第39話 袋のネズミ
首都アドレアの住宅街。
屋根の上にひっそりと佇む三人の影――ハンナ、ユルゲン、カラスがいた。
「カラス。あなた、わざとネズミを見逃していたのではないでしょうね?」
「いいえ。お恥ずかしながら、わたしの力をもってしても見つけられませんでした」
いつも通り慇懃な口調だが、ハンナにはカラスが幾分落胆していることがわかった。
それもそのはず。
カラスは王都において右に出る者はいない諜報だ。
平民のへそくりの場所から、王女の今日の下着の色まで、どのような情報でもカラスの元に集ってくる。
それだけの情報網を構築したこともさるものながら、一番はすべての情報を記憶し処理する脳である。
そのカラスがネズミ――聖皇国からの間者を見つけられなかったのだ。
尋常ならざる事態である。
「一体、どのような手管を使っていたの?」
「十年以上前から入り込んでいた、休眠諜報員だったんですよ」
「ああ……それは、気づけないわね」
休眠諜報員は、〝刻〟が来るまで活動を行わない。
それらしい行動も起こさないし、発言もしないし、関係者と接触することもない。
そのため、外からは一般人と一切区別がつかない。
カラスの諜報網からも漏れてしまったのも無理はない。
「カラスでも気づけなかったネズミに気づかれるなんて。エルヴィン様は本当に素晴らしい御方だわ……」
「ああ。『ネズミを駆除しろ』って言われてなきゃ今頃、俺らの脱出ルートが寸断されてたろうな」
「でも、エルヴィン様に叱られてしまうわね。消せと言われたのに、今まで消せなかったのだから」
ネズミについて知らされてから、その存在に気づいたのは先日のことだった。
理由はわからないが、突如ネズミたちが眠りから覚めて活性化したのだ。そのおかげで存在に気がつけた。
そこから脱出ルートを再度確保し、さらにネズミたちの行動を制限しつつ追い込みをかけたのが今日。
エルヴィンに情報を渡された上、消せと言われたのに、ネズミたちが活性化してもなお消せなかったことは、ハンナたち家令にとっては完全敗北といって良い。
ここまで仕事が上手くいかなかったことなど、自分たちの代では初めてだった。
それだけ相手のネズミが上手だった。
しかしそれも、ここまでだ。
「おう、やっと来たな」
こちらが撒いた餌を嗅ぎつけたネズミ三匹が、ハンナたちが見下ろす広場に現われた。
「さて、時間がありません。さっさと消しましょう」
「一般人を巻き込むなよ?」
「誰に向かって言っているのですか?」
「はいはい。お二人とも、お仕事ですよ」
カラスの合図とともに、表情から感情が消えた。
その変化を、ネズミどもが嗅ぎつけた。
即座に散開。
流れるような逃走。
この動きだけで、相手が相当の手練れであることがわかる。
「私は右。ユルゲンは左を」
「了解」
「では、わたしは真ん中をヤりますね」
ハンナとユルゲンの姿が音もなく消えた。
残像も残らぬほど素早く動いたというのに、音が聞こえないのが解せない。
「一体、どういう仕組みなんでしょうねぇ。よいしょ、よいしょっと」
一人、戦闘力を持たないカラスは、縄はしごをゆっくりと下っていく。
ネズミは真っ先に逃げ出し、こちらは完全に出遅れている。
なのにカラスは慌てることなく、ネズミが逃げた道を辿る。
しばらく歩くと大通りに一人、ぽつんと佇む人の姿を発見した。
「大変お待たせして申し訳ありません」
「貴様、カラスかッ! これは一体、どうなってる!?」
ネズミが鼓膜が痛むほどの怒鳴り声をあげた。
声はただの虚勢。
彼は、何もない大通りで何故か前に進めなくなったことが、恐ろしくて仕方ないのだ。
「お気に召して頂けましたか? ええと、ジャックさんで合ってますよね?」
「……っ、貴様、おれに何をした!!」
「ふふふ……。地形を使った混乱効果ですよ」
人間は自分の位置を正確に把握するため、周囲から様々な情報を取得している。
大多数の人間が道に迷わないのは、だからだ。
しかし翻って、情報が取得出来ない場所では自分の位置が正確に把握出来なくなり、簡単に迷ってしまう。
たとえばこの大通り。
全く同じ建物が連続し、さらに左右の大通りも同じ作りになっている。おまけに僅かに道が曲がっていて見通しが悪いため、自分の居場所を見失いやすい。
さらにカラスは重ねてこの場所に、人の認識をほんの少しだけ歪める石を配置していた。
それはまっすぐ進んでいるのか、それとも右に曲がったか、左に曲がったか、わかりにくくなる魔道具だ。
その二つの相乗効果により、ネズミ――ジャックは道に迷い、カラスの狙い通り足止めを食らってしまったのだった。
「くそっ! だが、まあいい。相手がカラスだとわかって安心したぜ」
「ほう」
「知ってるぞ? 貴様、戦えないんだろ」
「間違ってはいませんねぇ。わたしは戦えません」
「ふんっ。よくもまあ、戦えないくせに、のこのことおれの前に現われたものだ。その勇気だけは褒めてやろう」
そう言うと、男は腰からぬらりと黒いナイフを抜いた。
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