第6話

翌朝、住吉ミホコは白鳥大学の時計台に入ると、まっすぐ太田教授の部屋に向かった。ドアを数回ノックしたが返事はなかった。そっとドアを開けると、部屋の中は薄暗く、灯りはついていなかった。


ミホコは部屋の中をのぞき込んで「またか」とつぶやいた。ミホコは部屋の内側にある古いタイプのスイッチを、ぐっと力を入れて押し上げた。少し時間が経ってから、二度、三度とついたり消えたりを繰り返して、ようやく灯りがついた。


ミホコは積み上げられた本や資料を崩さないように、足元に注意しながら部屋に入った。狭い部屋の壁際に置かれたソファーに、毛布にくるまった太田教授が獣のようないびきをかきながら、気持ち良さそうに眠っていた。


「もう朝ですよ」と声をかけたが、大きないびきにかき消されてしまった。加齢臭が漂う中年男性に触れるのは嫌だなと思いながら、太田教授の肩を強めに数回叩いた。すると、いびきがピタッと止まった。


「今日は講義がないんだから、もう少し寝かせてください」

太田教授はしぼり出すような声でそういうと、灯りがまぶしいのか頭から毛布をかぶった。


「起きてください。あなたに、いろいろと聞きたいことがあります」

ミホコが厳しい声で問い詰めるようにいうと、太田教授はゆっくりと体を起こしてソファーに座り直した。


「何か、ありましたか?」

そう答えた太田教授は寝ぼけているのか、何も思い当たることはないという表情をしている。


「とりあえず顔を洗って、目を覚ましてください」

ミホコの口調は、子どもを叱るようなキツイものだった。


太田教授は仕方なくといった様子で、「よっこらしょ」といいながらゆっくり立ち上がった。そのままフラフラとした足取りで、部屋の隅にある小さな洗面台に向かった。蛇口をひねって勢いよく水を出すと、バシャバシャと顔を洗い、うす汚れたタオルで顔を拭いた。そして、ようやく思い出したのか「昨日の報告ですか?」と尋ねてきた。


「報告の前に、昨日はいろいろあり過ぎて、私の頭は混乱しています。陶邑君や伊藤先生のことをちゃんと説明してください」


ミホコにとって状況が理解できないのは最大のストレスだった。そのせいで昨日の夜はよく眠れなかった。ぐっすり眠っていた太田教授を見て、寝不足のイライラが爆発しそうになっていた。


「説明は東京に行く前にしたはずですよ。陶邑君は初対面でよく知らないけど、伊藤先生は信頼できる人です」


悪気もなく、そう答える太田教授を見て、相変わらず勘が鈍くて空気を読めない人だとミホコは思った。


「陶邑君は、お父様の会社の社員なんですよ。知らなかったんですか?」


「えっ、それは初耳だなあ。でも、彼は夜間の学生だから、大学から近くて、従業員の多い住吉海運で働いているのは、そんなに不思議でもないと思うけどなあ」


「確かに、そうですけど」ミホコは返す言葉がなかった。知っていて隠されていたと思い込んでいたが、知らなかったといわれたら、それ以上は何もいえない。


「それと、伊藤先生から聞いた『ホツマツタヱ』の話は、古事記や日本書紀とあまりにも違っていて、天照大神が男性で、瀬織津姫と夫婦だったなんて、とても信じられません。本当に信頼できる人なんですか?」


「確かに、記紀の神話とは異なる部分が多いから、伊藤先生が研究している『ホツマツタヱ』は、やはり偽書なのかもしれませんね。でも、記紀の神話が正しいって、誰か証明していますか?」


「古事記が最古の歴史書で、日本書紀が正史というのは常識です。疑う余地はありません!」ミホコはイライラしているせいで、強い口調で言い切った。


「住吉さんは常識を疑わない人なんですね。天照大神と瀬織津姫が夫婦だったと聞いて、ワクワクしませんでしたか?」


「ワクワクなんてしませんよ。たちの悪い都市伝説を聞かされているような気分でした」


「じゃあ、万世一系で男系男子によって血統を継承してきた天皇制のスタートが、女神であることに矛盾は感じませんか?」


「天照大神の皇子オシホミミは、須佐之男(すさのお)との誓約(うけい)で生まれます。天照大神の弟である須佐之男は男系男子ですから、矛盾はありません」


「その考え方だと日本人の祖先は天照大神ではなく、須佐之男ということになりますね」


「そんな風に屁理屈ばっかりいってるから、学生に人気がないんですよ。今どきは実績があっても、人気のない教授は出世できないらしいですよ。まあ、あなたの場合は実績もないですけどね」


「そういう辛らつな意見はオブラートに包んでくれないと、私だって人並みに傷つくんですよ。それに大学では『あなた』じゃなくて、ちゃんと先生と呼んでください。もちろん、二人きりのときは『お父さん』と呼んでくれても構わないけどね」


「あなたを父親だと認めたことはありません。私にとって父親は、育ててくれた住吉豊彦、ただ一人です。あなたとは血のつながりだけです。父親としての責任を放棄しておいて、父親面(づら)しないでください」


「血のつながりこそが重要だと思うけどね。それに、責任を放棄したんじゃなくて、知らなかったことは何度も説明したよね。住吉社長が大学に多額の寄付をして、私を推薦してくれたおかげで、こうして教授をやっていられるから、住吉社長には頭が上がらないし、今さら自分が父親だと堂々といえないのはわかっていますよ」


そういうと太田教授は黙り込んでしまった。この話題はこれ以上話したくないようだった。少し言い過ぎたかもしれないとミホコは思ったが、だからといって、太田教授を父親だと認めるつもりはなかった。


「そんなことより、気になることがありました。陶邑君が東京で命を狙われたんです」ミホコは、久志彦が東京で突き飛ばされた状況を詳しく説明した。


「東京はやっぱり怖いところですね。そういう通り魔みたいなのが普通に道を歩いているんだから」


「通り魔じゃなくて、明らかに陶邑君を狙って突き飛ばしたんだと思います」


「たしか、彼は東京に初めて行くといってたよね。やっぱり、たまたま標的にされただけでしょう。殺したいほど憎まれている人に、たまたま東京で会うとは思えないし、もし狙っていたとしたら、もう少し計画的にやると思うよ」


太田教授は、まったく知らない人の話のように冷静に分析している。まるで、ニュース番組で見た話題について話しているような口振りだった。


「あなたの、そういう冷たい言い方こそ、人を傷つけますよ。つい先日会った人が危ない目にあったというのに、まったく心配しないなんて、人としておかしいですよ」


「そんなに怒らなくてもいいでしょう。それとも、似たもの親子だから、鏡を見ているようで腹立たしいですか?」


「私は、あなたとは違います!」ミホコの怒りは沸点を超えて、怒鳴り声になってしまった。


ミホコは勢いよくドアを閉めて、太田教授の部屋を出た。薄暗い廊下に怒りをぶちまけるように大股で歩いて、自分の部屋に向かった。


ミホコは自分の席に着くと、だんだん冷静になってきた。太田教授とのやりとりを思い返しながら、太田教授が驚くこともなく、冷静に話していたことに何ともいえない違和感を覚えた。


久志彦が危ない目にあったのは、たしかに偶然かもしれない。しかし、本当は太田教授は何か知っているからこそ、命を狙われたことを否定し、冷静に話していたのかもしれない。


身近な人に裏の顔があるのかもしれないと想像したミホコは、背筋に悪寒が走り、身震いした。今まで、太田教授は裏表のない単純な人だと思っていた。しかし、実はミホコには想像できない何かがあるのかもしれない。


認めたくない実の父親だけれど、まさか実の娘を陥れることはしないだろうと思っていたが、油断しない方がいいのかもしれない。


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