一は立ち上がった。


 そして本棚へ向かうと、一冊の文庫本を取り出す。


『こうしてオーディションに合格した声優さんだけが役をもらえる。ここまで聞けば朝一番さんにも分かったかな? 僕たち声優は一回の仕事を取るごとに試験を受けなければならない。不安と緊張に包まれた試験にね。だってそうだろう? 役をもらえないとギャラが出ない。ギャラが出ないと僕たち声優はあっという間に干上がってしまう。簡単に言えば飢え死にだね。だから朝一番さんの試験に対する気持ちは痛いほど理解できる。だけど、この世に負の感情を完璧に解消させる万能薬なんてない。でもね、これらの負の感情を少なからず軽減させることはできる。朝一番さんは知っているかな? 今から数十年前、素潜りで水深百メートルという記録を打ち立てた一人のフランス人のことを』


 円清は十分に間を溜め、真剣な口調で言葉を紡いでいく。


『名前はジャック・マイヨール。世界の海とイルカを愛した伝説のダイバーさ。そしてこのジャックは長く海に潜るため、インドに伝わるヨガの呼吸法を身につけた。それだけじゃない。深海は些細な事故が死に繋がる危険な場所だ。いかに伝説のダイバーでも深海に潜る不安、緊張、恐怖なんかの負の感情を拭うことはできなかった。だからこそジャックは日本で禅の修行も積んだんだ』


 円清は言葉を続ける。


『これはジャックが書いた著書――〈イルカと、海へ還る日〉という本に掲載されているから読んでみるといい。特にジャックが日本の禅寺で修行した話は実に興味深いよ。ジャックが海に潜る恐怖感を軽減させるために座禅を行ったとき、その禅寺の大師からこう言われたという。ノーシンキン、ノーシンキン。考えるな、考えるなってね。この大師のアドバイスを受けたジャックは、目の前の雲が晴れていくような気分になったと本に書いている』


 夜一は手に持った文庫分のタイトルに視線を落とす。


 タイトルの名前は〈イルカと、海へ還る日〉。


 伝説のダイバーである、ジャック・マイヨールが書いた本の一冊である。


『朝一番さん、もしも試験までに時間があるのならジャック・マイヨールの本を読んでみて。僕も何かしらの大きな困難に当たったとき、このジャック・マイヨールの本を読んで困難を乗り切っている。だから朝一番さん、ノーシンキンだよ。試験に対するモチベーションを妨げるような負の感情なんて考えるな。常に前向きに……え? ああ、はいはい。ごめんね、朝一番さん。ブースの向こうにいるディレクターさんから時間かけ過ぎだって注意されちゃった』


 円清は続いて『朝一番さん』と大きな声で名前を呼んだ。


『どんな試験を受けるのかは分からないけど悔いが残らないよう頑張って。僕も陰ながら応援しているよ……なんて有り触れたことを言われても意味ないよね。なので最後に僕の好きな言葉を朝一番さんに送りたいと思います。ナッシング・ベンチャー・ナッシング・ウイン。意味は朝一番さん自身が調べてね。では引き続き二人目の患者さんを診察したいと思います。クランケネーム、文化大革命さんから――』


 夜一は文庫本を持ったまま本棚を背に座り込んだ。


「ナッシング・ベンチャー・ナッシング・ウイン――何事も本気で取り組まなければ何も得られない、か」


 この英語の意味を知ったとき、夜一の胸中に渦巻いていた黒霧が一気に晴れたことは今でも鮮明に覚えている。


 それこそ最終審査を控えた身には金言に思えたからだ。


 また伝説のダイバーとして名を馳せたジャック・マイヨールの本も手に入れ、円清が言っていた意味を理解するため何度も何度も読み返した。


 円清が言っていた通り、確かに著書の中でジャックは語っていた。


 素潜りの世界記録に挑戦する際、自分はどこまで息を止めていられるのだろうか、無事故でいられるのだろうか、という耐え難い負の感情が身体を蝕んでいたという。


 それでも挑戦を止めるという選択肢はジャックの中になかった。


 だからこそ、ジャックは最終的に日本の禅に活路を見出したのだ。


 雑念を捨て去り、無念無想の境地を目指す日本の禅に。


「ノーシンキン(考えるな)、ノーシンキン(考えるな)」


 直接的で余計な言葉などなく、それでいて完全なものとジャックが褒め称えていた言葉を夜一は口にした。


 この放送をリアルタイムで聴いた日から約三ヶ月、最終審査である公開オーディションに落ちてしまい声優になれるという道は目の前から消え去ってしまった。


 しかし、それはあくまでも〝現在〟だけに他ならない。


 これから先の〝未来〟には声優になるという道が多種多様に存在している。


 実際に一般応募の公開オーディション以外に、声優になる道は多岐にわたる。


 子役から俳優にならずに声優になった人、サラリーマンなどの一般職に就きながら演技の研鑽を積んで声優になった人、高校や大学を卒業した後に養成所や劇団で演劇の基礎を学び、声優事務所のオーディションに合格して声優になった人。


 それぞれ声優になった経緯はまさしく十人十色だった。


「諦めない。諦めてたまるか。俺は絶対に声優になるんだ。そのためには、どんな経験も声優になるための糧にする」


 夜一は颯爽と立ち上がると、文庫本を本棚に戻して勉強机へと向かった。


 一番上の引き出しを開けて一枚の紙を取り出す。


 ついでにボールペンも取り出して何の躊躇もなくキャップを外した。

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