第3話 東京へ
陶邑久志彦(すえむらくしひこ)は、朝早くから東京行きの新幹線に乗り込んだ。太田教授に紹介してもらった古代文字研究家の伊藤先生に会うためだ。手に持った切符の座席番号を見ながら、車内を進んでいくと、住吉(すみよし)ミホコの姿を見つけた。
初対面のときに上半身裸だったという気まずさは、まだ消えずに胸の奥にしっかりと残っている。久志彦は少し緊張しながらあいさつをして、ミホコのとなりの席に座った。ミホコも丁寧にあいさつをしてくれたが、笑顔はなかった。久志彦のことを、よく思っていないことは明らかだった。
「陶邑君は、東京に行ったことはあるの?」
会話のための質問であって、久志彦に興味があるから聞いたわけではなさそうだった。
「いえ、初めてです」
「そうなの」
会話は、それで終わってしまった。
それから、しばらくの間、沈黙が続いた。久志彦は居心地の悪さを感じて、頭の中で会話の糸口を探してみたが、適当な話題が思いつかなかった。職場は男ばかりで、女性と話すことが少ないので、女性との会話が苦手だった。
久志彦は静かにじっとしていることに耐えかねて、カバンから駅の売店で買ったブラックの缶コーヒーと塩むすびを取り出して、テーブルの上に静かに置いた。久志彦は具の入ったおにぎりが好きではなかった。いつも塩むすびを作ってくれる、ばあちゃんの影響かもしれない。
ふと、ミホコのテーブルを見ると、全く同じブラックの缶コーヒーが置かれていた。ミホコもそのことに気づいたのか、少し気まずそうにしていた。
久志彦は塩むすびを手に取って、
「家で食べる時間がなかったので、朝めしを食べてもいいですか?」とミホコに尋ねた。
ミホコは「どうぞ」と答えたあと、久志彦が手に持っている塩むすびをじっと見て、すぐに視線をそらした。久志彦はそれが何を意味するのか、よくわからないまま、塩むすびを手早く食べた。
「仕事は休んでも大丈夫だったの?」
気を使ったのか、ミホコが話しかけてきた。
「はい、忙しい時期でなければ、わりと自由に有給休暇を取らせてもらえます」
「いい会社ね」
「そうなんですよ、社長も先輩たちも、いい人ばかりで本当にいい会社に就職できたと思っています」
「どんな仕事なの?」
ミホコが久志彦に関心を持っているとは思えなかったが、大学の研究室という閉鎖的な職場で働くミホコにとって、一般の会社がどんなものか興味があるのかもしれない。
「南港で、コンテナの積み下ろしをやっています」
「えっ、何ていう会社なの?」
ミホコの声が、突然大きくなったので、久志彦はびっくりした。そんなに特殊な仕事でもないし、なぜ社名が気になるのか不思議に思った。
「住吉海運という会社です」と答えると、ミホコは困ったような表情で、少しの間、黙ってしまった。
ミホコは久志彦の方に向き直ると、
「陶邑君、住吉海運の社長は私の父よ」といった。
ミホコの言葉を聞いて、今度は久志彦が驚いて大きな声をあげてしまった。
「社長のお嬢さんでしたか。先日は失礼な姿を見せてしまって、申し訳ありませんでした」
久志彦は思わず立ち上がって、頭を深々と下げていた。
「ちょっと、やめてよ。とにかく座って」
ミホコは他の乗客の視線を気にしながら、慌てて久志彦を席に座らせた。
「父に告げ口みたいなことはしないから安心して」
「はい、わかりました」
再び、気まずい沈黙が続いた。久志彦は何も考えられず、頭の中が真っ白になっていた。
「ところで、伊藤先生に何を聞くのか、ちゃんと考えてきたの?」
動揺を隠せない久志彦を、ミホコは心配しているようだった。
「えっ、あっ、はい、えーっと」
久志彦は、昨晩考えて、まとめてきたことを思い出そうとしたが、頭の中がぐちゃぐちゃになっていて、うまく話すことができなかった。
「東京に着くまで、まだ時間があるから、しっかり思い出しておきなさいよ」
ミホコのいい方には、厳しさと、やさしさが同じくらい含まれていた。姉さんがいたら、こんな感じなのかなと久志彦は思った。ミホコのお陰で、久志彦は心を落ち着かせることできた。
「陶邑君、今日は富士山がきれいに見えるわよ」
窓の外を見ながら、ミホコが嬉しそうに話しかけてきた。
久志彦は富士山を見るのも初めてだった。もちろん、テレビや写真で見たことはある。でも、実際に自分の目で見る富士山は何ともいえない感動を与えてくれた。時間にすれば数分程度で、あっという間だったが、日本人としての誇りを思い出させてくれる不思議な力が富士山にはある。
ようやく新幹線が東京駅に着いた。乗り換えのために駅構内を移動する間、あまりの人の多さに久志彦は乗り物酔いのような気持ち悪さを感じていた。ミホコは慣れているのか、行き交う人たちの間をうまくすり抜けながら、どんどん先に進んで行く。初めての東京で右も左もわからない久志彦は、ミホコの後をついて行くしかなかった。
伊藤先生の事務所は、神田駅と古書店街のある神保町のちょうど中間辺り、古い雑居ビルの中にあった。年代物のエレベーターは、久志彦とミホコの二人だけで乗っても窮屈に感じられた。エレベーターはガコンッと大きな音を立てて動き始めると、左右に微妙に揺れながら、ゆっくりと上昇していく。
「大丈夫かなあ、このエレベーター」久志彦がボソッとつぶやいた。
「意外と、ビビりなのね」そういったミホコは微笑んでいた。久志彦は何気なくつぶやいたひと言で、すべてを見透かされたようで恥ずかしかった。
雑居ビルの老朽化した外観と、古代文字の研究をしているという怪しさから、久志彦は太田教授の研究室と同じように、埃っぽくて雑然とした事務所に違いないと決めつけていた。また、これから会う伊藤先生についても、きっと一癖も二癖もある、人嫌いのややこしい人物だろうと想像していた。
事務所で出迎えてくれた伊藤先生は物腰が柔らかく、ダンディーな紳士という印象だった。室内は明るくて清潔感があり、来客用のソファーは座り心地が良かった。同じ研究者でも、これほど差があるものかと久志彦は驚いた。
久志彦とミホコが自己紹介をすると、伊藤先生は
「クシヒコ君に、ミホコさんか、なるほどねえ」と意味ありげにつぶやいた。
「それで、太田教授からは面白いものを見せてもらえると聞いていますけど、何を持ってこられたのですか?」
伊藤先生は、久志彦が歴史的に価値のある何かを持参してきたと思っているようだった。どうやら太田教授は、伊藤先生に詳細を伝えていないらしい。
「とりあえず見てもらった方が、話が早いと思うわよ」ミホコにそういわれて、久志彦は立ち上がると、着ていたスーツの上着を脱ぎ始めた。
「えっ、何が始まるの?」伊藤先生は、想定外の久志彦の行動に面食らっていた。
久志彦が上半身裸になると、伊藤先生は勢いよく立ち上がり、顔を近づけて食い入るように久志彦の体に現れた文字を見始めた。
「おぉ、これはすごい、素晴らしい」とつぶやきながら、一文字ずつ、じっくりと確認していく。興奮しているのか、どんどん鼻息が荒くなっていく。久志彦は、その鼻息が肌に当たってこそばゆいのを黙って我慢するしかなかった。
文字をひと通り確認した伊藤先生は、スマートフォンを取り出すと、今度は写真を撮り始めた。
「これはタトゥーですか、それともシールか何かですか?」当然の質問だと久志彦は思った。
久志彦は体に文字が現れた経緯を丁寧に説明した。伊藤先生は驚きながらも、久志彦の話を真剣な表情で聞いてくれた。
「話はわかりました。太田教授の紹介ですから、あなたのいうことは信用しましょう。それにしても見事な『モトアケ』ですね」
「これは『フトマニ図』ではないのですか?」久志彦はインターネットの情報が正しいと思っていた。
「一般的にはそう呼ばれていますが、正しくは『モトアケ』といいます。フトマニというのは、占いのことで、フトマニについて書かれた古文書に、このモトアケが描かれていたので、フトマニの図として広まったようですね」
「じゃあ、このモトアケは占いに使うものなのですか?」久志彦が質問した。
「占いにも使っていたかもしれませんが、このモトアケには、もっと深い意味があります。まず、モトアケの『モト』は、宇宙の始まりや、世界の始まりを意味しています。そして、中心にある三つは、真ん中の文字は「ウ」、その上の左巻きの渦巻きが「ア」、下の右巻きの渦巻きが「ワ」。この三つの文字「アウワ」を『モトモトアケ』といいます」
久志彦は慌ててメモ帳を取り出して、自分の胸を見ながらメモを取り始めた。
「モトモトアケは、創造神の『アメミヲヤ』、人類の祖先である『ミナカヌシ』、そして、古代の初代天皇である『クニトコタチ』を表しています」
久志彦にとっては、初めて聞く言葉ばかりなので、とにかく聞き漏らさないようにしながらメモを取り続けた。
「そして、モトモトアケの「アウワ」の「ア」は天、「ワ」は地、真ん中の「ウ」は「ウイのヒトイキ」を表し、この「初(うい)の一息」によって天地が分かれた、つまり、宇宙の始まりである『ビッグバン』を表しているともされます」
久志彦とミホコは、古代文字と『ビッグバン』がすぐには結びつかず、ポカンとしていた。伊藤先生は二人の様子を見て、そこで説明を止めた。
「日本神話でいう『天地開闢(てんちかいびゃく)』のことでしょうか?」ミホコが質問した。
「たしかに神話の冒頭でも描かれていますね。ミホコさんは太田教授の助手をされているので、神話についてはよく勉強されていると思いますが、神話のことは、一旦、忘れた方がいいでしょうね。神話と比較しようとすると、たぶん混乱すると思います」
「はい」とミホコは返事したが、納得がいかないという表情だった。
「それでは、モトアケを解説するためにも、『ヲシテ文字』と歴史書『ホツマツタヱ』について説明しましょう」というと伊藤先生はソファーに深く座り直した。
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