第三章

第一話

 今日(元旦ですわ)と明日、今上は忙しい。

 色々な行事があるからだ。


 とはいえ、元日節会がんじつのせちえ(に限らず各節会せちえ)では唐菓子からのくだものが出されるので今上も私もこの行事は嫌いではない。


 まぁ唐菓子と言っても唐から来た菓子ではない。

 唐から伝わってきた作り方で作られたものである。

 粉を練って油で揚げた物だ。



 私が母屋もやで唐菓子を食べていると、赤ん坊の鳴き声が聞こえてきた。


「まぁ、もう生まれたんですの」


 女御はつい最近ここへ来たばかりなのに……。


「いえ、そのような話は聞いておりませんが……」

「産むときは僧侶や陰陽師を呼んで読経どきょう祈祷きとうをさせますからかなりうるさいですよ」

 女房達が答える。


 読経や祈祷の声は聞こえないから少なくとも女御の出産はまだという事だろう。

 しかし、この邸には他に身籠みごもっている女性はいないはずだ。


 使用人の誰かが産んだとか……?


 それも考えづらい。普通は自宅で産むだろう。


 生まれたばかりの赤子を連れて仕事に来た女性がいるとか……?


 私が首を傾げていると泣き声が近付いてきた。

 と、思っていると赤ん坊を抱いたお兄様が簀子すのこから入ってきた。


「お兄様……!」

 私は驚いて声を上げた。


「宮、助けてくれ、この子が泣き止まないんだ」

 お兄様が情けない顔で言う。


「新院、そのような抱き方をされているからです」

 大弐だいにがそう言って赤子を受け取るとあやし始めた。


「お兄様。この子は……」

「実は更衣から使いが来て、この子が私の子だと……」

「では、更衣は……」

 私は絶句した。


 出産で命を落とす女性は多い。

 子供を産むのは命懸けなのだ。


 では更衣は……。


 私はいたましい思いで目を伏せた。


「逃げた」

「…………は?」

「男と逃げたらしい」


 以前、更衣が言っていた恋人だろう。


「ひどいと思わないか!? もう新しい男を作って、その上そいつと逃げるなんて!」

「…………」

 私はお兄様になんと答えればいいか分からず言葉に詰まった。


 まさか、お兄様の退位前から恋人がいたとは言えない。


 とはいえ在位中ならいざ知らず、退位した(というか出家した)以上お兄様は女御や更衣とは離婚したことになる。


 夫が通ってこなくなってからの年数という曖昧な離婚と違い、出家してしまったら確実に離婚なのだ。


 別れた相手の身の振り方をどうこう言う事は出来ない。


「では、この子は新院の……」

 大弐が子供をあやしながら訪ねた。


「……そう言っていた」


 女御はまだ少し掛かりそうな感じだから更衣の方が早く身籠もったのだろう。

 それで先に生まれたようだ。


 生まれた子供を内裏で引き取ってもらえるかと言っていたが、それを実行に移して恋人と逃げたらしい。


 入内が決まってからや、入内後で在位中ならともかく、退位して出家した後となると連れ戻す口実がない。


 まぁ父親が認めなければ引き離されてしまうのだけれど……。


 更衣の父親に判断を委ねることになるだろう。


 どうせ子供には乳母めのとが三人も付くから母親はいなくても問題ない。

 そもそも妃や貴族は乳母に任せて母親は育児をしないものだ。


「それで、その子はどちらですの?」

 私が訊ねると、

「女の子だ」

 お兄様が残念そうに言った。


 ということは女御か二の姫の子供が男の子でないと面倒なことになりますのね……。


 女帝になるなど冗談ではないから女御の子供は男の子だといいのだけれど……。


 それはとりあえずおいといて――。


「前々から奏上そうじょうしようと思っていたのですが……お兄様は退位されたのですから内裏にいらしてはいけないはずではありませんか!」


 明文化された規定はないとは言え退位した帝は内裏に足を踏み入れないというのが慣習になっている。


 今上のように内裏で母君(お父様の中宮)と暮らしていた春宮が即位するときは、一度春宮が東宮御所に移り、退位した帝が内裏を出てから戻ってきて即位する。


 それくらい禁忌とされているので本来なら退位した帝がこんな風に訪ねてくることは許されないのだ。


 それは里内裏でも同じである。

 だから最初の内こそ、こそこそと内裏に出入りしていたのだが――。


「ここは妃の邸だ」

「今は里内裏です! それに出家なされたのですからもう妃ではありません!」


 例え罠にめられてその気もないのに退位させられてしまったのだとしても、出家したことに変わりはない。

 出家した時点で妃達とは別れたことになるのだ。


「とにかく、この子は左大臣に預けます。左大臣が良いようにしてくれるでしょう。お兄様はお帰り下さい」

 私はそう言ってお兄様に帰るように促した。


 今は色々な行事で騒がしいから気付かれずに済むだろう。



 お兄様が帰るのと入れ違いに女房がやってきた。


右衛門うえもんすけ様がお目に掛かりたいそうです」

 女房が言った。


 おそらく小朝拝こちょうはいに来たついでに挨拶に寄ってくれたのだろう(小朝拝というのは帝に殿上人が新年の挨拶をする儀式ですわ)。


「通して」


 右衛門の佐がやってきた。


 と思うと足音がして、

「宮!」

 恒躬つねみもやってきた。


「正月早々右衛門の佐を呼び付けて何のご用ですか!?」

「ご挨拶に来て下さっただけでしょう」

「いえ、違います。実は文が落ちていたのでこちらの女房宛てではないかと……」

 右衛門の佐がそう言って文を差し出す。


 それを女房が受け取り私のところに持ってきた。

 その文には歌が書いてあった。


〝つのさはふ いはれなくとも 岩手山 言はれましかば 雪は消えむと〟


「あら、この歌はさっきの……」

 私はそう言って右衛門の佐の方に(御簾越しに)顔を向けた。


 どうやら右衛門の佐はこの歌を見てあの歌を詠んだらしい。

 相手の女性に仮託かたく(受け取った女性のつもりになって、と言う意味ですわ)した返歌と言うところだろう。


 歌が上手い殿方が、歌が苦手な女房に頼まれて代詠だいえいをするというのは意外と多いのである。


 日記や私家集しかしゅう(個人的な歌集)にたまに載ってるのだ。

 知り合いの女房に頼まれて詠んだ歌というのが。


 日記も私家集も回し読みをするのだから詠んだ歌を書いてしまったら返歌を受け取った相手に代詠だと知られてしまうのではないかと見る度に余計な心配をしてしまう。


「こちらに岩手という女房がいるでしょう、その方宛では?」


〝岩手〟は〝言わないで(言えないで)〟というときに掛詞として使うから〝岩手山〟が出てくるからと言って岩手宛とは限らないと思うのだけれど……。


「宛名が書いてないなら宮宛かもしれないじゃないか」

 恒躬が右衛門の佐に噛み付くように言った。


「紙を良く見ろ。宮様にこんな紙で文を出すか。それも懸想文けそうぶみを」

 右衛門の佐が言い返す。


 確かにこれは色も付いていないし大して上等な紙ではない。

 いくら紙が貴重で高価だとは言っても私にこの紙は使わないだろう。


 というか、中臈ちゅうろうの女房(女房にも階級がありますのよ。中臈は中級ですわ)にだって懸想文でこの紙はない。

 いい紙が買えないほど貧しいようでは上級や中級の貴族の姫とは釣り合わないから女房に出した懸想文とは考えづらい。


 ただ、この歌は恋の歌だ。


 下書きかしら……?


 私は岩手に渡した。


 岩手がそれを読んで首を傾げる。

 心なしかがっかりしているようだ。


 もしかして、岩手を振ったという恋人からではないかと期待したのかしら……?


「私の知っている人の筆跡では……」

 岩手が申し訳なさそうに答えてそれを他の女房に渡す。


 岩手が筆跡を知らない人が岩手宛に出すなら差出人の名前か、もしくはそれが分かるような何かを書くか付けるかするはずである――そもそも懸想文に使うような紙ではないというのは抜きにしても。


 皆が次々に目を通すが首を傾げている。


左大臣家ここは女房が多いから他所よその女房ではないかしら?」

 私(の言葉を伝える女房)は右衛門の佐に言った。


 普段でも左大臣家は女房が多いはずだが、今は里内裏である。

 臨時の女房達が大勢いる。


 その時、

左兵衛さひょうえの佐様、右衛門の佐様、そろそろ……」

 女房がやってきて恒躬と右衛門の佐に声を掛けた。


 恒躬は毎日この邸をうろうろしているが、右衛門の佐は正月の行事のためにここに来たのである。

 というか、恒躬も出席しなければならない。


 恒躬と右衛門の佐は挨拶をして立ち去った。




 正月は三日間だが今上の行事は二日の朝覲行幸ちょうきんぎょうこうで終わる。


 朝覲行幸というのは帝が両親に挨拶に行く行事ですわ。

 華やかな行列で向かうので庶民達が大勢見物に来るんですのよ。


 以前、お兄様に申し上げたことがあるように新しい帝と退位した帝が同じところに住んでいるのは禁忌とされている。

 そのため退位した帝は内裏を出るのだ。


 だから帝はわざわざ退位した帝の住んでいるところへ挨拶に行くのである。

 これは親を敬っているという姿勢を天下に示すためですわ。


 まぁ、そういうわけで、今上はお父様のところに朝覲行幸にいってきた。


 私は今上の女房にお父様宛の文を話足してくれるように頼んでいた。

 お父様が受け取るのをしっかり見届けるようにと言い聞かせて。



 その夜――

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