第9話

陶邑久志彦(すえむらくしひこ)と住吉(すみよし)ミホコは、奈良県桜井市に鎮座する大神神社(おおみわじんじゃ)に来ていた。


じいちゃんが残した手帳に、墓参りとして陶邑家の墓とともに記されていた三つの山、三輪山(みわやま)、久次岳(ひさつぎだけ)、御影山(みかげやま)の最初に書かれていたのが、この大神神社のご神体とされる三輪山だ。


陶邑家の当主になる者が、乗り越えるべき試練とはどんなものなのか、陶邑家に伝わる『秘伝の書』が火事で焼失したため、久志彦には、まったくわからない。手帳の指示通り、丹生都比売神社に参拝し、陶邑家の墓参りをしたが、試練を知るためのヒントは得られなかった。


三輪山を目の前にして、久志彦はここに何のために来たのか、よくわかっていないことが不安だった。同行してくれているミホコにも、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。


「陶邑君、そんな軽装で山登りをするつもりなの?」

ミホコの口調は厳しいものだった。久志彦の服装はパーカーにチノパン、靴はスニーカーと、公園に散歩に行くような格好だった。これから山登りをするようには、とても見えない。


「でも、山登りといっても、ハイキング程度の歩きやすい山道だといったのは住吉さんですよ」

「歩きやすいと確かにいったけど、それにしても山登りをなめてるわね。私のように、あらゆることを想定して完璧な準備をするのが山登りの基本よ」


ミホコは、つばの広い帽子に、明るいピンク色のマウンテンパーカー、濃い紫色のショートパンツ、黒のレギンスに、派手な柄のソックス、トレッキングシューズと、山ガールを特集した雑誌に載っていそうな服装だった。


そして、背中には大きなリュックサックを背負っている。往復二時間程度の登山のために何を準備するべきなのか、久志彦には、まったく想像できなかった。しかし、久志彦はそのことには、あえて触れなかった。そのことを少しでも口にすれば、ミホコのプライドを傷つけて説教されることは間違いなかった。


大神神社の二の鳥居をくぐって参道を進むと、久志彦は空気が明らかに変わったと感じた。雑然とした街の中から、突然、森の奥深くに入ったような感覚になった。久志彦は大きく深呼吸をして、息を一気に吐き出した。すると、心のモヤモヤも一緒に吐き出せて、少しスッキリしたような気分になった。


さらに参道を進んで石段を上がると、視界が一気に開けて、大きな社殿が目の前に現れた。


「目の前に見えているのは拝殿で、大神神社には本殿はないの。拝殿からご神体である三輪山を直接、拝むようになっているのよ。さあ、参拝しましょう」

そういわれて、また久志彦はミホコの後をついていく形になった。神社には似つかわしくない姿のミホコに先導されて、久志彦は何ともいえない恥ずかしい気持ちになっていた。


「拝殿の奥には三ツ鳥居(みつとりい)があって」とミホコが一生懸命に説明してくれるのだが、ピンクの上着が気になって話が頭に入ってこない。久志彦は適当に相づちを打ちながら、ミホコの後ろを黙って歩いた。


山辺の道(やまのべのみち)と呼ばれる古道を進んでいくと、狭井神社(さいじんじゃ)と刻まれた石柱が見えてきた。

「三輪山の登拝口は、この狭井神社の境内にあって申し込みもここでするのよ」

ミホコは三輪山に登ることを、とても楽しみにしているように見えた。


「山に登るのが、そんなに楽しみですか?」

久志彦は、ついつい聞かなくてもいいことを聞いてしまった。


「当然よ。本来なら禁足地のご神体の山に登れるのよ。こんなに素晴らしいことはないわ。陶邑君は楽しみじゃないの?」


「僕は、少し怖い気がします。ご神体の山に、そんなに気軽に登ってもいいのでしょうか?」


「神社が正式に許可しているのよ。そんなに深刻に考えなくてもいいわよ。とりあえず申し込みましょう」ミホコはそういって、どんどん先に進んで行く。久志彦はついて行くしかなかった。


ミホコは左手で申し込み用紙を取り、右手でペンを取って記入し始めた。その様子を見ていた久志彦は「住吉さんは左利きですか?」と尋ねた。


「よくわかったわね。本当は左利きだけど、字を書くのと箸を持つのは右手なの。よく覚えてないけど、子どもの頃に親がそうしたみたい」


「僕も本当は左利きです。学校に行ったら苦労するからって、ばあちゃんに右手を使うように厳しくいわれました。でも、子どもの頃は右手に箸、左手にスプーンを持って、両手でご飯を食べてましたけどね」


「それ、私もしてたわ。もちろん叱られたけど。私たち共通点が多いわね」

「そうですね」と返した久志彦は、ミホコも親近感を持ってくれていることが嬉しかった。


ミホコが二人分の申し込み用紙を三輪山登拝受け付け窓口の若い神職の方に手渡した。

「住吉ミホコさんと、陶邑久志彦さんですね」と名前を読み上げた若い神職の方は、黙ったまま申し込み用紙をもう一度確認して久志彦の顔を見た。


「あなたが陶邑さんですか?」と驚いたような顔をしている。

「はい、そうですけど」久志彦はそう答えるしかなかった。


「住所は大阪市住之江区になっていますが、ご実家は堺ですか?」

「実家は和歌山ですが、小さい頃は堺に住んでいました」質問の意味がわからなかったが、久志彦は素直に答えた。


すると、若い神職の方は「しばらく、お待ちください」といって奥に引っ込んでしまった。


仕方なく待っていると、二人の後ろには長い列ができていて、待っている人たちの視線が痛かった。理由がわからないまま待たされて、イライラする気持ちは久志彦にもよくわかった。


五分ほど経って、若い神職の方は上司らしい中年の神職の方と一緒に戻ってきた。

「あなたが陶邑さんですか?」と今度は中年の神職の方が驚いたような顔をしながら同じように確認された。

「はい、そうですけど」久志彦はそう答えるしかなかった。


「私について来ていただけますか?」といって、中年の神職の方は先に歩き始めた。久志彦は状況をまったく理解できていなかったが、いわれるがまま後についていった。ミホコもその後を追いかけるようにして、ついて来た。


狭井神社を出て山辺の道を戻り、社務所内の応接室のような部屋に通された。中年の神職の方は「ここで、しばらくお待ちください」といって、どこかへ行ってしまった。


「ねえ、どういうことなの?」ミホコは状況がわからず、不安に思っているようだった。

「僕にもわかりませんよ」本当にわからないので、そう答えるしかなかった。


十分ほど経ち、年配の神職の方が部屋に入ってきて「加茂(かも)と申します」と自己紹介した。そして、「あなたが陶邑さんで間違いありませんか?」と、また驚いたような顔をしながら名前を確認された。

「はい、そうですけど」久志彦は何度も名前を確認されて、気味悪く思っていた。


「念のため確認させていただきたいのですが、ヲシテ文字は、もう体に現れていますか?」

「えっ、なぜ、そのことを知っているんですか?」久志彦は突然、ヲシテ文字のことを聞かれて驚いた。


「和仁彦さんから、何も聞いていませんか?」今度は加茂が驚いている様子だった。

「じいちゃんからは、何も聞かされていません」じいちゃん、という言葉に加茂は納得したような表情になった。


「随分とお若いので不思議に思っていたのですが、和仁彦さんのお孫さんですか。ということは、今日は試練のためにお越しになったわけではない、ということですね」そういった加茂は、少し気の抜けたような表情になった。


「いえ、試練のために来ました」久志彦は祖父の和仁彦が亡くなったことや、父がいないため、久志彦が当主として試練を乗り越えるためにここへ来たこと、陶邑の家が全焼したことなどを説明した。


「そういうことでしたか。実は、和仁彦さんが試練のために来られたとき、私がお世話係をさせていただきました。お世話係をした者が、次に試練のために来られた方に説明を行うというのが慣例になっております。前回の試練について、私が知っていることは、すべてお伝えします」


「よろしくお願いします」久志彦は涙声になっていた。その涙は、安堵の涙だった。これまで、試練とは何なのか、まったくわからなかった。ようやく頼れる人に巡り会えて、久志彦は心の底から喜び、安心した。


「早速、試練の内容について、ご説明したいのですが聞かれるのはご本人だけの方がよいと思います」といった加茂はミホコを見て、次に久志彦に向かって「奥さまですか?」と尋ねた。


「いえ、違います。試練について一緒に調べてくれている住吉ミホコさんです」久志彦は少し照れながら否定した。ミホコは立ち上がると、自己紹介しながら加茂に名刺を手渡した。


加茂は名刺を見て、何かを思い出したようだった。

「そういえば、和仁彦さんのときも大学教授の方が一緒に来られていましたね。たしか、太田先生だったかな。お二人は同級生で、神社や神様のことを太田先生に教えてもらっていたようです」じいちゃんが太田教授の名前を手帳に書いた理由が、これでわかった。


「私は、失礼した方がよさそうですね」そういって、ミホコは大きなリュックサックを抱えて立ち上がった。

「今日のところは、準備することだけをお伝えしますので」と、加茂はミホコにもう一度座るように勧めた。


「試練が終わるまで、最短でも一週間が必要です。その間、こちらで用意した宿舎で寝起きをしてもらいます。また、外部との連絡は一切できませんので、そのつもりでご準備をお願いします」


「一週間ですか。その間、仕事は休まないといけない、ということですか?」

「もちろん、そうです。連絡を取ることもできません。また、試練のことを口外することもできませんので、仕事先には何か他の理由をお伝えください」

「そうですね。でも、会社に嘘をつくのは気が引けるなあ」久志彦は上司や先輩を裏切るようなことをしたくなかった。


「試練のときに必要なものは、こちらですべて用意しますので、基本的には持ってきていただくものはありません」

「着替えも必要ないということですか?」

「はい、試練の間は白衣を着ていただきます。下着も白のふんどしを用意します。神聖なご神体の山に登拝しますので、清らかな白色のものを身につけるのが基本です」そう説明した加茂はミホコをチラッと見て、厳しい顔になった。


ミホコは、静かに明るいピンクの上着を脱ぐと、小さく折りたたんでリュックサックに押し込んだ。久志彦は笑いそうになるのを太ももをつねって耐えていた。


「試練の詳しい内容については、試練の初日にお伝えしますので、一旦お帰りいただいて、試練に入る日程をご連絡ください」


二人は加茂に見送られて、この日は帰宅した。ミホコは少し寒そうにしていたが、上着をリュックサックから取り出そうとはしなかった。

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