第6話    日々の訓練

「汚れちまった悲しみに、今日も小雪の降りかかる。汚れちまった悲しみに、今日も風さえ吹きすぎる。汚れちまった悲しみは、たとえば狐の革裘。汚れちまった悲しみは、小雪のかかってちじこまる」


 パイプ椅子に座っていた夜一は、滑舌を気にしながら朗読を続ける。


「汚れちまった悲しみは、なに望むなく願うなく。汚れちまった悲しみは、倦怠のうちに死を夢む。汚れちまった悲しみに、痛々しくも怖気づき。汚れちまった悲しみに、なすところもなく日は暮れる」


 三十歳という若さでこの世を去った詩人――中原中也の詩を朗読し終えると、真剣な表情で聞き入っていた園児たちが矢継ぎ早に質問してきた。


「お兄ちゃん。それは何ていうおとぎ話なの?」


「おとぎ……違う違う。これは中原中也っていう昔の人が作った『汚れちまった悲しみに……』という有名な詩なんだ」


「はいはい! 狐の革裘って何ですか? 狐の抱き枕?」


「う~ん、抱き枕じゃないな。革裘っていうのは動物の毛皮で作った防寒服のことだよ」


「毛皮知ってる。お母さんが冬によく着てるよ」


「へえ、でも本物かどうかは分からないぞ。最近は動物の毛に似せて作ったフェイク・ファーという服もあるんだ。帰ったらお母さんに毛皮が本物かどうか訊いてごらん」


「ねえねえ、夢むって何?」


「昔の言葉で夢を見るってこと……さて他に何か質問はないかな?」


 園児たちを微笑しながら見回すと、ややメタボ気味の園児が天高く左手を上げた。


 クラスのガキ大将的存在の健太だ。


「お、健太が質問するなんて珍しいな。よし、俺が答えられる質問なら何でも答えるぞ」


「飽きたから外で遊びたい」


 夜一は大きな肩透かしを食らった。


「駄目だぞ、健太。今は兄ちゃんの話を聞く時間だろ」


 健太の隣にいた丸坊主の園児が口を尖らせて意見する。


「だって今日のは難しくてよく分からないんだもん。それなら外でサッカーして遊びたい」


 相変わらず健太は遠慮という言葉を持ち合わせていない。


 ただ、それは健太だけに限らず子供の特権なので仕方ないのも事実である。


 さすがに四、五歳の幼稚園児たちに中原中也の詩は難しすぎたか。


 朗読を続けてほしいという意見と、外で遊びたいという意見が子供たちの間に飛び交った光景を見て夜一は決意した。


「日村先生、今日の朗読は止めて後は自由時間にしませんか?」


「いいの? 他にも色々と本を持って来てくれたようだけど」


 傍らにいた二十代半ばの園児教諭――日村香奈の気遣いに夜一は笑顔で返した。


「構いませんよ。朗読をさせてもらっている立場からすれば、やっぱり聞いてくれる子供たちの意見を最優先したいですから」


「そう? ごめんなさいね」


「いえいえ」


 夜一が中原中也の詩集を閉じたとき、香奈は子供たちに今から自由時間だと伝えた。


 すると子供たちは意気揚々と立ち上がり、あっという間に四方八方へ散っていく。


 サッカーボールを持って一目散に外へ出る園児たちもいれば、部屋の片隅に置かれていた折り紙や人形を使ってママゴトを始める園児たちもいた。


 中には夜一の朗読をもっと聞きたいという園児も何人かいたが、せっかく自由時間になったんだから他の子たちと遊びなと丁寧な口調で追い返した。


(俺の朗読もまだまだだな)


 夜一はやおら立ち上がると、部屋から出て玄関先へと向かった。


 受付口の隣に置いてあった来客者用の長椅子に腰を下ろす。


 ブレザーの内ポケットに入れていたのど飴を取り出し、袋を開けて口の中に放り込む。


 ミントの味とメントール特有のハッカ臭で鼻腔の奥が適度に刺激される。


「あら、こんなところで黄昏てどうしたの?」


「宏美……叔母さん」


 声が聞こえてきたほうに顔を向けると、今年で四十一歳になる叔母の松村宏美が柔和な笑みを作りながら佇んでいた。


 今日の服装はベージュ色のチョッキの上から「あじさい幼稚園」と刺繍されたエプロンを着用している。


「叔母さんは子供たちの相手をしなくていいの? 仮にも園長だろう」


「いいんじゃない? 子供たちも大人に監視されているより子供たちでいるほうが気楽に遊べるでしょうから」


 そう言うとウェービヘアの宏美は、夜一の隣に座った。


「園長がそんな考えで大丈夫なのか? 遊んでいる最中に子供たちが怪我でもしたらどうするつもりだよ」


「うふふ、嘘よ嘘。子供たちはうちの優秀な先生たちが神経を研ぎ澄まして見張っているから大丈夫。それはあんたもよく知っているでしょ?」


「まあね。近所でも評判だよ。あじさい幼稚園は安心して子供を預けられるって」


 あじさい幼稚園は宏美が経営している幼稚園の名前だ。


 園児は全員合わせて四十人近くおり、今ほど夜一が朗読していた子供たちは五つあるうちの一つである桃組に属している子供たちだった。


「で? 今日はどうしたの?」


 しんと静まり返っていた廊下に宏美の凛然とした声が響く。


「どうしたって何が?」


「誤魔化さないの。身の回りで何かあったでしょ? 今日の朗読は気持ちがまったく込められていなかった。それこそ淡々と文字だけを聞かされたような気分だったわ」


「そんなに俺の朗読は酷かった?」


「子供たちでも知っている童話だったら違っていたでしょうけどね。詩の朗読は語り手の心情がストレートに伝わってくるから。健太君が途中で飽きたと言ったのがいい証拠よ」


「叔母さんには敵わないな」


 暗澹たる溜息を漏らした夜一は、二日前に起こった出来事を包み隠さず話した。


 ラジオ放送同好会という奇妙なクラブに強制入会させられそうになったことをである。


「ラジオ放送同好会ねえ……それで、ラジオ放送同好会って何をするクラブなの?」


「さあ? あまり話を聞かずに帰ったからよく分からない。でもラジオ放送って言うからにはラジオに関する活動を行うクラブじゃないのかな」


 実際、ラジオ放送同好会というクラブがあることはプレハブ小屋に連れて行かれるまで知りもしなかった。


 もしも知っていたら放送部と一緒に自分の足で見学に行ったかもしれない。


「じゃあラジオ放送同好会じゃなくて放送部に入部したのね?」


 宏美の問いに夜一は「しなかった」と否定した。


「一応、見学には行ったんだけどね」


 事実であった。


 二日前はラジオ放送同好会の連中に無理やり強制入会されそうになったから早々に自宅へと帰ってしまったが、昨日は授業が終わったと同時にサークル棟の三階に部室があった放送部へ向かった。


 しかし、夜一はその場で放送部には入部しなかった。


 遮音壁の部室にはミキサー卓やマイクなど当然の如く放送設備が整っており、部員たちも生徒会などの依頼で学校行事のアナウンスなどを一挙に引き受けていることは分かった。


 ただ、秋彦が言っていたように放送部の活動は細かく制限されていた。


 高額な放送設備を部員たちが私物化しないよう顧問の教諭が厳しく指導していたのだ。


 それこそ主な活動は文化祭やスポーツ祭での行事発表、生徒総会のアナウンス補助に徹するという具合に。


「どうして? あれほど高校に入学したら放送部に入るって言っていたのに」


「それは……」


「当ててあげようか。何で放送部に入部しなかったか」


 宏美は両手の指を絡めて大きく伸びをする。


「面白そうだったんでしょう? 放送部よりもラジオ放送同好会のほうが」


 やはり宏美に隠し事はできない。


 子供の頃から忙しい母親の代わりに面倒を見てくれただけでなく、声優を目指している自分が演劇部に入部しない理由も知っている人だ。


 何より宏美は今まで何百人と手のかかる子供の面倒を見てきた教育のプロである。


 そんなプロの観察眼を持ってすれば甥っ子の心情を読み取るなど朝飯前に違いない。


 しばしの沈黙の後、夜一は観念したとばかりに小さく首肯した。


「自分でも思ってはいるんだ。同好会よりも正式な部に入部したほうがいいって。だけど冷静になって考えれば考えるほど戸惑いが大きくなっていくんだ」


 厳しい顧問の教諭の方針で、学校行事に関わる放送しか行わない放送部。


 ラジオ放送という名前に相応しい活動を行うというラジオ放送同好会。


 現在でも夜一の心はメトロノームのように大きく揺れていた。


 将来、声優の世界に飛び込む決意を固めている夜一としては、演技の基礎が学べる演劇部に入部することが一番有益な選択だっただろう。


 だが、それはとある理由で適わない。


 ならば少しでも声に携わるクラブに入ろうと思い立った末に導き出した答えが放送部に入部するということだった。


 すべては声優になるという夢を叶えるため。


 そのために夜一は叔母である宏美に頼み込んで二年前からあじさい幼稚園で朗読などをさせてもらって声の技術を磨いているのだ。


「叔母さんはどう思う? 俺は放送部に入ったほうがいいのかな? それとも――」


「ていや!」


 次の瞬間、宏美のチョップが夜一の頭上に振り下ろされた。


 夜一の脳天に激痛が走る。


 それこそ鈍器で脳天を叩き割られたような錯覚を受けた。


「ああ、もうイライラする! 何であんたは肝心なときに他人任せなのかな!」


 宏美は夜一に啖呵を切った。


「夜一、あんたはどう思っているのよ? 放送部に入りたいの? ラジオ放送同好会に入りたいの? それとも何のクラブにも入らず帰宅部になる?」


「帰宅部……」


 晴れて高校入学が決まったとき、放送部に入りたいという考えの他に帰宅部という考えもあった。


 そうすれば学校に内緒でアルバイトなどに専念できると思ったからだ。


「ねえ、夜一。あんたは声優になりたいんでしょう? だから少しでも将来のためになるよう朗読したいと言ってきたんでしょうが。発声、滑舌、表現力なんかを磨くために」


「うん」


 ようやく鈍痛が治まってきた。


 それでも夜一は頭を擦ることを止めない。


「だったら帰宅部よりも自分のためになると思うクラブに入りなさい。学生生活のクラブは大なり小なり今後の糧になる。たとえ声優になりたい夢が途中で変わってもね」


「変わらない! 俺は声優になる! 絶対になってやるんだ!」


 夜一は勢いよく立ち上がると、宏美に唾が飛ぶほど大声で言い放った。


 宏美は「それでいいのよ」と破顔する。


「〝なりたい〟じゃなくて〝なる〟という気骨を常に持っていなさい。役者は何の保障もされない仕事なんだから。役者自身が役者であるという意志を持ってないと続けられないわよ」


 そう宏美がサバサバとした口調で言ったときだ。


 廊下の向こうから桃組を担当している香奈が走ってきた。


「どうしたの? 日村先生。私に何か緊急の用事?」


「いえ、用事があるのは園長先生ではなくて夜一君なんですけど」


「俺ですか?」


 香奈はこくりと頷いた。


「子供たちの何人かが久しぶりに夜一君の外郎売りを聞きたいって」


「あら、そう言えば最近は絵本や詩の朗読ばかりで聞いてないわね。夜一の外郎売り」


 宏美は座りつつ夜一の背中を勢いよく平手で叩いた。


「夜一、何を呆然としているの。お客さんがわざわざ指名してくれたのよ。全身全霊を持って応えてあげなさい。客の期待に応えるのは俳優でも声優でも一緒」


 客の期待に応える。


 この言葉で夜一はチョップの痛みも平手の痛みも一気に吹き飛んだ。


「外郎売り……まあ、気分転換にはいいかな」


 大きく深呼吸した夜一は香奈に目を投げた。


「日村先生、すみませんが着物か何かありませんか?」


「着物? 浴衣ならあるけど」


「だったら浴衣でも構いません。他にもタオルがあれば貸してください」


「あら珍しい。夜一、あんた本気で外郎売りをやるつもり?」


「駄目ですか?」


「駄目なわけないじゃない。むしろ子供たちに見せてあげたいわ……でも、あれね。本気で外郎売りをやるなら浴衣とタオルの他にも必要な物があるでしょう」


「別に浴衣とタオルだけでいいよ」


「何事も外見から。日村先生、浴衣の他にも幾つか用意してちょうだい。細長いダンボール一枚と太字のサインペンとそれから」


 宏美は人差し指だけをぴんと突き立てた。


「一口で飲み込めるサイズのチョコかキャンディ一つね」

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