77.7キロのキセキ
北山の人
第1話 懐かしき過去、途切れたあの日
見渡す限りに広がるオーシャンブルー。
こじんまりと鎮座するレトロな木造駅舎。
ホームには彼の他に人はおらず、ベンチの下では野良猫が気持ちよさそうに丸まって寝ている。
線路の隙間からはのびのびと草が生え、燦々と春の陽射しを浴び輝いている。
そんなのどかな景色を、男は目に焼き付ける。
駅舎に入り、薄汚い壁に掛けられた駅ノートを手に取り、ぱらぱらとページを捲る。
『図書室の本でこの駅を知って来ました! 写真以上の絶景で感動しました! また来ます!』
その筆跡を優しく撫で、ノートを元の場所に戻す。
「ここで途切れさせるものか……」
ナー、とさっきまでベンチの下で寝ていたはずの猫が、身体を男の足に擦りながら呑気に鳴く。
男はしゃがんで猫の頭を撫でてやると、猫は目を瞑りゴロゴロと鳴く。
そんな様子に口元を綻ばせながらも、男は目線を落とした。
***
都心部から少し離れた郊外の街は、人を縦に横に詰め込んだマンションばかり。
「んじゃ、行ってくるわね。今日はちゃんと大学行きなさいよ」
「はいはい、行ってらっしゃーい……」
そんなマンションの一室から、化粧をバチバチにきめたお母さんが仕事へ向かう。
それを見送ってカギを掛けると、私は踵を返し、寝室のベッドへ飛び込む。
パジャマ姿でぐるりと仰向けになり、天井をぼんやりと見上げる。
私も30分後には家を出て大学まで行かなければならない。本来であれば。
だが今日はベッドに根が張ってしまっている。
無気力で居る時間が何より心地よく感じてしまった。
だがそんな事情もつゆ知らず、スマホからけたたましく着信音が流れ、身体を起こす気力も無く寝転がりながら手に取る。
「もしもし」
『あ、らんらんおはよー。……今日はキャンパス来てない感じ?』
「……うん、ごめん」
『そっか。教授が次のコマで小テストやるって言ってたから、あとで範囲送っとくね』
「うん。いつもありがと」
『友だちとして当然のことよ〜! んじゃ、またねー』
そうして1分を超えることなく通話は終了した。
こんな事務的な通話も何回してきたのか、私には見当もつかなかった。
……小テストか。
「嫌だな」
あと何回休んだら単位を落とすんだろうか。
そう思うとますます後ろめたい気持ちが残る。
何かする気も起きずぼんやりと天井を見つめていたが退屈になり、なんとか面白いものを探そうと目線を滑らせ横の棚を見ると、紺色の分厚い本の背表紙に箔押しされた金色の文字に目が惹かれる。
『
「小学校、か」
テレビで見た都会の街は多くの人で賑わっていて、毎日が刺激的なのだろうと、東京に思いを馳せていた幼少期。
あの頃の私は都会に行きたくて仕方がなかったな、と空っぽな頭で回顧する。
だが今の私にとって、都会という新鮮で斬新なスパイスは、とっくに賞味期限切れだった。
『
『先生もあなたの案は良いとは思う。だけど、もう少し周りの空気を読んでみたらどう?』
『だってあいつ、面倒なことすんじゃん』
『この大学よりか、こっちの大学の方が千歳の学力に合ってると思うぞ』
だから私は自分を閉じ込めた。
はっきり言えば、私に都会は合わなかった。
「昔に戻りたい……」
昔のことは、今でも鮮明に覚えている。
『
ホームにジリリと鳴り響く発車ベルの音を掻き消すように叫んだ彼女の声。
『東京行っても元気でね!』
『うん! ──もね!』
『──……!』
列車のドアが閉まり、彼女と私の間を遮断する。
母の転勤で小学校卒業と同時に東京の学校へ転校することになり、そんな私をホームの端まで走って手を振って見送ってくれた、親友との思い出。
そんな懐かしさに浸りたくなって、私は起き上がって卒業アルバムを取り、適当なページを開く。
見出しには、修学旅行、と書かれてある。
中には子どもたちの笑顔に溢れた写真が数多くあり、そんな中にある一つの写真を見つける。
それは、私と彼女が列車の座席に乗って笑顔でカメラに向かってピースをしている写真だった。
『夏休みになったら、こっちに戻ってくるから!』
そんな言葉を思い出した途端。
「帰ろう」
何を血迷ったか、数年使われていなかったスーツケースを掘り出して着替えを突っ込み、スマホと財布をお供に鍵もかけず外へ飛び出し、いつもと逆方向の電車に乗って。
私は気が付くと新幹線に乗っていた。
***
角丸の窓から見えていたビル群も、住宅地も、田園地帯も、新幹線は勢いよく置いていく。
『まもなく、
目的地の到着を知らせる車内アナウンスと共に、トンネルとトンネルの隙間からわずかに海が見え、心が躍る。
帰ってきたんだ、地元に。
『お出口左側です。お忘れ物ございませんようご注意ください』
そんなアナウンスにはっと目が覚め、慌てて散らばっていたテーブルを片付けた。
「よいしょ、っと」
重いスーツケースとともに新幹線からホームに降り立ち、目一杯深呼吸。
うん、地元の空気って感じ。よく分からないけど。
「あとは、ここから実家までは──いや、流石に分かるか」
スマホで地図アプリを開こうとした手が止まり、ポケットに戻す。
「元気にしてるかな……」
そんな期待を抱いたのも束の間、車内で駅弁を食べて満腹な私に眠気が押し寄せ、欠伸をしつつエスカレーターで2階へと降り。
改札を通った先では、吹き抜けの広々としたコンコースが出迎えてくれた。
上のガラスからは春の柔らかな陽射しが差し込み、心まで暖かくなる心地良さだ。
ちょうど昼時ということもあるのだろう、駅ナカにあるチェーン店にはそこそこの賑わいが出来ていた。
……それにしても。
「こんな駅だったっけ……?」
知っている駅なのに、どうやら迷子になってしまったみたいだ。
「星凪鉄道、星凪鉄道……、こっちは、……JPR?」
ふらふらと歩き回り、コンコース内に広がる美味しそうな匂いにまたもや誘惑されつつも。
「あ、あった」
星凪鉄道、と矢印とともに書かれた看板。
私の地元、星凪地方を走る鉄道で、幼少期の私もよく利用していた路線だ。
その矢印に従って、1階のホームへ──。
「げ」
まず最初に私を出迎えたのは、駅のベンチに蔓延る小虫。まあ動きがキモい。
次に見えたのは、すっかりクリーム色の塗装が剥がれた2両編成。なんか窓にガムテープ貼ってあるし。
ホームへ降りるあと1段に踏み出せない。
「なにこれ……」
私の思っていたあの頃と違う。
過去の思い出との乖離に私の心は酷く乱れた。
そんな時、車両の運転席から出てくる一人の老人が、私を見て目を少し見開く。
「あんりゃ、観光かい? こんな時期に珍しぃなぁ」
「えっと、帰省というか何というか……」
「はえー。家はどこにあるんか」
「朝澤です」
「そんなるど、
「あ、はい」
老人はあちぃなあ、と言いながら帽子を取る。
歳を感じさせる白髪が日差しに照らされて輝いていた。
「にしても……」
ボロい。
外から見てもそうは思ったが、それにしても酷い。
車内を見てよりそう感じた。
座席カバーは破れてるし、ポスターは剥がれかかっているしガタガタ言ってる扇風機付いてるし。
いや、いくら星凪からしばらく離れていたとはいえ、流石にこれは……。
「ボロいって」
「どこがです?」
「うわぁッ!」
ボックスシートの座席の裏から声が聞こえて思わず跳ね上がる。
慌てて声の聞こえた後ろを振り返ると、私の反応を見てなのか、満面の笑みで私を見ていた。
「い、居たんですね。他にも乗ってる人が……」
「あ〜、まあ乗客というか、社員と言いますか……」
そう言いながら気さくな女性は首にかけていた社員証を見せる。
「
キリッと敬礼をしながら笑う山手さん。
「お客様、今日はどちらまで?」
と思ったら、今度はずいっと私の前に座って聞いてきた。
あまりに距離が近く、私は身体を後ろに反らす。
「……あの、なんで山手さんは社員なのに今電車に乗ってるんですか」
「乗客数の調査ですねー。お客様の多い時間帯に列車の本数が足りているかとか、逆に少ない時に多く運転しすぎていないか、あとは他の路線との乗り換え時間が不便でないか、って感じのことを調べてます」
そう言いながら山手さんは表に数字やらなんやらを書き込んでいく。
その表の中に書かれた1という数字は、どこか寂しげに見えた。
*****
星凪の海に敷かれた、夕陽への茜色の道。
ガタン、ゴトン、と断続的に揺られつつそんな車窓をぼんやりと眺めていた。
さっきまで涼しかったはずの海風は、止んだと思えば風向きを変え、今度は皮膚を刺すような寒気を運んできて思わず身震いする。
4月とはいえ、夕方になれば寒い。
そんなことも気にせず長袖だけで咄嗟に旅に出た自分を後悔する。
ぼんやりと見ていた景色もトンネルで黒一色に染まると、惨めな自分の顔が映し出され、仕方なく車内に視線を戻す。
「寒いですよねー。去年のこの時期は雪も積もりましたし」
相変わらず目の前には山手さんが座っている。
星凪駅を出発してからこの号車には他に誰も乗ることはなく、いつまでも2人の状態だった。
「お客様は今日どのようなご用件で?」
「帰省、みたいな感じです」
「左様でございますか」
そんな感じで会話もすぐに絶え、長い沈黙が挟まるのだ。
とうとう話題も尽きたのか、
「そういえばお客様、この車両のこと、ボロい、って言ってましたよね」
そんなボソッと漏らした小言まで拾ってきたのだ。
「昭和レトロ、と言ってほしいですね」
「それは……すみません」
そうしてまた会話が途絶えるかと思いきや、いんや、と山手さんはムッと不満げな顔をして、グイッと座席から前のめりになって距離を詰めてくる。
「この車両は星凪鉄道の救世主なんですよ? 当時経営難が続き、老朽化する車両の置き換えが困難だった中、JPRから譲渡されたのです。感動エピソードですよね!」
「は、はあ」
手を組んで幸せそうに語る山手さんだが、その道に詳しくない私は当然ついていくことが出来ない。
「お客様は何か思い入れのある車両とか無いんですか?」
そう思えば今度は私に振られ、限りある記憶からなんとか搾り出す。
「え、えーと……、あの白い特急みたいなやつ……ですかね?」
それは東京へ向かった日──親友に別れを告げた日に乗った列車のこと。
座席から見える星凪の海に、床に届かない足をぷらぷらと揺らしていた記憶がある。
「ほう。お客さん、お目が高いですね。その車両は当社独自で作られた展望席特急でですね外部デザイナーの
火をつけてしまったか、山手さんはみるみる舌を加速させて熱弁するが、先ほど同様言っている意味が分からないので再び窓を見ようとして──。
「だからお客様! その車庫に行ってみませんか!?」
そんな熱く語る山手さんに肩を掴まれる。
「は、はい?」
「ちょうど交換駅ですからすぐ乗り換えないと行っちゃいます! ほら、行きますよ!」
「ちょ、ちょっと!」
右手を引かれ、なんとか左手でスーツケースを掴み、そんな中山手さんは物凄い力で私を引っ張り、ホームに降り、対面の列車へと走り込む。
乗り終えるとすぐにドアが閉まり、荒くなった呼吸を整える暇もなく、私たちの乗ってきた列車は離れていってしまった。
星凪駅の奥に広がる巨大な車両基地の様子が、近くの道路に架けられた跨線橋から見えるという。
そんな山手さんの熱量に押され、私は星凪駅に戻ってきてしまっていた。
あんなちっぽけな鉄道にこんな大きな車両基地なんて不格好だ、と思ってしまう私を横に、山手さんはフェンスに手を置く。
「あの3と書かれた数字の下に居るのが、お客様の言っていた白い特急ですね」
「あれが……」
暗闇を吹き飛ばす眩いライトの下、ちょこんと車庫から顔を出している白い車両。
それは車両基地の中でも確かに存在感を露わにしていた。
「あの車両は弊社を代表する看板特急で、過去にはグリーンリボン賞という名誉ある賞を頂いていたんです」
「それは……すごいですね」
「ええ、私たちも随分と大はしゃぎしていましたから。あれは星凪鉄道の──星凪の希望でした」
山手さんのその白い特急を見る目は、どこか幼い少女のようにきらきらと輝いていた。
そんな彼女の目が、儚げな目へと変わり、そして閉じる。
「ですが今は、運転を休止していまして」
「……どうして、なんですか」
「──災害があったんです」
そう言われて私の記憶からも引き起こされた。
3年前、星凪地方を襲った台風17号。
星凪では観測史上最大の降雨量となり、甚大な被害をもたらしていたのを当時の私は首都圏のニュースで見ていたのだ。
「本線区間に高潮が押し寄せ、海岸沿いの線路の下の路盤が流されたんです。復旧の案は出てはいますが、乗客もろくに居ない路線を復旧するなんて無駄だ、と」
「……」
黙り込む私に、突然山手さんは慌て出す。
「って、私の勝手なご都合でここまで連れ回してしまい大変申し訳ございません! あの、ご自宅までの道はタクシーを手配してこちらでお支払いさせていただきますので──」
あ、そうか。
私、帰る家なんて無かったんだ。
もうあの家に、家族は誰も居ないんだった。
お父さんも、お爺ちゃんも、お婆ちゃんも、もう。
「いえ、大丈夫です。帰る所なんて、そもそもありませんでしたから」
私の居場所なんて、もうどこにも無いんだよ。
『
『先生もあなたの案は良いとは思う。だけど、もう少し周りの空気を読んでみたらどう?』
『だってあいつ、面倒なことすんじゃん』
『この大学よりか、こっちの大学の方が千歳の学力に合ってると思うぞ』
私の脳裏にこびりついた嫌な記憶は、何度だってフラッシュバックする。
あれから私は、ずっと自分を隠したままだ。
誰かから嫌われることに怯えて、周囲に棹を差して生きているだけだ。
──フェンス越しに見える、白い特急。
かつて希望を乗せた列車は、今や動くことなく、車庫に眠っている。
「今の私みたい……」
そう小さく口元で呟く。
「──蘭花?」
ふと、どこか懐かしい声が聴こえた。
あの小学生の頃を思い立たせる、風鈴のような涼しげな声が。
その声の聴こえた方向を振り向くと──。
「──
──そのかつての親友と、再会したのだ。
*****
「そうですか、二人は生き別れの親友だったんですね」
「生き別れって言うんですかそれは……」
ブォーン、と静かな車内で低く唸るエンジンの音。
助手席では山手さんがタクシーの運転手と仲睦まじく会話していて、後部座席に私と志乃がちょこんと座っていた。
夜中ということもあり車内も暗闇に包まれているが、時折電灯を通過すると光がもたらされ、隠れていた各々の表情が垣間見える。
志乃は、前に抱き抱えたリュックに目線を置いている。
数年振りの再会に昂っている一方で、久しぶりすぎて何を話せばいいか、そんな気まずい気持ちも共存していた。
話そうと思ってから5つ目の電灯を過ぎ、意を決して私は口を開く。
「志乃は地元の大学に進んだんだ?」
「うん。東京も考えたんだけど、お父さんが頑なに許してくれなくて」
「え、志乃のお父さんってそんな人だったっけ?」
「私が大きくなって、お父さんも厳しくなったんだよ」
「へー……」
かつてはよく電車で色んな場所に連れて行ってくれる、とても優しいお父さんという感じだったんだけどな。
「蘭花、うちに来るんだよね?」
「え、いいの?」
「ここまで来ちゃったら泊まるところも無いでしょ?」
確かに反対車線からも車はしばらく来ていない。
たまに大型トラックが通るぐらいだ。
「そうだね。じゃあ、お邪魔するね」
そんなやり取りを見て山手さんもニヤニヤと振り返ってこっちを見てくる。
「……あと山手さんは後でお父さんにしっかり絞られてください」
「それは勘弁を〜!!」
お父さんに?
そんな疑問は抱いたものの、気にするほどの事でもないかと、また夜の穏やかな波を眺めた。
「お、お邪魔します……」
一通りここに来るまでの経緯を話しつつ辿り着いた、田園風景の隅に小さく広がる集落の中にある、至って普通の家。
表札には、年季に入った
戸を開けると、懐かしい匂いと共に幼少期の思い出が蘇る。
玄関では志乃のお母さんが迎えてくれた。
「久しぶり、蘭花ちゃん。大人になったね」
「ありがとうございます」
数年ぶりということもあってか皺こそ増えているものの、あの頃の柔和な笑顔は未だ健在だ。
「旦那も本当は顔出して欲しかったけど、今はいろいろと気難しくてね」
そう階段の先を見ながら苦笑する志乃のお母さん。
お父さんの姿を見ることは出来なかった。
「狭くてごめんね」
「いや、むしろ懐かしくて落ち着くよ」
階段を登り、一番右に位置する志乃の部屋。
窓の近くに迫った竹藪が、夜風に揺られて動いていてなかなか不気味だ。
そんな窓外を、志乃はカーテンで遮断する。
「そう?」
「そうそう。確かこのカーペットにジュース溢したもん」
「そんなこともあったかも」
とはいえ、私も志乃も元々はアウトドア派なこともあって、あまり家で遊ぶ機会は少なかったかもしれない。
旅のお供であった白のスーツケースを置き、ふぅ、と畳まれた布団を枕に横になる。勝手に。
普段の移動経路とは遥かに異なる長旅に気付けば疲弊していたようだった。
「蘭花、これからどうするの?」
……考えてなかった、これからのことなんて。
これだから突発的な旅なんて考えるもんじゃないんだ、と今さら後悔。
だからと言って東京に戻るのも億劫だ。
「うーん……」
またぼんやりと天井を見つめる。
「……なんか仕事とかないかな」
結局考えることを放棄した私を親友は呆れた目で見てくるのであった。
電話が掛かってきたから、と志乃は一度部屋から出ていった。
一人残された私は、腐るほど与えられた時間を無駄に使ってこれからのことを考えていた。
「これからどうするか、ねぇ」
普通の人なら大学を卒業して仕事に就けなんてのが世の常なのだろうが、正直大学に行ったところで何か実用的なことを学んでいるのかと言われればノーと私は思っているし、むしろ社会人になることを先送りにしている猶予の期間だとも思っている。
そう考えを持ってしまえば、大学に行くよりさっさと仕事をしてお金が欲しい、と思ってしまう。
「職務放棄をした上でさらにお客様の旅程に支障を来すなど以ての外だ!」
そんな生温い思考を持っていたからだろうか、壁の奥──隣室からの怒声に、背筋が緩んだ糸を張るようにピンと伸びた。
この声、もしかして──。
「大変申し訳ございませんでした」
「君はこの鉄道を大事に思っているのだろう? ならばその鉄道のお客様に満足してもらうことが大切なのは分かっているだろう?」
「はい……」
そんな隣室のやり取りに聞き耳を立てつつ壁にもたれる。
人もろくに居ないのに、わざわざおもてなしをして。
「それって無駄骨じゃないかな……」
ただそんな感想だけが空っぽな頭によぎる。
だからこそ、この後の彼女の言葉に意識が引かれた。
「あの、社長?
「……まだ何も決まった訳じゃない。話せるのは、それだけだ」
星凪駅から数十分、駒木駅というところで降りると霞山線に乗り換えられる。
霞山線というのは──私たちの家のある地域を通る、思い出深い大切な路線なのだ。
今でも覚えている。
ガタンゴトンと、リズミカルに心地よく鳴るあの音。
電車の揺れとともに一斉に、ぎぃ、と軋み音を立てつつ動くつり革の動き。
あののどかで壮大な黄金色の田園地帯を走り抜ける、小さなクリーム色の列車。
私が降りた駅より先に伸びる線路は、一体どこまで続いているのか。
私の知らない、遥か遠くの街まで連れて行ってくれるのではないかと、よく胸が躍っていたものだ。
だが、いつも乗客は乏しいものだった。
たまに近所のおばあちゃんが買い物をしに乗ってくる程度ではあった。
今では車で移動する人も多く、列車の本数を減らしたことでまた利用者が減る、と悪循環をもたらしていた。
かつては終点に炭鉱があり栄えていたそうだが、エネルギー革命で閉山し、街はゴーストタウンのごとく沈黙した、と小学生の頃先生に教えてもらった記憶がある。
「廃線、か」
ふとトイレに行きたくなり、私は部屋のドアを開ける。
「おっと」
数部屋を繋ぐ廊下へまた1人部屋から出てくる。
2人の中間地点に、トイレはあった。
私はその貫禄と渋さのある低い声の主の顔へと目線を上げる。
「あれ、千歳さんのとこの……」
「お久しぶりです。お父さん」
ポロシャツから微かに漂う、タバコの臭い。
少し痩せたのか、久々に見た志乃のお父さんは、どこか気の置けないひょろひょろとした、というかやつれた身体をしていた。
「……どうしてここに?」
「いろいろ嫌になっちゃって、地元に帰ってきちゃいまして……」
そして、志乃のお父さんから、あの時の優しさ溢れる笑顔が跡形もなく消えていたのだ。
さっきの怒声も、この人が……。
思わず顔が強張ってしまい、声も上ずる。
「知りませんでした。お父さんが社長だっただなんて」
「……」
「あ、あの、霞山線は、無くならないですよね? あの、私、あの路線が好きで、なんというか思い出深いというか」
沈黙に狼狽えた私は辿々しく言葉を紡ぐ。
だが、そんな焦りは意味を成さなかった。
「──蘭花ちゃん」
「は、はい!」
「私たちの会社で、働いてみないか」
私は──星凪鉄道で働くことになったのだ。
*****
『しゅっぱーつ、しんこーう!』
『すげー! かっこいい!』
『しかもこの運転士さん超可愛い〜!』
そして私は後ろを振り返ってウインク。
『キャ〜!! ファンサしてくれた!!』
キャー、カワイイー、顔面最強ー!
そんな黄色い声援を後ろから受けながら、私は今日も多くの乗客を乗せて運転するのであった、めでたしめでたし──。
「えへ、えへへへへ……」
「何してるの?」
「ん……──うわあァ!?」
懐かしき声にぼんやりと目を覚まし、そして自分のしでかした醜態に気付くまで約5秒。
顔を真っ赤に染める私とは対照に、志乃は意にも介さず淡々と支度を進める。
「今日から仕事でしょ? 準備しなくていいの?」
「……あ、そっか」
「朝ご飯あるから、下で待ってるね」
いつもの日常との乖離に、小さな期待と不安を抱きつつ、私は身体を起こす。
『働かせてもらってもいいんですか……?』
『ああ、給料ももちろん出す。その代わり、仕事には精を出してもらう』
『はい! よろしくお願いします!』
『明日午前9時、本社1階のロビーで待っていてくれ』
「はぁ……」
「大丈夫だって。お父さんの会社、結構フレンドリーな人多いし」
最寄り駅のホームに停車している電車に乗り、適当な座席に腰を下ろす。
今日は私と志乃で貸し切りだ。
「ブラック企業ほどフレンドリーとか、アットホームとかって言葉使うってよく言うじゃ〜ん……」
「言うね……」
昨日の行動力はどこへやら、家を出ると後ろめたい言葉が口から放流される。
「あれでしょ、残業とかも多くて毎日夜遅くまで働いたと思ったら、今度は上司たちの飲み会に付き合わされて終電逃して誰もいない夜道を千鳥足で歩くんでしょ?」
「いやいやいやそんな会社じゃないから!」
「……ホント?」
志乃、にっこりと満面の笑み。
その可愛さに免じて、仕方なく前向きな話に話題転換する。
「……志乃ももしかしてお父さんの会社で働いてたりするの?」
「うん。バイトで駅員やってるんだ」
「へぇ、駅員か〜。私は運転士とかやってみたいなー」
「運転士?」
「だって鉄道って言えば花形の運転士じゃない?」
都会のホームでも、よく子どもたちが運転士さんに敬礼をしていたのを覚えている。
それだけ子ども達に憧れが強い職業なのだろう。
「まあ、駅員とかは運転士に比べると目立たないしね……」
「あ、もちろん車掌とかもいいよねー!」
そんな志乃の小さな自虐を気にもせず、私は夢バナを延々と話し続けた。
そんな妄想を膨らませつつ本社に到着し、ロビーのソファーで待つこと数分。
そこに現れたのは、社長でもなく山手さんでもなく、四角い眼鏡をかけた、真面目そうな20代後半の男性だった。
「
なんとも淡白な人だ。
というか、つまらない。
「あの、山手さんは案内役とかではないんですか?」
「あの人は運輸部の運行管理。ただいっつも現地で何かしらやらかして怒られてる」
「なんか言ったー?」
「……案内始めますね」
後ろからひょこっと現れた問題児山手さんを放って神戸さんは何食わぬ顔で歩いていき、慌てて私も後を追いかける。
「ここが営業部」
「おお、可愛い子発見! お肌綺麗だね〜!」
「……季節ツアー、プロモーションとかをする所だ」
神戸さん、こういう人苦手なんだろうな、一切顔を合わせようとしない。
その後も無駄なく淡々と案内を続ける。
「ここが運輸部。列車のダイヤと、別の場所だが輸送司令、他に運転業務もここに入る」
「しんっこぉぉぅう」
「設備部。車両、駅、鉄道設備の点検や管理をしてる」
「んだ、若えのがまた入ってきたのか」
「人事部。従業員の給料や人事計画、採用を行ってる」
「千歳さんだよね? これからよろしくねー」
「経理部。会社の予算や投資計画を考えている」
「誰よ〜この領収書出した人……、しっかり品名書いてよぉ〜!」
「総務部。その他もろもろ」
「神戸ー、終わったらこの書類目通しといてー」
「分かりました」
「これで星凪鉄道の全ての部署は説明しました。他に何か聞きたいことは?」
本社を上に下に歩き回り、新しい情報の波に飲み込まれ呆然と立ち尽くす私に、変わらず淡々とマニュアルのように聞く神戸さん。
「あ、あの、私はどこの部署で働くんですか」
「部署? あなたはバイトだから部署とかは無いですね」
「そ、そうですか……」
「あなたには駅の係員を担当してもらいます」
曰く、係員というのはホームの監視、改札でのお客様応対、忘れ物の問い合わせや対応をするものらしい。
「あの、運転士とかって将来的にやりますか」
「可能性はありますが、研修や選考、試験を受ける必要があるので、ここだと最低3年は必要ですね」
「そうなんですか……」
残念ながら私の妄想を実現するには数年はかかるらしい。
多少ながらも落ち込む私に、決まり悪かったのか、
「ま、星凪鉄道は人手不足だし、希望すれば出来る可能性はある……、と思います」
あまりフォローになっていないような気遣いを見せてくれた。
「……とりあえず、担当する駅を紹介します」
「担当する駅……」
「千歳さんは星凪で暮らしていたことがあると聞いたので周知のことかもですが、改めて星凪鉄道の路線の説明をします」
そうして神戸さんから聞いた説明は、概ね私が知っている内容と変わらなかった。
星凪駅。
冬には1mを優に超える豪雪、夏には猛暑日を記録する厳しい気候に、シカにクマにシマエナガ、梅に桜にラベンダーと、豊かな自然のあふれる星凪地方の中枢を担う。
3年前に新幹線が開通した中心駅で、JPR、星凪鉄道が乗り入れている。
星凪駅から東側に行くと、比較的人口が多く、住宅地や繁華街、星凪市役所などを通る星凪本線が通っている。
ここが主な星凪鉄道の稼ぎ所らしい。
特に星凪駅から東隣にある星凪市駅は星凪鉄道の本拠地で、駅直結の星鉄百貨店には平日休日朝夜問わず多くの地元民で賑わう中心部となっている。
逆に西側へ行くと自然豊かで、神社、商店街、そしてオーシャンビューの見える海岸沿いと、同じく星凪本線だが全く異なる風景へと変貌する。
星凪駅から1時間、駒木駅という昔ながらの風景が広がる駅から、私たちの家がある霞山線という支線が分かれ、かつて炭鉱で栄えていた霞山地域までを結んでいる。
そして、その駒木駅より先の本線は、台風による路盤流出で運休が続いていて復旧工事も進んでいないが、本来は
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