伝書鳩の夏休み 第十五回

 十五 火芝星造


 それは、一種の病のようであった。

 僕は、生まれてから今まで金に困ったことは一度もないし、心から物品を欲したことも無い。

 それでも、盗まずにはいられない。

 僕には、後ろめたい過去だけがある。母親の恩師だという男の家で、僕は初めて物を盗んだ。それは、透明なガラスケースに入っていた、ぴかぴか光る丸めた銀紙だった。それが、心臓病の発作を止める薬だとは知らなかった。

 男が死にゆく間、僕は銀紙をポケットの中で握りこんでいた。その夜、母が僕の小さな小さな外套を脱がせたときに全てを悟った。

 僕たち二人は、そっと町を去った。

 僕には、おぞましい記憶だけがある。箪笥の裏には、盗んだ文房具だの、食料品だのが転がっていた。度々、腐った食品に蛆が湧いた。それは、陰惨な光景として毎夜、夢の底にこびりついて悪夢の根源を成した。

 心がぐしゃぐしゃに丸められたようになった時、どうしても、どうしても衝動を抑えることができない。金なら十分に持っている。商品が、誰かの所有物が、目の前にあると、脅迫的な観念が腕を持ち上げさせる。それは、本当に恐ろしい瞬間である。誰か、誰か、僕を止めてくれ! 良心に力を与えてくれ! と切望しては、当然のように救世主は現れない。僕は、晴れて地獄行きの切符を手に入れる。

 父も無く、兄弟姉妹も無く、張り付けた笑顔で社交界を生きていく母は、僕の過去と異常性を再婚相手に隠し通した。晴れて、僕はブルジョアになった。有産階級は、幸せだ。それが、つい六年前のことだ。

 それと同じ頃、僕のクラスにひどい奴がいた。そいつは、自らの手を汚すことなく気に入らない生徒を標的に残虐行為を繰り返していた。ある日、標的にされていた生徒が、教室で首を吊って死んだ。頭部には、殴られ抉られ、赤黒い穴がぽっかり空いていた。その傷をつけたのは、僕だ。

 僕には、汚らわしい本性だけがある。大きな石が与えられて、やれと言われた。やらなければ、お前の盗み癖を母親の再婚相手に全部ばらしてやると脅されていた。卑怯者は、押さえつけられて泣き叫ぶ彼に石を振り下ろした。

 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。きっと、必ず地獄へ落ちますから、どうか、どうか許してください。

 添川君、天川星造は、必ず地獄へ落ちます。

 僕は、あまりにも多くの罪を背負い過ぎました。

 結局、僕はまともにはなれませんでした。僕は、また物を盗みました。相沢嶺二の黄色いノートを盗みました。これは、どうしても、欲しいと思ってしまいました。それは、スケッチブックでした。彼もまた、野崎建男君に、唯一絶対の神聖を信じている一人でした。どうしても、どうしても、許せませんでした。人を、殺してやりたいと、初めて心の底から思いました。

 相沢嶺二も、火芝知鶴も、誰も僕の素性を知らない。一切を知っているのは、世界でただ一人、哀れな潑之介だけ。

 けれど、この期に及んで、まだ殺人の勇気は出なかった。どうしてできないのかと自分を恨んだ。僕は、火芝知鶴の睡眠薬を盗んで、カステラにグリセリンを塗った面にざらめと一緒にまぶした。

 最低最悪の相沢嶺二は、何も知らないで食べて、よくよく眠った。……野崎君は、相沢の世話に出かけることなく僕だけを見てくれた。僕だけと遊んでくれた。その間だけは、一切の罪悪感が消え失せた。幸せだった。

 けれど、僕は失敗した。あの薬を長く服用していると、耐性と依存性とが問題になってくる。だから、どんどん量を増やした。そうしていくと、なぜだか怖くなった。人間を殺してしまうことに。

 添川君、僕は身の程を知りました。破滅は、もうそこまで来ていたのです。

 野崎君は、死んでしまうのでしょうか。

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