バイバイ、お母さん。ハロー、ハンデ。(2)
洗い物をすませると、お父さんと一緒に家を出る。
お父さんは港区役所に勤める職員で、あたしは西築地小学校の六年生。
区役所から小学校はほんの目と鼻の先で、なにかあれば、お父さんはいつでもすぐに学校まで飛んでこれる。六年生になった今ではさすがにないけど、四年生になるまでのあたしは、事あるごとにお父さんを呼び出していた。
もちろん我慢だってする。でも我慢にも限界ってものがあるし、もっと小さかった頃のあたしには、その限界が毎日のようにやってきていた。
パニックになると、あたしは「おとーさん! おとーさん! おとーさん!」って壊れたスピーカーみたいに喚いて、それを持て余した先生が、すぐに電話をかける毎日だったことは想像に難くない。
三年生だったころ、ある朝、分団登校の途中で男子にからかわれたあたしは、歩道橋を走り出して階段から転がり落ちてしまった。じつはその瞬間の記憶はあまりないんだけど、そのあと目を覚ましてからのことはよく覚えている。
学校から電話連絡を受けたお父さんは、額に変な汗をかいて真っ赤な顔で走ってきた。いまにも先生に掴みかかりそうな勢いで、声を震わせながら、「茜をからかったのはどの生徒ですか!?」と、柄にもなく犯人を突きとめようとして、そのあまりの迫力に、思わず先生がいい淀んでしまったくらい。
お父さんは見るからに怒っていた。その日はもう休ませるといって、先生がとめるのも聞かずに職員室を出ると、黙々とあたしの手を引いて歩いて帰った。
区役所に戻らなくてもいいの? ときいてもお父さんはずっと黙ったままで、つないだ手の力が妙に強くて、ちょっと痛いくらいだったことを覚えている。
家に戻ると、お父さんは部屋に閉じこもって夕方まで出てこなかった。
それ以降、あたしはお父さんと一緒に毎朝学校に通っている。
♮
6―4、教室のぷらぷら揺れる札を見るたび憂鬱な気分になっていく。同じ小学校にもう六年間も通ってるのに、あたしには数えるほどしか友だちがいない。
ううん、本当は友だちと呼べる子なんてひとりもいないかもしれない。
「茜ちゃん、おはよう!」
教室に入ると友子が待ちかねたように席を立ち、声をかけてきた。さびしがり屋の友子は、唯一の友だちであるあたしが登校してくるまで、じっと息を殺して自分の席で待っている。つまり友子もあたしと同じ、クラスに馴染めない派なんだ。
「茜ちゃん、一時限目、国語の小テストだよ? 勉強してきた?」
あたしが首を横に振ると、友子はうれしそうに笑った。大きな体をさらに目立たせるピンクのフリフリスカートを履いて近づいてくる。
「あたしも。ああーやだなあ、あと十分しかないよ、心配だなあ……。茜ちゃんは、いつも点数いいからうらやましいよ。うちのお母さんが勉強教えてもらえってうるさいもん」
机に手を置くと、大きなお尻を突き出してのぞき込む。袖口についているリボンと同じ模様のコットンレースがスカートの裾から見えていた。
あたしは黙って笑うとまた首を横に振り、カバンから出した教科書を机の中へとしまう。国語の教科書のふちに昨晩つけた折り目が残っているのに気づいて、それを友子の目に触れないようにさりげなく隠した。
友子は袖口のリボンをいじりながら、黒板の上にある時計を気にしている。テストが心配なんだろう。袖口をいじるのは不安になってるときの友子のクセ。
じつは友子はあまり成績が良くない。あたしだってそんなにいい方じゃないけど、友子ほどじゃあない。今日の小テストだってしっかり準備してきた。でも、もしあたしが勉強してきたなんていったら、友子は不安がってしまう。だからあたしはやさしさのつもりで、いつも勉強なんてしていないふりをする。
「里内、おまえどけよ、あぁー、今日も通路がピンク親方のやる突貫工事で通行止めだよ。マーベラスなやつはこれだから困るよ、それにしてもでけえなあ。記念写真でも撮りますかあ?」
海外コミックスのキャラクターが描かれた黄色いティーシャツを着た根本が、下から目線でのぞき込むと、上からな態度を取った。
友子が途端に肩身の狭い顔をして下を向く。
「おお、おお。一丁前に体縮めていらっしゃいますけど、通路の工事は終わってなぁい! 一〇〇メートル先からでもこのピンクの看板はとっても目立つからみなさん迂回してくださーい! なあ里内、漫才師にでもなったらビッグになれるんじゃねえの? あ、もうこれ以上ビッグにはなれねえか! もう大きくていらっしゃいますもんね」
こいつらは将来お笑い芸人になりたいらしくて、休み時間のたびにくだらないコントを披露している。笑えるネタなんてまったくないけど、口だけは立つのか妙にボキャブラリーが多い。
女子から不人気な彼らは、
スキャット並みにまくしたてるお笑い志望のクラスメイトに今日も怯まされ、友子は顔を真っ赤にすると自分の席へと戻っていった。
本人の趣味なのか、親の趣味なのかはわからないけれど、友子の服はピンク色が多い。多いというよりほぼ毎日。しかも高そうなレースのゴスロリ系だったりする。
そんな服を毎日学校に着てこればからかわれて当たり前よ。体もでかいし。
どうしてそんな服を着てるのか、一度だけきいてみようとしたことがある。でも吃音のせいでうまくいえず、目の前で不安そうにする友子を見ていたら、それ以上何もいえなくなってしまった。だから今日の今日まで、その理由はわからないままだ。
服の趣味に共感は持てないし、「ピンク親方」なんてあだ名をつけられても仕方ないと思う部分もある。でも人の身体的特徴をばかにする男子たちはやっぱり最低。
人をばかにするやつほど、本当は自分が悪口をいわれるのを怖がっているやつが多い。ああいった連中は誰かひとりを吊るしあげて、自分を視界から逸らそうとする弱いやつらばかり。
――本当に頭に来るよ。
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