第十七話「理解されない気持ち」
旅行から帰ってきて一週間ほど経つと精神科の定期通院の日がやってきた。琴音はこの頃険悪な雰囲気で会話さえほとんどしなくなった母と、車で気まずく病院へ向かった。
例によってかなり待ってから、診察室へ呼ばれた。
医師はパソコンに向かい、おそらく電子カルテを開く操作をしていた。それから琴音の方を向いた。
「いかがですか」
「そんなによくないです」
「ご飯、少しは食べられるようになったかな?」
「この間旅行のとき、バーベキューでたくさん食べてしまったんです。それで、吐きました」
医師は柔らかかった表情を曇らせ、数秒黙った。
「たくさん食べて吐くというのは、誰かに教わったかな?」
「いいえ」
「病気の種類としてね、ただ単に食べられないのを拒食というんだけど、たくさん食べて吐くのは過食嘔吐と呼んだりするんだ。拒食から、過食嘔吐に変わる人がとても多い。そして、過食嘔吐の方が身体に悪いし、治りにくいんだ。分かりますか?」
「いつもたくさん食べて吐くわけじゃないです。あれからはなるべく食べないようにして、吐いてないです」
「琴音さんは、どうしてそんなに食事をするのが嫌なのかな?」
「食べる気がしないんです」
「その理由は、言える?」
琴音は少し考えた。
「悲しいからです」
「悲しい気持ちがあるんだね。どんなことが、悲しいかな?」
「分かりません」
そして琴音は付け加えた。
「それに私は太りすぎているから。周りに何度も馬鹿にされて」
「先ほどを体重を測ったよね」
医師は机の中からあるラミネートされた大きな表を取りだした。そこには年齢と平均体重のグラフが示されていた。中央に横線が引かれていて、男女別に別れている。
「琴音さんの体重は、これを見ると、小学校高学年の女の子の体重とほとんど変わらないんだ。今高校生だよね? 十五歳の身体としては、痩せすぎているんだ。それは私やなんかの主観ではなくて、数値として客観的に示されていることだよ。うん。つまり、琴音さんは全然太りすぎてなんかいないんだ」
琴音は表を眺めるのをやめ、黙って俯いた。
「あまり食べないでいると、大袈裟じゃなく、死んでしまうよ。学校にいけなかったり、すぐに息が切れたり、もう日常生活に支障は出ていると先月言っていたよね。せめて、吐かないでほしいな。吐くの、かなり苦しいでしょう」
琴音は黙っていた。
「とりあえず薬はそのままで大丈夫かな」
「大丈夫です」
琴音は向精神薬を処方されていた。
「このまま重症化すると、先生としては、入院をお願いすることにもなってしまうかもしれないからね。食べたくなかったら、前回教えたドリンク剤だけでもいいから、口に入れてほしいな。命と身体を守ることを、しよう。それから、再来月から定期的なカウンセリングを予定しています。次回詳しく話すけど、お母さんに伝えておいてください。心理士さんと話をしてみようね」
琴音は待合室へ戻った。
「先生なんて言ってた?」
「薬はそのままだって」
「ちゃんと食べるように言ってなかった?」
「言ってたけど」
「本人が治す気ないんじゃ、先生が何を言っても響かないよね」
母はため息をついて手元のスマートフォンに目を戻した。琴音は隣に腰掛け、同じようにスマートフォンを触りだした。
帰りの車では母との会話はほとんどなかった。琴音は車窓に映る景色を眺めながら、考えた。
先生には、自分の気持ちを話しきれていない。琴音には積極的に自殺をしようという気持ちはない。だが生きることを少し取りやめたい、死ぬことと頑張って生きることの中間地点にいたい、という思いがあった。
その中には、麻理恵を傷つけたことで自分を罰しなければならないという感情があった。また、中学時代の部活の、徹底的に自分を仲間はずれにしてきた顧問と同じパートの人間たちへの恐れと怒りがあった。その恐れと怒りを、世界全体に対し自分を人質に取り、自分を傷つけることで表現しているのであった。食べないことは、琴音の後ろ向きな自己主張であった。
夏の終わりの街はどこまでも気怠げだった。前方の道路には何度も逃げ水が現れた。八月終盤に差し掛かっても、暑さは一向に終わりそうになかった。
何も入れてあげなかったり無理矢理吐いたりすることによって散々傷めつけられた胃は弱り、調子が最悪であった。琴音は急な鋭い胃の痛みで浅い眠りから目覚めた。水を飲もうと思ったが、部屋に置いてあるペットボトルは空だった。飲み水をリビングへ取りに行こうと部屋を出た。
だがリビングからは人の気配がした。琴音は足を止めた。両親が密かに何か話し合っている声がした。琴音はドアを開けず、耳を澄ませて両親の会話を聞いた。
母が弱りきった声で何かを求めていた。父は言いにくそうに返事していた。琴音ははっきりと声が聞こえるくらい耳を近づけた。
「もうそれしかないんだよ、協力してよ」
「いくらなんでも、押さえつけて無理矢理食べさせるなんてよくないよ」
「それじゃなきゃ食べないよあの子は。パパが押さえつけててくれたら、私がスプーンであの子の口に食べ物を入れるからさ。お願いよ」
「そんなことをして、食べ物が気管に入ったり喉に詰まったりしたらどうするんだ。危険すぎる。それに、大喧嘩になったり、暴力沙汰になったりしかねないじゃないか。ダメだよ」
すると母は冷静さを欠いた口調で述べた。
「なんであの子はご飯食べないの!? お昼用って渡してるお金も何に遣ってるか分からない。信用できない」
「そんなこと言っても仕方ない。なんで娘を信用できないんだ」
母は声を裏返し大声で反論した。
「あの様子をまともに見ていれば信用できないことくらい分かるでしょ?」
「この前の旅行でもバーベキューで腹一杯食べてたじゃないか。腹ペコにいつまでも耐えられるわけがない。そのうち食べるさ」
「何呑気なこと言ってるの? あの子が死んだらアンタのせいよ」
と母が声を張り上げると、父は同じような大声で返す。
「何だと! 俺だってあの子のためを思って自力で色々調べているんだ!」
両親の口論を聞く気になれなくて、琴音は忍び足で部屋へ戻った。私のせいで、パパとママが喧嘩しちゃった、どうしよう……。琴音の耳の中で、両親の怒鳴り声がいつまでも反響していた。
両親は琴音の気持ちを全然理解してくれない。琴音も父と母の気持ちは分からない。父と母も互いに理解し合えているのか疑わしい。家族の心がみんな離れている気がした。そしてそれぞれ衝突し合っていた。その不調和を引き起こしているのが自分だという自覚が琴音にはあった。
私は食べるのをやめるという自己主張のために、家族を犠牲にしてしまっているんじゃないか?
心の中がますます暗くなるのを感じながら、琴音は再び布団に入った。どの体勢を取っても胃が苦しかった。
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