離れ
砂漠を越えつつ、船を用いてナイルを渡り、約一日と半をかけてテーベへ到着した。
砂漠での移動中も船の中でも王宮からの侍女たちに囲まれて、父や兄と顔を合わせることすらなく、ようやく王宮について少し話せるかと思いきや、決してそんなことはなかった。
輿から降ろされて、ラジヤとともにタニイに案内されながら整った石畳の地面を踏みしめる。ムノの屋敷にはない、どこまでも綺麗にされた地面。テーベの王宮に着いたのだと、それだけで実感する。
緊張を伴った長い道のりが終わった。胸一杯に空気を吸い込んで瞼を開けれた先に、視界を埋め尽くすのは白く大きな柱だ。それを挟むようにして大きな天井と土台。土台からは塵ひとつ落ちていない階段がこちらへ伸びている。この国の栄華を現すような立派な宮殿がそこにあった。
降り立った場所の壮観な光景に呆気にとられながら家族の姿を探す私を、目の前にずらりと並んでいた王家の女官たちが深々と頭を下げて迎えた。一糸乱れぬその様子に度肝を抜かれる。
こんなにも大勢から頭を下げられたことがなくて、どうしたものかと狼狽していると、女官長と呼ばれる女性が私の前にきびきびとした足取りで大きく前へ進み出て、他の侍女たちと同様に低頭した。
「ティイ様。ご無事のご到着、何よりで御座います。テーベの王宮にて女官長を勤めております、メレスと申します。どうぞお見知りおきを」
つり目で頬骨が出た、「強そう」という言葉が一番似合う中年の女性だった。母と同じ年の頃だろうか。何だかメティトに似たものを感じてどきりとしてしまう。敵にしたらきっと怖い人だ。
「王子殿下の乳母も勤めさせて頂きました。ティイ様にも誠心誠意しっかりとお仕えさせて頂きます」
私が「よろしく」と応えると深々と頭を下げ、その後に姿勢を直し、私の背後で怯えたようにいるラジヤにゆっくりと目を向けた。
「あなたがラジヤね」
「はいっ!」
ラジヤが私の背後から飛び出して頭を下げた。
「ラジヤと申します!ティイ様の侍女としてお仕えして参りました!よろしくお願い致します!」
女官長は一度小さく頷く。
「ティイ様の第一の侍女として王宮に迎えるよう王子殿下から承っております。これまでのティイ様のお世話を私どもに教えてください」
「お手柔らかにお願いいたします」
ラジヤはメレスにびくびくしているが、決して嫌な感じはしない。仕事ができる格好いい女性という印象だ。
タニイもいて、ラジヤもいる。身の回りのことはメレスに任せれば大丈夫な気がしてきた。心強いことだ。
「さあ、こちらへ。お疲れでしょうから、まずティイ様の離れへご案内致します」
私の返答を見届けると、今度は私の背後にいるタニイとラジヤに視線を向けた。
「あなた方もご一緒に。ティイ様の離れはあなた方が過ごす場所でもあるのですから」
メレスを先頭に、私はラジヤとタニイを後ろに王宮の内部へ足を踏み入れた。
ラジヤとタニイの背後には数人の女官が一糸乱れずついている。女官というよりは、メレスの直属の部下という雰囲気だった。おそらく私の侍女になる人たちだろう。
王宮を守る衛兵が等間隔に並び、私が通ると皆同じく低頭し、回廊を行き来していた女官たちも私たちの姿を見るや否や、道の脇に身を寄せて頭を下げた。
母からは、何があっても堂々としているようにと言われていた。正妃となるからには、こういった空気も慣れる必要があるだろうと、ぐっとお腹に力を込めて胸を張った。
「この王宮は実に数百年前に建てられたものですが、ファラオが改修を重ねられ、今の状態を保っております」
今まで常に夜に訪れていた場所だからか、王宮内はあの時と大分違って見えた。
石を加工して作られた宮殿はどこまでも白く、太陽に美しく反射して眩しいほどだ。明るいとこんなに開放的で真っ白に見えるのだと驚く。
回廊を支える、丸みを帯びた柱たちも立派で、白く長く続く回廊を風が通り過ぎ、不思議な音を成した。
「こちらはティイ様も宴の際に訪れていた場所になります」
メレスの案内に頷いた。
ここは、よく父と訪れた宴の大広間。あの回廊の柱はよく私が彼を待っていた場所。その先にあるのは、一度だけ訪れた紫の葡萄園。
記憶にある場所が目の前を流れるようにやってくるというのに、何だかそこで過ごした日々が遠い過去のように思い出される。
「ここからは王家の方々の居住空間になります。王家の方々とそれに仕える者しか入ることは許されません」
回りの壁や天井を見ているだけでも、来客たちが訪れることのない、王家の者たちだけに用意された空間に自分が足を踏み入れていることが分かった。
レリーフは最近新しく描かれたのだろうか、我が国王家の神話をこれでもかと鮮やかに、踊るように現している。
細かいところにもハスの花や動物などのレリーフがあしらわれ、所々に現れる神々の像が大きくて驚かされる。
「ティイ様、こちらへ」
口をぽかんと開けながら導かれるままに案内されたのは、ひとつの王宮の中庭を通る真っ白な回廊だった。その回廊はひとつの建物に伸びている。
「この先が、殿下がティイ様のために造られた離れに御座います。基本的にはこちらで過ごして頂くことになっております」
大きな宮殿の離れ。アトラーが手紙で書いていたものだ。
「私の……?この建物が?」
「左様です。ティイ様のものです。近くには王家や国の記録を集めた書庫も御座います」
言葉を失ったまま建物を仰いだ。
外観だけでその広さが容易に想像できる。ムノの屋敷もそれなりの広さのあるところだったが、その比では無い。それも一度連れて行って貰った王家の書庫も近くにあると言う。
ここよりも狭い場所を想像していただけに、開いた口が塞がらない。
そんな私の様子に、メレスは少し口元を緩めながら回廊を渡り、二人の兵が守る扉を越えて離れの中へ進んだ。
離れに入った途端、ずっと後ろをついていた数人の侍女たちがいなくなり、私の背後は目を輝かせて辺りを見回すラジヤと平然と澄ました顔で歩くタニイだけになっていた。
廊下にも女神たちのレリーフが色鮮やかに踊る。これだけのものを一ヶ月で作り上げる王家の財力はどれだけのものなのだろう。
「ティイ様のお部屋は離れの最奥に御座います」
扉の向こうは廊下が続き、いくつかの小部屋に繋がっているようだった。
「こちらは侍女たちと正妃付きの書記官の控え室と調理場になります。私をはじめとした、正妃付の侍女たち、ラジヤ、書記官としてタニイ殿が控えておりますので、ご用があれば何なりとお申し付けください」
てきぱきとした説明に、「ありがとう」とありふれた返事しかできないでいる。そんな私を見たメレスは柔らかく微笑んだ。
「ティイ様がこちらにいらっしゃるのを殿下はとても楽しみにしていらっしゃいました」
だからここまで用意してあると言わんばかりだ。
「ティイ様のお部屋はこの奥に」
更に扉があって、そこを抜けて初めて自分の部屋が現れた。ハスの花のレリーフが多く取り入れられた、白を基調とした空間だ。
三つの部屋が連なっており、最奥に寝室で、その手前の一室には壁に沿うように立つ大きな本棚と、装飾が施された机と椅子があった。本棚には当然のごとくパピルスと粘土板が並べられている。
大きな本棚のひとつに手を添えて、感嘆を漏らしながらそれを仰いだ。
「ティイ様が好まれるだろうと、書物や諸国の珍しいものを取りそろえております」
即座に返される返事に、度肝を抜かれる。
「これ全部?本当に読んで良いの?」
信じられずメレスに尋ねると、「勿論です」と返事がすぐに返ってきた。
書物を読んで良いと言われることがなかったから、余計に嬉しさに胸が高揚した。これだけの量ならば、一日中読んでいても読み切れない。新しいものを次から次へと読むことが出来る。
「足りなければ王家の書庫へご案内致します。こちらにお持ちになってお読み頂いて構いません」
決して外に出されることがない書物の数々を読むことが出来る。それを考えるだけで嬉しくて飛び上がりそうだ。
──でも。
「王家の蔵書を私が読んでも大丈夫かしら……」
本来なら男性だけに許されるものであるはずだ。あの書庫も、おそらく女性が入ることを考えて作られていないだろう。アイがよく言っていたように、そもそも文字は神のもの、神聖な立場の者にしか許されないものなのだ。
「何を仰います」
メレスが私に向き直った。
「ティイ様は殿下の正妃になられる御方です。してはいけないことなどありません。何より殿下がお許しになっているのですから」
メレスは私の発言に驚いた様子だった。
「お庭もご自由に散策して頂いて構わないと仰せでした」
その先の部屋は美しく花が咲いた庭に面していて、庭にすぐに出られる構造になっていた。いつでもそこから庭を眺めて勉学に励めて、好きな時に庭に出られる。
「ご希望であれば馬も用意致します。剣をお手にしたければ相手を連れて参ります。何なりとお申し付けください。これから持参されたお荷物も寝室へお運び致します」
花が咲いている他に少し開けた空間が庭にあるのは、馬を連れてきても、剣の鍛錬をしても問題がないようになのだ。何だか夢のようで言葉にならない。
今まで私がやりたくとも父に禁じられていたすべてだ。それを堂々と自由にやっていいと言われていることに目眩を覚える。
「本当に至れり尽くせりだね」
「自由ですよ!まさにお嬢様が夢見ていたことだわ!もうそれを叱る旦那様もおりませんもの!」
タニイとラジヤに言われて、たじたじと頷く。
感激と同時に、今まで禁じられていたことを自由にして良いと言われると戸惑いばかりが生まれてくる。
「何か気がかりなことでも?」
私の気持ちを察したらしいメレスが気遣わしげに尋ねてきた。
「こんなに良くして頂けるなんて思いもしなくて……」
メレスもタニイもラジヤも、私の言葉を静かに待っていてくれている。誤解を招かないように少し悩んでから再度口を開いた。
「ここで自由にして良いと言われていることは、通常男性のみに許されるものだわ。私がここで好き勝手に過ごして、王家の方々にご迷惑が掛からないか……こんな主人で皆が嫌に思わないか心配で……」
「何を今更」とラジヤが笑い、「なんだそんなことか」とタニイはほっと息を吐き、メレスは「とんでもない」と首を横に振った。
私ばかりが悩んでいたようで何だか虚を突かれる思いだった。
「これは殿下のお考えです。何も問題は御座いません」
メレスは優雅な笑みを口元に浮かべた。
「殿下は、年齢性別身分に捕われず、才を持つ者を用いよという考えの御方です。男性がすべき、女性がすべきという線引きを無くすのだと」
確かに、王子の命令を受けてタニイは他全員が男性である書記官の位に就いている。これも前代未聞のことだ。
「何より、古から続いた正妃に、貴族とは言え一般の民であったティイ様を選ばれた。それ以上の答えはありません」
メレスの説明で何となく腑に落ちる。
彼は、当たり前と言われていた様々な常識を変えようとしている人なのだ。
それに、とメレスが続けた。
「ここだけの話ですが、殿下が誰かひとりの女性に入れ込まれるのは初めてのことで、私どももティイ様にお会いできる日を楽しみにしておりました。お優しそうな方でとても嬉しく思います。どうかこちらで伸び伸びとお過ごし下さい」
深々と頭を下げる女官長の手を取った。彼女の顔が上がってふとかち合う視線は、母のものによく似ていた。
「母からは一通り教わっているのですが、今までムノからほとんど出たことがなかった私には、分からないことが多くあります。どうか、私に色々教えてください」
「勿体なきお言葉です」
ここでやっていけそうだと希望を感じて、私が微笑み、タニイやラジヤも笑った時、王宮から続く回廊の方から騒ぎ声が聞こえてきた。
「なりません!」
「お控えください!」
廊下に控えていた侍女たちの声のようだ。
離れの廊下から部屋へ繋がる木製の扉が開けられるのを防ぐようにがたがたと揺らされていて、誰かが無理に押し入ろうとしているのが分かる。
事態を察したらしいメレスが身を翻して、扉に歩み寄った。
「何事か!」
一声で緊迫が走る。勇ましさすら感じる声だ。
一体誰が来たのかと覗こうとする私を、タニイとラジヤが引き留め、奥へ下がるよう促した。ラジヤは事態が掴めず若干怯えた様子で、タニイは誰が来たか分かったように顔を顰めている。
「最高神官殿のご息女が……!」
わずかに開いた扉から侍女の返答があった瞬間、その隙間から白い手がぬっと出てきて、扉が閉められるのを防いだ。あまりにも突然に、遠慮無く割り入れられた女性のものらしき手にぎょっとする。
メレスは部下の一言ですべてを把握したらしい。一呼吸置いて、扉からこちらへ入ってこようとする相手を待ち構えた。
「私を誰だと思っているの!」
扉から、見知った顔が甲高い声で言い放ちながら姿を現した。
固唾を飲むほどの美しい顔に怒りの表情を浮かべ、波打つ長い黒髪を振り乱してやってきたのは、久々に姿を見るヘルネイトだった。
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