彼女と彼女のペリドット
津月あおい
第一章 萌枝
第1話 喫茶店での出会い
わたしが彼女と出会ったのは、桜が満開の季節だった。
場所はK駅の駅ビル二階、喫茶「オリーブ」で。
当時わたしはK駅近くの小さな絵本専門店に勤めており、昼休憩でいつもこの喫茶店を利用していた。
東側に床から天井まである大きな窓があり、そこのカウンター席の左端がわたしの定位置だった。
「あの、すみません。お隣いいですか?」
そう声をかけてきたのが、彼女だった。
読書中だったわたしは顔を上げて驚いた。その人は海外のモデルさんのように華やかな見た目をしていたからだ。すらっとした背丈に、短めのブロンドの髪と、若草色の瞳。それなのに流ちょうな日本語をしゃべっている。
外国人だろうか。
そうだと判断するには少しあやふやな不思議な人だった。
わたしはズレた眼鏡を直しながら、どうにか声を出した。
「ええ。どうぞ……」
ミステリー小説を読んでいたが、急にどこを読んでいるかわからなくなった。
女性はその間に右隣に座り、バッグを足元に置く。
わたしは落ち着かなくなって本を閉じ、トレーの上のアイスコーヒーをすすった。まだ食べていないBLTサンドが、皿の上でじっとわたしを見つめていた。
「それ、美味しそうですね。私もそれ頼めばよかったな」
今のは?
わたしに話しかけてきたのだろうか?
隣を見ると、先ほどの女性がニコニコとわたしを見ている。何と答えていいかわからず、わたしはあいまいに微笑み返した。
「ここからの眺めもいいですよね。もう桜が満開だ」
やはり話しかけられている。
寂しい人……なのだろうか。よくこうやって話しかけてくるご老人がいるけど、この人はそういう風には見えない。
窓からは東口のロータリーと、その向こうにある大きな公園が見えていた。
公園内には桜の木がたくさんあって、どこもかしこも桜色に染まっている。
「桜は、あまり好きではありません」
突然、わたしの口からそんな言葉がこぼれ出た。
驚いた。
なぜこんなことを口走ってしまったのだろう。自分自身に疑問がわく。
赤の他人に、なぜそんな個人的な思いを打ち明けているのか?
普段のわたしなら絶対にしないことだった。
「どうして?」
内心の言葉と、彼女の質問とが被る。
桜が好きじゃない理由?
それは、五年前のことをどうしても思い出してしまうからだ。親しい人と死に別れたあの季節を嫌でも思い出してしまうからだ。でも、そんなこと見ず知らずの人にすぐ話すようなことじゃない。
「まあ……この時期は花見客で混みますからね、どこもかしこも。私も、実はそれほど好きじゃないんですよ桜。あ、すみません。ペラペラと。うるさかったですよね。もう黙ります」
そう言って、女性はようやく静かになった。
よかった。あれ以上踏み込まれていたら、どうしていいかわからなくなるところだった。まだ何も食べていないのに、店を出るはめになっていたかもしれない。そんなことはごめんだ。
わたしはまたなにか話しかけられる前に、BLTサンドをかじることにした。
「お待たせいたしました~」
ややあって、店員が隣の女性に料理を持ってきた。
アイスレモンティーとドーナツセットが乗ったトレーがカウンターの上に置かれる。女性はそれを嬉しそうに眺め、さっそく手を付けはじめた。
亡くなった夏先輩もドーナツが好きだったな、などと思い出す。
先輩はもっぱらこれのチョコシリーズが大好きで、何個も何個もいろんな種類のチョコドーナツを食べていた。口いっぱいに頬張った先輩は、味を変えるたびに美味しい美味しいと笑っていたっけ。ああ、あの頃が懐かしい。
「うーん、美味しいっ! いやー当たりのお店だここは!」
そんなわたしの思い出に割り込むように、隣から女性の歓声があがった。
ドーナツのクオリティを絶賛している。
行きつけのお店のメニューが褒められるのは嬉しい。ただ、少しだけオーバーなだけで。情緒があまり感じられないだけで。
「うーん……本当に美味しい。やっぱりここのお店にして正解だったな~。ね、ここの料理ってどれも美味しいの?」
また急に話しかけてくる。しかも今度は馴れ馴れしく。
「あ、ごめんなさい。自己紹介もせずにさっきから。私、この近くの英会話教室で講師をしている、ハンナと申します」
「は、ハンナ……さん?」
「はい。ずっとこのK駅付近に勤めてたのに、食事処をあまり開拓してこなかったな~と思いまして。この店は本日、初めて来たんです」
「そ、そうでしたか」
「あなたも、このあたりで働いてらっしゃったり、近所にお住まいだったりするんですか?」
「ええ、まあ……」
職場は本当にすぐ近くだし、住んでるところもまあ遠くはなかったのでうっかりそう答えてしまった。
「なるほど。で? ここの料理は全部美味しいんですか? もしそうならまた来て別のも食べてみようかなって思うんですけど」
「あ、ええと、たぶん」
「たぶん?」
「わたしは全種類食べたわけではないですけど、他の料理も美味しかったので。たぶん、そうだと思いますよ」
「じゃあ、また来ようかな」
女性はルンルンといった擬音が聞こえてきそうなほど上機嫌で、またドーナツを食べはじめた。
夏先輩を思い出す。
やめて。
その席は……夏先輩が座っていた席なの。
この喫茶店にふたりで初めて来たとき、わたしがこの席に、夏先輩がそっちの席に座っていたの。
だから、だから、その席で同じように笑顔でドーナツを食べないで。
「あ、そうだ」
女性から意識的に視線をそらしていると、ふいに女性が何かを思い出したようにつぶやいた。
「あの、もし良かったら、お名前伺ってもいいですか?」
「は?」
とっさに振り向くと、女性は指先についたチョコをすばやく舐めとりながら、いたずらっぽく微笑んでいた。
「またこの店に来たときに、お会いすることもあるかもしれませんし。ね?」
なにそれ。ナンパ?
それとも何かの勧誘?
警戒していると、彼女はバッグから名刺を取り出して、一枚こちらに渡してきた。
そこには、英会話教室「ノア」英語講師ハンナ、と印字されている下に、ボールペンでおそらく個人の連絡先が書かれてあった。
「はいこれ。英会話に興味なくても、私に興味あったら連絡してください」
「どういう……意味ですか?」
「私は気に入った人には全員、こうして連絡先を渡してるんですよ」
「気に入った人……」
「ね? お願いです。名前、教えてください!」
両手をすりあわせて何度も懇願されたが、わたしは丁重に断った。
結局、ナンパだったのか。
男性にされることもいままでほとんどなかったのに、まさか女性にされるなんて思ってもみなかった。
この店で。
夏先輩との思い出の店で、そんなことが起きてしまうなんて。
なんだか少し嫌だった。
それが、わたしが彼女に抱いた最初の印象。
窓の外の桜の花が悲しいくらいに美しい、春の日のことだった。
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