第四章
第一話
女御の視線の先を追うと、一の大納言が
和歌所に行くのだろう。
清涼殿から
「この頃、しょっちゅうここを通るんですのよ。一体何の用かしら」
女御が腹立たしげに言った。
「宣耀殿に和歌所が出来たそうよ。なんでも一の大納言は別当なんだとか」
私がそう言うと女御が嘲笑を浮かべる。
「大臣は無理そうだからせめて
女御の言葉に私は苦笑した。
左大臣は摂政もしてくるくらいだから当分『
少なくとも右大臣が一の大納言より先に引退することはないだろう。
となると一の大納言は引退するまでに大臣にはなれそうにない。
とはいえ勅撰和歌集の
「一の大納言が歌が得意だったなんて知らなかったわ」
私は大納言の後ろ姿を見送りながら言った。
「まぁ一応上手いみたいですわよ。更衣が入内するときに
「女御も書いて頂いたの?」
私は女御が座っている
当代で有名な画家の手による見事な絵画に能筆な手の歌の数々。
すばらしい屏風でさすが左大臣としか言いようがない。
「お父様がいつまでも左大臣に居座っているから一の大納言が大臣になれないんですもの。祝いの歌は断られたそうですわ」
それも大人げないような気もするが、女御に皇子が生まれれば左大臣でいる期間は更に長くなるかもしれないのだ。
長年大臣になりたくて仕方のない一の大納言からすればとても祝う気にはなれないだろう。
今の女御の口振りからすると左大臣と一の大納言はあまり仲が良くないようですわね……。
「それで、子供の事は何か言ってました?」
女御が言った。
姫宮だったら今上の中宮にしたいなんて寝言を教えてもいいものかしら……。
私は少し迷った末、
「今上のことを心配してるみたいで……」
と、
「確かに
女御が溜息を
「赤気の度に女房が殺されるのではお父様もいつまで公卿達を押さえておけるか……」
「やはり今上にそう言う話が出ているの!?」
「何か吉兆が出ないと難しいと申しておりましたわ」
女御の言葉に私は肩を落とした。
これでは今上が退位させられてしまうのは時間の問題だろう。
でも、七歳で出家なんてあんまりですわ……!
「女御、私はお父様に文を書かなければならないのでこれで……」
私はそう言うと弘徽殿を
「ヨネ、紙を。お父様に文を書くわ」
「本院にですか?」
ヨネが紙と
退位が
お父様に、今上が退位させられることになってしまったら
退位してから貴族になった前例はないが、なんにだって最初はあるものですわ……。
私は今上のために長い長い手紙を書いた。
そして――
「臣籍降下? 退位後にですか?」
左大臣が言った。
お父様だけでは臣籍降下は決められない。
在位中ならともかく、今の帝は弟自身なのだ。
だが、その弟はまだ成人してないから摂政が
というわけで私は左大臣にも話をした。
退位は仕方ないからせめて出家ではなく臣籍降下させてほしい、と。
「宮様、今上は私の孫です。私だって孫を幼くして僧になど……しかし一度は帝位に
出家するという事は俗世に関わらないという事である――まぁ建前としては。
「今回は凶兆が続く
「流罪ですって!? 何もしてないのに……!」
「ですから流罪にはなりません。ただ、このまま凶兆が続くようなら都におられると身に危険が及ぶかもしれませんので……」
私は
自分が
「では、早く私に
「こんなときにご自分の待遇の話ですか!?」
「今上の出家は仕方ありません。その代わり私の邸で引き取ります」
身分が高い者の出家は自分の邸ですることが多いのだ。
「弟に不自由な暮らしをさせないためには準三后が必要なんです!」
「宮様、そういうわけには……!」
「これだけは譲れません! 退位させるなら準三后と引き替えです! それと勿論、弟を引き取ることも認めていただきます!」
私が後に引きそうにないと見ると、
「三日ほどお待ち下さい」
左大臣はそう言って戻っていった。
二日後――
「宮様! 主上が退位されるかもしれないというのは本当ですか!?」
噂を聞き付けたらしい里子女王が飛んできた。
「一応、お父様や左大臣には退位後に臣籍降下させてほしいとお願いしているけれど……」
「既に退位される前提でお話しされてるんですか!?」
里子女王が悲鳴のような声を上げる。
私だって退位させたいわけではない。
というか、退位そのものより出家をさせたくはない。
けれど、赤気や客星は人間にはどうしようもないのだ。
出来ることと言えば退位後のことを考えて差し上げるだけなのだ。
私は里子女王を
三日後――
里子女王が来た日、左大臣からあと三日待って欲しいという文が来たのだ。
左大臣が言っていたのは今日。
私は
その時、地鳴りのようなゴーッと言う低い音と振動がしたかと思うと、空から雷のようなバリバリバリという大きな音が聞こえてきた。
立て掛けてある
「な、何……」
「宮様、あれを!」
岩手が空を指差した。
そちらを見ると空に線を引くように何かが飛んでいくのが見えた。
「あれは一体……」
私は信じられない思いで空を飛んでいく何かを
もうお終いですわ……。
こんな事まで起きてしまったら退位は
それどころか今上はどこか遠くへ送られてしまうかもしれない……。
私はその場に突っ伏した。
どれくらい時間が
「宮様、左大臣が参りました」
ヨネがそう言っても私は動かなかった。
どうせ
私がそのままでいると、ヨネが代わりに左大臣に挨拶をした。
「宮様、主上は退位なさりません」
左大臣の言葉がすぐには理解出来なかった。
ようやく左大臣が何を言ったのか気付くと私は飛び起きた。
「どういうこと?」
私の声は聞こえてしまったとは思うが、それでもヨネが同じことを繰り返す。
「実は陰陽師が凶兆を消す
左大臣はそこで一旦言葉を切ってから、
「客星は消えました。しばらくしたら次は東の空から客星が現れるでしょうが、その時は吉兆だと」
と、続けた。
「客星を消せるなんて、そんな強力な陰陽師がいるとは思いませんでしたわ」
「いえ、実際には消したのではなく星が西に向かって動いていたので数日以内に見えなくなると予想しただけです」
陰陽寮の天文博士というのは星の動きを見たり予測したりするのが勤めである。
おそらく今回の客星もどういう動きをするかが分かったのだろう。
「今、呪いでって言いましたわよ」
「あの客星はこのあと東から上ってくるはずなので呪いで吉兆に変えたことにしないとどちらにしろ退位しなければならなくなりますから」
「呪いっていうのはあの雷みたいな音?」
「いえ、あれは偶然だそうです。ですがちょうど朝議のときにあれが鳴ってくれたので退位に反対する
どうやら、あれを見た左大臣がとっさに機転を働かせたらしい。
「そういうわけですから客星の方はなんとかなりましたが……赤気や女房が立て続けに
左大臣が険しい表情で言った。
「ですから準三后ももうしばらくお待ちいただくことに……」
左大臣の言葉に私は溜息を
仕方ありませんわ……。
今上が出家しなくて済んだだけでも良かったと思わなくては……。
遠くに流されたりもしなかったし……。
今のところは、ですけど……。
まぁ準三后が貰えなかったら女房達は左大臣家に引き取ってもらえばなんとかなりますわね……。
でも、まだ噂が消えたわけではないようだし、なんとかしなければ……。
もしもの時は今上を引き取れるように準三后を貰わなければ……。
そのためにも事件を解決するしかありませんわ!
とはいえ、どうすればいいのかしら――
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