第2話 祈り、慰み、思い遣り

「話があるから来い」と、四方さんのドスの効いた電話で呼び出されたのは都内の美術館の前だった。大きな公園の中に幾つかの美術館と、寺や動物園もある有名な観光地である。

 日本人も外国人も、とにかく人が多くてごった返した場所だ。たまにある喫茶店もどう見ても満席だし、話し合うにはちょっと不向きな場所じゃないだろうか。

 約束した時間より少し前に美術館に辿り着くと、そこには四方さんと、カナタと一緒に行ったライブでチラッと会った女の人……コンテストの時にカナタと一緒に昼食をとっていた人だ、その二人が待っていた。

 四方さんじゃない方の人が手を振ってくれる。

「あー来たきた! こっちこっち!」

「すいませんお待たせしました」

「やー! 早いくらいじゃん! 優秀優秀!」

「あの……?」

「あ? ああ! あたし橋本絵奈はしもとえな! カナタの同期兼お姉ちゃん的マブダチ的なやつ!」

 ビシッと自分を親指で指す。テンション高めのギャルさんである。……そのギャルさんは何でここにいるんだろう?

 じっと立っていた四方さんが、低い声で喋り始める。

「……エナは元々私の友達で、カナタはエナから紹介してもらった」

「んで、ヨモがカナタに逆ギレして、あのコンテストの大惨事になった! マジありえねぇ! んで、その時は助けてくれてありがとう!」

 そうか、四方さんはコンテストのヒート騒ぎの原因だけど、この二人が居なかったらカナタと話す機会も無かったのか。

 そう考えたら少しぞっとした。カナタと仲良くなれなかった場合なんて最早考えたくも無いし、カナタが居なかったら未だにリョージさんともズルズルと付き合っていたかも知れない。リョージさんだって堅気には戻らず、未だ反社に属していた筈だ。

 しかし、カナタ出会わなければ、あんなに傷付ける事も無かった。

 一体何が正解だったんだろう。

「あんたに」

 四方さんが静かに喋り始める。

「私は『カナタと話し合え』って言った。結局ちゃんと話してないでしょう、カナタの様子がおかしい、あんたやらかしたでしょ?」

「……すいません……」

 黒い鋭い目がキリキリと細められる。俺は反論の余地も無く、唇を噛むしか出来ない。

「カナタはさあ」

 場の空気を和ませる様にあえて明るく、橋本絵奈さんは口を開く。

「すっごく拗らせてんだわ。元カレがすげぇ嫌な奴でさ、『Ωのくせに相手とエッチできない自分は恋人として価値が無い』って思ってる。あたしもカナタに『高校生とちゃんと話した方が良い』ってずっと言ってたけど、まあなぁなぁにしてた訳でしょ? なんて言うか足りないよね色々」

「……俺の配慮が足りませんでした……」

「配慮っていうか、アキラちゃんは相手の目線でものを見るのが足りないんじゃないかなあ」

「橋本さんは、」

「エナで良いよ」

「えっと、エナさんは、……カナタ、さんが、どうしてあんな風になっちゃうのか知ってるんですか……?」

 嘔吐して泣き喚く程の恐怖心の正体は何だろう。きっととても酷いことだが、本人に喋らせるのも良くないとも思う。

「知らないよ? 皆言いたくない事の一つや二つあるって言うか、本人が言いたいなら聞くけど、私から聞いたりしないわな流石に。ていうかアキラちゃんはカナタとどうしてもそうゆうことしたいの?」

「え? いや、…………したくない訳じゃないけど、とにかく相手が嫌がる事は俺もやりたくないんで」

 じっと黙って聞いていた四方さんが、ふと美術館の方を見た。何かあるのかと視線を追ったが、あるのは無機質な建物だけだ。国立の美術館は壁面の一部を水が流れる独特な構造で、小さな滝のような水音が耳に心地良い。四方さんはそのまま口を開く。

「あんた、αとΩはセックスして子供を作るのが普通で当たり前って思ってるでしょ? でもカナタはそうじゃない。そこを先に話しといて欲しかった。良い? あんたの空っぽな頭で思いつく事なんかたかが知れてるし、薄っぺらな固定観念を捨てて相手と向き合わないといけないのよ」

「ヨモがそれ言う?」

 エナさんはあからさまに渋い顔である。

「……アレは私が本当に悪かったわ。ねぇ、この美術館とっても綺麗でしょ? これが私のダーリン」

「……ダーリン?」

 建物がダーリン。という事は彼氏。

 少し戸惑って首を傾げると、四方さんは植え込みの縁に腰掛け、愛おしげに白いタイルをなぞる。

「αとΩは少数派、男のΩは希少種、αとΩはセックスをして子供を作るのが当然、βもβ同士で子供を作るのが当たり前、私はその当たり前から外れてる。所謂『対物性愛者』、私が恋をするのは人じゃなくて物な訳。今のダーリンは彼」

 そう言って、愛おしげに無機質な建物を見詰めた。なんと言っていいか分からずエナさんを仰ぐと、それはそれで意味深に笑っている。

「世の中色んな人が居るって事だね。あたしは『アセクシュアル』所謂『無性愛者』性欲も無いし恋愛感情もさっぱり無い、どう思う?」

 そうか、だからカナタはこの二人に安心感と信頼を持っているのだ。セックスを恐れるカナタに対し、この二人は全く性を求めない。抑えている訳でもない。

「……どう……と言われると、色んな人が居るなあと」

「……ん? そんだけ?」

「カナタさんはお二人と居ると安心するんじゃないかな、とは思います」

 二人は顔を見合わせて、ちょっと面食らった顔をした。四方さんはうへぇと顔を顰め、エナさんはなんだかニヤニヤしている。

「面白くも何とも無い……!」

「そっかそっかー、あたしは正直アキラちゃんとカナタは結構なんとかなると思うわ。喋ると気が合うんでしょ? たぶんなんか似てるんだよね、喋り方とかじゃなくて考え方っていうか」

「似てる……かは分からないですが、気が合うと言われるとそうかも……話しててあんまり嫌な所が無いっていうか」

 エナさんは抑えきれないのかカラカラと笑っていて、俺はどうしていいのか分からずおろおろしている。

「カナタも『へーそうなんだぁ』くらいの反応だったわな」

 まあ、そうだろうなと思う。人の性癖なんて、余程他人に迷惑をかけるとかで無ければ口を出すものでも無いし、誰が何を好きでも良いし、何なら好きにならなくたって良いだろう。

「いや、逆に俺が何て言うと思ったんですか?」

「結構言われるのが『まだ本当の恋をしてないだけだ』とか『とりあえず彼氏作りなよ』とかかなあ? ヨモは?」

「私はめんどいから人には言わない。基本人間嫌いだし」

「それで良く夜職とか出来たよねー」

「逆に仕事だから出来んのよ」

 四方さんは夜職の人なのか。いや今はしてないのかも知れないけどそっちの方がびっくりだ。綺麗な人ではあるんだけど、どう見ても愛想の良いタイプでは無い。エナさんは笑いながらもスマホをいじっている。

「あー笑った。今晩カナタにアポ取っといてあげたからちょっと話してきな」

「……え!?」


 慌てて帰っていく後ろ姿を見送って、私はエナの肩にトンと凭れた。しこたま毒を吐いてやろうと思っていたのに、思ったよりしおらしくてあんまり責められなかったなと思う。

「でっかい子供だわ」

「ヨモはアキラちゃんの事結構可愛いと思ってるよね」

「思ってないわよ」

「言葉は足りないけど素直な良い子っぽい」

「致命傷でしょ、言葉が足りないのは」

「四方のカレシは喋らないじゃん?」

「彼はそこに居るだけで何より素敵だもの」

 エナは良く笑う。今まで悪意のない言葉に傷付いたり、悪気の無い余計なお節介に辟易したり、沢山あっただろう。

 私もカナタも一緒だ。普通じゃないだけで随分生きにくいけど、何とかやってこれたのは、少数ながらも理解がある人達が居たからだった。

「飲んで帰ろうべ」

「Moonlightで?」

「もち」

 あの子たち……アキラとカナタも、お互いを理解して尊重すれば、かけがえのない繋がりに恵まれるだろうか。

 できればそうであって欲しい。

 カナタは孤独では無いが、それでも何処か自分の内面の深い所を隠している所がある。それはきっと私にもエナにも見せられない所だ。

 願わくば、夜の闇に怯え、奇異の目で見られ、しかし気丈に振る舞う彼の、心の拠り所になって欲しい。

 そんな事を祈る権利は無いと分かっているけど、それでもカナタの幸せを願わずにはいられないのだ、私達は。


「家……家って普通にアパートだよな……」

 夕闇の中、俺はもう一度スマホの画面を凝視する。カナタからのメッセージは『家で待ってる』……あんな事があったのに、家に上がって良いものだろうか。

 とにかく気持ちを奮い立たせて階段を登り、ドアの前で二、三度深く深呼吸して、恐る恐るインターフォンを押した。

 間もなく鍵が空く音がして、カチャ、という小さな音の後に細くドアが開く。

「ごめん、なんか急に来る感じになっちゃって」

 ドアの隙間から見るカナタは、なんだか酷く緊張した、不安そうな顔をしていた。俺も不安に引っ張られそうになりながら、とにかく必死に声を出す。

「えっと、どうしよう、外で話す? 玄関でも良いし、ほら、前に行ったうどん屋とか」

「……いや、入って……」

 声に覇気は無く、その立ち姿は何処か後ろめたいような、何とも言えない暗い影がまとわりついている様な空気がある。

 俺は一瞬躊躇したが、部屋の奥に消えていくカナタの背中を追わない訳にもいかず、仕方無くスニーカーを脱いだ。

 六畳の部屋は蛍光灯の明かりばっかり白くて、相変わらず殺風景で生活感が無い。部屋の端には布団が敷いたままになっている。

「あの……」

 俺が言葉を探す前に、カナタは自分のワイシャツのボタンに手をかけた。

 え?

 声を出せずに居ると、一番上のボタンが外れて、白い喉が露になる。目を離せずに息を飲んでいると、二つ目のボタンに指先が伸びた。

 その手が、可哀想な程に震えていた。

 俺は我に返って、慌ててその手を掴む。目に見えてビクッと跳ねた身体を抑え込む様に、外れたボタンを上まで留める。

「急に何して……!」

「っあの、俺、がんばるから、……」

 震える手が、俺の手にそっと添えられる。恐怖が肌から伝染するみたいだ。カナタは怯えている。なのに服を脱ごうとしている。

「がんばるから、ちゃんと、できるようにするから」

 大きな黒い目が潤んでいて、ジャングルジムから降りられなくなった子供みたいだと思った。

 そうだ、俺が降ろしてやらないと。

「無理しなくていいから、ちゃんと話そう?」

 ちゃんと話さないと、カナタがずっと怖い想いをしないといけない。

「でも、……」

「俺、カナタが怖いなら何もしなくて平気だから」

 抱きしめた身体はやはり大人の男なのに、なんだか小さい子をあやしているような気持ちになるのは何故だろう。

 肩口が濡れる。殺風景な部屋はたまにしゃくり上げる音が響いて、俺もなんだか酷く切なくて、カナタをぎゅっと抱いて、少し泣いた。


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