第六話

「岩手! なんですか、はしたない!」

「何かあったの?」

 大弐と私が同時に言った。


「宮様、鬼です! 宴の松原に鬼が出たそうです!」

「鬼? 岩手、あれはそう言う話が伝わっていると言うだけ……」

「見た者がいるそうです! この前、宴の松原で夜盗に殺された女房が鬼になって宴の松原に出たと……」

「まぁ、それなら出るかもしれないわね」


 殺されると鬼になるものなのかは知らないが、死んだ場所に出るならおかしくはないかもしれない。


「それだけではないんです! その鬼が別の女房を殺したと……!」

「…………」

「出たのはこの前の鬼火の夜だと……その噂で持ちきりですわ。それで今上が……」

 岩手が慌てて言葉を切った。


 私が顔を上げると、岩手が『しまった!』というように口に手を当て、大弐が恐ろしい表情で岩手を睨んでいた。


 どうやら、他の女房達は既に噂を知っていたらしい。

 今上が帝に相応ふさわしくないと噂されていることも。

 だから私の耳に入れたくなかったのだろう。

 それで、すぐに口を滑らせてしまう岩手には黙っていたようだ。


「岩手、私、清涼殿への使いを頼んだわよね?」

「はい、もちろん行って参りました。清涼殿の女御から聞いたんですわ」

 岩手の答えに私は立ち上がった。


「宮様!?」

「主上は昼の御座おましにいるわね?」

「はい」

 岩手が答える前に私は清涼殿に向かっていた。



「主上」

 私は昼の御座にいた主上に声を掛けた。


「お姉様、どうしたの?」

「いえ、もしお時間がおありでしたら双六でもと思いまして」

「う……ううん、今日はやめとく」

 主上は喜んで頷き掛けて首を振った。


「何かございましたか? 今日は唐犬とも遊ばれてないでしょう」

「……勉強しなきゃ。帝に相応しくならないと世の中が乱れるって……」

 主上の言葉に私は頭に血が上りかける。


「誰かが主上に相応しくないなどと奏したんですか!?」

「女房達が話してるのが聞こえた。火事でもないのに空が赤くなったのはキョーチョーだって」

「凶兆ですって……!?」

 私はそれ以上言葉が出なかった。


 幼い今上にそんな話を聞かせるなんて……!


 私はなんと言って慰めればいいか分からず辺りを見回した。


 その時、唐犬がおもむろに立ち上がると庭に駆け出していった。


 空から白いものが落ちてくる。


「まぁ、主上、雪が降ってきましたわ」

「え?」

「ほら、唐犬も喜んでますわ」

 私が庭の唐犬を指す。


「ホントだ」

 主上が嬉しそうな表情を浮かべた。


「唐犬と遊んでやってはいかがですか? でないと犬が可哀想ですわよ」

 私がそう言うと主上は少し後ろめたそうな顔をしながらも庭に出ていった。



 主上の表情がすっかり明るくなったのを見届けて私は藤壺に戻った。


「岩手、はかなくなった女房のことは何か聞いてる?」

「と、いいますと?」

「どこの女房が儚くなったの?」

「確か御匣殿みくしげどのの女房だったと思います」


 御匣殿は帝の着替えを手伝う女官である。

 帝が成人だと御匣殿の別当(長官)には、お手が付きやすいので妃に準ずる扱いになる(今の主上はまだ子供なので普通の女官ですけど)。


「鬼火と言っていたけど、それは?」

「火事でもないのに北の空が赤くなっていたことでございます。確か、陰陽寮の役人は『赤気せっき』とか申していました」

「陰陽寮の役人……」


 夜空のことなら陰陽寮の天文博士だろう。

 とはいえ、現象の名前が分かったところでどうしようもない。

 何も出来ない自分が歯がゆかった。



「宮様、左大臣からの遣いが今度の歌会の歌題を持ってまいりました」

「歌会? 大嘗祭おおなめさいの準備で忙しいんじゃないの? それに……」


 それに主上の嫌な噂が流れているときだ。

 悠長に歌会などしている場合だろうか。


「これは主上が開かれる歌会だそうです」

「主上が?」


 当然だが主上はまだ幼いから開きたいなどと言うはずがない。

 実際に主催するのは左大臣である。


 歌会でおかしな噂を払拭ふっしょくしたいというわけですのね……。


 現状ではそれくらいしか手がないのだろう。

 なら、それに協力するくらいしか出来る事はない。


「分かったわ」


 日にちは一月近く先だ。

 それまでに歌題に沿った歌を考えるのである。

 歌会に出るのは優秀な歌人だろうし、優れた歌を出してくるだろう。


 私は『和歌宮わかのみや』と呼ばれているが歌が得意なわけではない。

 和歌宮の和歌は歌の和歌ではないからだ。



 私が歌題を前に考え込んでいると、騒々しい足音が近付いてきた。


「宮様! また赤気が!」

 岩手の声に私は北の夜空を見た。

 確かに空がうっすらと赤い色をしている。


 噂のことを聞いたせいだろうか。

 なんだか嫌な感じがした。



 翌日――



「宮様、里子女王様からの遣いです。こちらにご挨拶に参りたいそうです」

「どうぞと伝えて」

 私がそう言うと女房が出ていく。


 その女房と入れ違いに別の女房が入ってきた。


「宮様、弘徽殿こきでんの女御がこちらに伺いたいと」

「まだ実家さとに帰ってなかったの?」


 内裏ここで産気づいたらどうする気かしら……。


 内裏では出産が出来ない。

 そのため身籠みごもると実家に帰って産むのだ。

 お兄様は退位されてしまったので女御や更衣は実家に帰ったらもう内裏には戻ってこない。


「女御にいつでもどうぞと伝えて」



 私は主上の様子を見に清涼殿に向かった。


「お姉様」

 主上が私を見て嬉しそうな顔をした。


「主上、双六をしませんか? それとも囲碁にしますか?」

「じゃあ、貝合かいあわせしよう!」

「貝合?」

「左大臣がケンジョーしてくれたんだ」

 主上がそう言うと女房が貝合の貝を持ってきた。


「まぁ」


 見事な貝に見事な絵。

 これだけ素晴らしいものは滅多にない。

 さすが左大臣だった。


「お姉様は双六や囲碁よりこういうのの方が好きなんじゃないかって左大臣おとどが言ってた」


 女性も双六や囲碁をするのだが、確かに貝合の方が好まれる。

 左大臣は私をここに引き止めるために今上にこれを送ってきたのだろう。


 でも、どうして……?


「お姉様、早くやろう」

 主上の声で我に返った私は貝合を始めた。



「宮様、今上の噂はお耳に入っていますか?」

 弘徽殿に行くと女御は挨拶もそこそこに口を開いた。


「ええ」

 私は頷いた。


「もちろん、私は今上の退位など望んではいませんわ。可愛い甥っ子ですもの」

 弘徽殿の女御が言った。


 そう、主上の母君と女御は母親違いの姉妹なのだ。


「でも、もし今上が退位という事になったら新院が重祚ちょうそという事に……」

「ならないと思うわ。帥宮や上総の宮おじさまがたがいらっしゃるのだし」


 特に帥宮そちのみやには成人している息子――つまり跡継ぎまでいるのだ。


 恒躬つねみは十七歳。

 子供の一人や二人いてもおかしくないのである。


 というか恋人が身籠もっていても不思議ではない年だ。

 帥宮が次の帝になれば当分は安泰なのである――まぁ左大臣としては都合が悪いでしょうけど。


 帥宮も上総の宮も出家はしていない。

 わざわざ出家してしまったお兄様を呼び戻す理由がないのだ。


「そうですか……」

 女御は落胆したように肩を落とした。


 そんなにお兄様に戻ってきてほしいのかしら?


「でも、早く噂を何とかしないと準三后じゅんさんごうどころではありませんわよ」

 弘徽殿の女御が言った。


 うっ……。


 私は言葉に詰まった。


 その後、しばらく他愛のない話をしてから弘徽殿をした。



 翌日――



 里子女王が訊ねてきた。


「宮様、今上の噂はお聞きになってますか!?」

「ええ」

「退位などなさらないですよね!?」

「それは私には分かりかねますわ」

「なんとかしませんと!」

「そう言われても……」


 弟のために何とかしたいのはやまやまだが、赤気を人間がどうにか出来るとは思えない。


「伊勢に行くなど冗談ではありませんわ!」

「まぁそうね」

「あ、申し訳ありません」

 里子女王が慌てて謝る。


「気にしなくていいわ」


 くどいようだけれど斎王の条件は『未婚』。


 では、里子女王は結婚してしまえば条件から外れるのではないか、というのは誰でも考えることでしょうけど……。


 これも繰り返しになりますけど皇族というのは血筋がいいだけで金が無い(大抵は)。


 それが何を意味するかというと婿を取るのが難しいのだ――殿方は出世を手伝ってくれそうな女性を妻に選ぶから。


 複数の妻がいるのは当たり前なのだから、そのうちの一人になればいいだけ?――と思うでしょ。


 でも、いくら複数の妻がいるのが当たり前でも妻の方としては夫が他の女のところに通うのは面白くない。

 出世の鍵を握る妻の機嫌を損ねたくないとなれば安易に妻にすることは出来ないのである。


 血筋なんて出世にはなんの役にも立たない。

 今は帝に実権がないから親戚を引き立てるということは無理なのだ。


 ある程度出世して金に困らなくなった殿方が血筋はいいが貧しい女性を妻にすることはあるけれど、それはかなり年を取ってからである。


 結婚してしまえば斎王にならなくてすむにもかかわらずしないのは里子女王は親王の娘だから(というか、金が無いから)妻になれないのだろう。


「宮様、私、何でもいたしますわ。ですからどうか主上が末永く在位できるようにして下さい!」

「はぁ……」


 それが出来るならとっくにやっていますわ……。


 退位は出家を意味するのだ。


 お兄様もそうですけど若くして出家というのは可哀想ですもの……。


「岩手、恒躬……左兵衛の佐のところへ行ってちょうだい。ここに来てほしいと伝えて」

 私は岩手に声を掛けた。

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