第2話 なのに会いたい人には会えず
微睡みの中、温かく大きな手がゆるやかに頭を撫でてくれるような気がした。ほっとするような切なくなるような香りがして、俺はみっともなく、必死に手を伸ばす。
行かないで、側に居て、優しくして、お願い、俺を嫌いにならないで。
彼の色の薄い唇の奥、濡れた粘膜が微かに見えた。
――俺を置いていったのは、カナタでしょ?
目が覚める。手の中に握りしめた彼の気配が物悲しい。俺が無理矢理アキラを突き放したのに、夢の中ではあんなに都合よく被害者ぶってアキラに縋っている。
「……諦めろ」
もう何度目か分からないほど、自分に必死に言い聞かせる。あの子には未来がある。俺は今が終着点だ。少しでも追い付きたくて高卒認定なんて取ってみたところで、アキラも進んでいるのだから追いつける訳が無い。
きっとこの先もアキラは沢山勉強して、それなりの仕事に就いて、彼にふさわしい人を好きになって、たぶん子供を作って、そうして豊かに穏やかに生活していく。
俺には差し出せない肉体を、世の多くの人は持っているはずだ。何より俺は娘が居る。娘にさえまともに愛情を注げなかった自分が、人を愛する権利など無い。愛されたいと思うなんて以ての外だ。
――もうお前の娘じゃないだろう?
心の中囁く声に耳を塞いだ。特別養子縁組で渡した娘は名実共にもう他人の子だ。俺は母でも父でも無いって分かってる。分かっているけれど。
――娘とアキラを天秤にかけること自体が、そもそもお門違いなんじゃないか。アキラは単に俺を好きと言っただけで、その気持ちを否定する権利なんてありはしないのに。
答えは出ぬまま、俺はのそりと起き上がり、冬の朝の室温に身体を震わせた。
「タオル……返さないと……」
手の中で、必死に抱いていたタオルがクシャクシャになっている。あの一緒に行ったライブの帰りに首に巻いてくれたものだ。一度洗ったが、微かにアキラの香りがする気がして、何となく片付けられない。
「…………最低だ……」
アキラは大学に入って交友関係が変われば、きっと俺を忘れてくれる。
俺はと言えば、これからもずっとアキラを引きずりそうで怖い。
全部アキラの気持ちに応えられない自分のせいなのに。
指定校推薦は面接と小論文。俺はシャープペンシルを置いて息を吐いた。作文用紙はしっかりと埋まっている。中身も出題されたテーマに対してきちんと答えられて居るとは思う。面接もまあ想定通りに喋れた気がする。
結果が出るのは来月だ。これを落とすと次は一月のセンター試験である。まだ油断は出来ない。
一応担任に連絡をして、そうしたらまた勉強。
……いや、今日だけでも何か動きたい。今日だけ、今日だけだから。明日からまた頑張るから。
宮崎さんは受験の結果が出ないと相手にしてくれないだろう。
そうすると、心当たりは一人しか居ない。
試験会場を出て、静かなベンチを見つけてスマホを取り出す。手早く担任に無事終わった旨の連絡を済ませ、探したのは「
恐る恐る通話ボタンを押す。
コール一回、二回、……五回……まだ出ない、忙しいのだろうか。
もう切ろうかと思った所で、コール音が止まった。
『はい?』
「あ、あの、俺、志津です! 前にバーの前で番号交換してもらった……」
『何の用? 学校は?』
怪訝そうな響きではあるが、取り付く島もない訳ではなさそうだ。俺は言葉を選びながら、必死に喋った。
「今日入試で、今終わったとこで……えと……カナタさんが異動したって聞いたんですけど、俺行き先教えて貰えなくて、あんまり連絡も返って来なくて……四方さん、何か聞いてないですか?」
微かに溜息のようなものが聞こえた気がする。切られてしまうだろうか。何とか繋がっていてくれ。
『私は取引先の人間だから、そっちの人事の事は分からない』
「あの、カナタさんと連絡できたりとか……」
『あんたこれからカナタとどうなりたいの?』
確信を突く質問だった。
冬の冷たい風が吹き付けて、身体の芯まで凍るようだ。何を答えれば正解なんだ、どうしたら助けて貰える? 四方さんは、あの時バーの前でなんと言っていた?
「…………もっと、カナタさんと話をして、お互いの事ちゃんと理解したいんです。俺はカナタさんの事好きだけど、カナタさんの気持ちをちゃんと聞きたいんです……色々あるのかも知れないけど、傷付けないように、大事にしたいです」
沈黙。
俺は祈る様な気持ちで返事を待った。
『……知ってそうな子に聞いてみるけど、個人情報だから教えてくれないと思うよ』
「あ、ありがとうございます!」
『時間かかるから直ぐには無理。じゃあね』
一方的に電話を切られたが、カナタと蜘蛛の糸一本くらいの繋がりが持てたかもしれない。
「よし……!」
とにかく身軽にならなければ。
入試の結果が出るまでは、とにかく落ちた時に備えて勉強するしか無い。
今必要なのはとにかく合格通知。
俺は少し悩み、アプリを起動する。
『久しぶり。今推薦入試終わった、結果出るのは来月』
既読がつくかも分からない。
返事はきっと来ない。
迷惑かもしれない。
でも、あのライブの日、確かに俺達は寄り添っていた。きっと心の柔らかい所が触れていた。勘違いかも知れないけど、本能が正しいと言っている。
「逃がさないぞ……」
そうだ、俺はαだ。狼の因子を持った、生まれながらの追跡者である。
ひとしきり田崎マネージャーに嫌味を言われて、やっと一息吐いた。正規時間の昼休憩は取れそうも無いから、おにぎり一個を無理矢理食べて仕事に戻る。
数週間働いてわかったのは、数字に相反する職場環境の悪さだ。パートにサービス残業を強いるのは当たり前、有給も取らせていない。
無理な人員で回しているからコストは低い。だから利益が出ている。結果数字だけ見ればいつもそこそこ良くて、しかしパートの入れ替わりが激しい。
「あの、八代さん、ちょっと良いですか……?」
急に話しかけられて、慌てておにぎりを飲み込む。振り返るとパートの女性が青い顔をして立っていた。
「っはい、どうかされました?」
「すみません、娘が学校で熱を出して、迎えに行きたいので早退してもよろしいでしょうか……」
女性はキョロキョロと周囲を伺って、俺にだけ聞こえるように耳元で言った。
「Ωなんです……」
「……わかりました。マネージャーには俺から言っておきますから、このまま退勤してください。半休にしておきますね」
ほっとした表情で深々と頭を下げて、女性はパタパタと去っていった。俺もΩであるし、少なくともマネージャーよりは言いやすかったのだろう。
とりあえず、午後イチまた嫌味を言われるのは確定だ。んで、今日もサービス残業である。
早めに手を打たないとならない。
スマホを取り出してみると、通知が一件来ていた。既読をつけないように、通知から内容を慎重に読み取る。
『久しぶり。今推薦入試終わった、結果出るのは来月』
心の中で「お疲れ様」と呟いて、俺はパートが無事店を脱出したのを確認してから田崎マネージャーに報告に行った。もちろん娘がΩだなんてことは言わないが。
ここへ来て初日に言われた事がある。
『お前、次いつヒート来るの?』
ニヤニヤしながら言った粘つく視線を思い出して、吐き気がした。
「もしもしエナ? 久しぶり。……今大丈夫? 例のさ、カナタに絡んでる高校生居たでしょ? そう……カナタに会いたがってんだけど、正直どう思う? ……」
続
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