陶邑家当主の知られざる過酷な試練
@tataneko
第1話 運命の出会い
ようやく寒さが和らいで、久しぶりに暖かい日だった。春の陽気のせいか、広いキャンパスには華やかな雰囲気が漂っている。
陶邑久志彦(すえむらくしひこ)にとって大学構内で浴びる春の陽射しは、いつも以上に眩しく感じられた。すれ違う学生たちの誰もが自信と希望に満ちあふれているように見えて、久志彦は校門から続く道の端を遠慮がちに歩いていた。
電話で目印として教えられた大きな時計は、大学の外からでも見える白鳥(しらとり)大学のシンボル的な存在だ。構内地図には、その木造の建物は「時計台」と記されている。その両隣には、新しい高層の校舎があり、時計台は時代の流れに取り残された過去の遺物のようだ。
見慣れているはずの時計台も、昼間に見ると、その存在感の大きさに圧倒される。久志彦は夜間学部の学生のため、昼間に大学に来ることはほとんどない。夜の時計台は、ひっそりとしていて、静かに学生たちを見守っているような雰囲気がある。昼の時計台は、その大きさと古さがより一層目立ち、学生たちとともに時を刻んできた歴史を感じさせる。
目的の部屋は、その時計台の薄暗い廊下の一番奥にあった。久志彦は、この日初めて時計台の建物の中に入った。内部には、たくさんの部屋があり、今も使われていることに驚いた。時計台は、時計を設置するためだけの建物だと思っていたからだ。
久志彦は、ゆっくりと深呼吸をして、木製のドアをノックした。室内から低い声で返事があった。色あせた真鍮(しんちゅう)製のドアノブをまわし、ドアをゆっくり開けた。
「昨日、電話した陶邑(すえむら)です」久志彦は部屋の奥をのぞき込みながら声をかけた。狭い部屋の奥にある机には、本や書類が乱雑に積み上げられているが、返事をしたはずの人の姿が見えない。
絶妙なバランスで積み上げられた、その本や書類のすき間から、目つきの鋭い中年男性が顔をのぞかせた。久志彦と目が合うと「まあ、座って」といいながら、視線で机の前に置かれた丸椅子を差し示した。久志彦は机の前まで進み、その丸椅子を手前に引いて、そっと腰掛けた。
「この書類を書き上げるまで、少し待ってください」その声と丁寧な口調から、昨日、電話で話した太田教授だと確信して、久志彦は安心した。
久志彦は待っている間、部屋の中を見回していた。机の上だけでなく、部屋のいたるところに本や資料が散乱している。しばらく掃除をしていないのか、棚の上や部屋の隅には埃が積もっている。
部屋の両サイドの壁は一面が本棚で、たくさんの本とファイルが並んでいた。たてに並べた本の上に、横向きに別の本や書類が詰め込まれ、本棚にはすき間がほとんどなかった。本棚に収まらないものが、机の上に積み上げられているのだろう。
本棚には、背表紙に「古事記」や「日本書紀」と書かれた本もあった。教科書で見たことはあるが、それらが実際に本として存在することを久志彦は初めて知った。しかし、それ以外のほとんどの本は、背表紙に書かれたタイトルを見ても、久志彦にはその内容を想像すらできなかった。
「これでよし」といいながら顔を上げた太田教授と再び目が合った。太田教授は、机の上を申し訳程度に片付けて話し始めた。
「電話でも話したように、陶邑(すえむら)という名前は、かなり昔に聞いた覚えはあるんだが、やはり君が探しているのは私の父だろうね。でも、残念ながら、その父はもう亡くなってしまったよ」
「そうですか」久志彦は大きくため息をついた。昨日の電話でも、そういわれたのだが諦めることができず、太田教授の研究室を訪ねてきた。
「でも、せっかく来てもらったから、私で役に立てることがあれば相談に乗るよ」太田教授のやさしい笑顔を見て、久志彦は少し救われた気持ちになった。
「ありがとうございます」と答えた久志彦は泣きそうになっていた。
「とにかく、見せてくれませんか?」太田教授の顔から笑みが消えて、真剣な眼差しで真っ直ぐ久志彦を見ていた。
「わかりました」と返事をした久志彦は立ち上がると、着ていたパーカーとTシャツを脱いで上半身裸になった。昼間は肉体労働をしているので、久志彦の体は筋肉質で引き締まっている。その前面、久志彦の胸と腹を太田教授は身を乗り出して凝視している。
「確かに、入れ墨みたいだね。これが浮かび上がってきたの?」太田教授は驚きと興奮をおさえきれないようだった。
「はい、二カ月ほど前から、朝起きるたびに少しずつ増えていって、こんな図柄が完成したんです。最初はみぞおちに、二重丸が袋に入ったようなものが現れて、翌日には、その上下に渦巻きが一つずつ、次にその周りを囲むように八つ、さらにその周りを囲むように八つと、だんだん大きくなっていって、何かの呪いかと思って頭がおかしくなりそうでした」
「呪いの魔法陣というところか、そう見えなくもないね」
「それで、インターネットで調べてみたら、これは『フトマニ図』と呼ばれているようです。同じようなものが、インターネット上にいくつかありました」
「フトマニ図か、聞いたことはあるよ。でも、残念ながら、私は詳しく知らないんだよ」
「そうですか、教授ならフトマニ図について、何か知っていると思っていたのですが」
「しかし、それがフトマニ図だって、よくわかったね。画像検索で見つけたの?」
「いえ、ばあちゃんが、いや、祖母が教えてくれたんです」
「おばあさんが?」
「はい、ある日、洗面所の鏡に映してこれを見ていたとき、祖母に見つかって、じいちゃん、じゃなくて、祖父にも同じものが体に現れたことがあったと教えてくれました」
「おじいさんにも同じものが体に現れたということは遺伝か、それとも、やはり一族の呪いってこと?」
「祖母は呪いじゃなくて、陶邑家を継ぐ者の試練だといっていました。祖母がいうには、旅に出た祖父が帰ってきたときにはフトマニ図は消えていたそうです」
「その試練を乗り越えれば、体に現れたフトマニ図が消えるということか」
「たぶん、そうだと思います。」
「おばあさんは、その試練が何なのかは教えてくれなかったの?」
「それが、祖母も詳しくは知らないみたいで、祖父が残した手帳を渡されました。その手帳にも、フトマニ図とは書いてなくて『ヲシテ』という言葉が何度も出てくるので、インターネットで調べてみたら『ヲシテ』というのは古代文字(こだいもじ)のことで、この図がフトマニ図と呼ばれていることもわかりました」
「おじいさんは最近亡くなったと電話でいっていたね」
「はい、祖父が亡くなってからこんなことになって、誰にも相談できずにいました。祖父の手帳に「白鳥大学の太田教授に相談すること」と書いてあったので連絡しました」
「おじいさんは私の父が亡くなったことを知らなかったのか、それとも知っていて、息子の私に相談するように伝えたかったのか、そこはわからないということだね」
太田教授は、うーんと唸りながら腕組みをして、ぎゅっと目を閉じた。目から入る情報をシャットアウトして、集中して考えているようだ。久志彦はその間ただ待つしかなかった。
太田教授は目を開くと、ゆっくりと話し始めた。
「私の父も古代史の研究家で、古事記や日本書紀の神話と、遺跡や古文書などから縄文時代の歴史を明らかにしようとしていた。それを引き継いで、私も研究を続けている。しかし、父のそれらの研究は表向きのもので、本当に心血を注いでいたのは古代文字の研究だったらしい」
「じゃあ、教授のお父さんは、このフトマニ図についても研究していたということですか?」
「おそらく、していたと思う。でも、父はある日を境に古代文字の研究について、一切話すことがなくなった。そして、父が亡くなってから研究資料を整理したときには、古代文字についての資料は一つもなかった。おそらく、亡くなる前にすべて処分したのだと思う」
「結局、何もわからないということか」
久志彦がため息交じりにつぶやいた。唯一の手がかりだった太田教授から何の情報も得られず、久志彦はこの世の終わりのように落胆した。
「申し訳ない、私にできることはなさそうだが、知り合いに古代文字の研究家がいるから紹介するよ」
「本当ですか、ありがとうございます」
久志彦は消えかけていた希望の灯りが、再び灯ったような安堵感に包まれた。
「それと、私の助手に君の試練を手伝ってくれるように頼んでみよう」
そういうと、太田教授はスマートフォンを取り出して電話をかけた。
「申し訳ないが、私の部屋に来てくれないか」
太田教授はそれだけいうと電話を切った。
しばらくすると、ドアをノックする音がして、若い女性が入ってきた。彼女は上半身裸の久志彦を見て、ギョッとした顔になったが、すぐに平静を装って太田教授に話しかけた。
「先生には、そういう趣味があったんですか。個人の趣味は自由ですが、これは私に対するセクハラです。あとで学部長に報告させていただきます」
彼女は顔を紅潮させて、真剣に怒っている様子だった。太田教授は彼女にそういわれて初めて、裸の若い男性と部屋で二人きりでいるのが異常なことだと気づいたようだった。
「いや、誤解しないでほしい。住吉(すみよし)さんにも、これを見てもらいたいんですよ」太田教授は困った顔をしながら、久志彦のフトマニ図を指差した。
「変わったタトゥーですね。これが何か?」
彼女の口調はさらに厳しくなった。太田教授は汗をかきながら経緯を説明して、何とか誤解を解くことができた。
「陶邑君、こちらは助手の住吉ミホコさん。とても優秀な人ですよ」
その取ってつけたような褒め言葉は、心にもないお世辞のように聞こえた。ミホコは久志彦に軽く会釈をすると、軽蔑した目で太田教授をにらみつけた。
「それで、住吉さんを呼んだのは陶邑君の試練を手伝ってもらいたいと思ったんだけど、お願いしてもいいかな?」太田教授が遠慮がちに聞いた。
「突然、そういわれましても」ミホコは明らかに困惑しているようだった。
会社でいえば、上司が業務命令を伝えているのだから、部下が断るというのはあり得ない。二人のパワーバランスは、ミホコの方が上であるように久志彦には見えた。それは太田教授が若い女性に弱いだけなのか、何か弱みを握られているのか、理由まではわからなかった。
「住吉さんの瀬織津姫の研究にも、きっと役立つと思うから、頼むよ」
太田教授は手を合わせて、ミホコを拝むようにしている。ミホコは渋々といった感じで引き受けてくれた。
「良かったな、陶邑君」そういわれて、久志彦は「はい」と答えるしかなかった。助っ人はありがたいが、助手の住吉ミホコが本当に助けてくれるのか、久志彦には半信半疑だった。太田教授が久志彦のことを厄介払いしたかっただけなのかもしれない。
「その肩にある痣(あざ)も、フトマニ図と一緒に現れたのですか?」上半身裸の久志彦に見慣れたのか、ミホコは平然と久志彦の体を凝視しながら尋ねてきた。
「これは子供の頃の火傷の痕(あと)で、フトマニ図とは関係ないです」
確かに目立つ痣だがフトマニ図よりも気になるものではなかったので、久志彦は不思議に思った。
「火傷の原因は何なの?」
ミホコは問い詰めるように質問してきた。フトマニ図と関係のない質問をするミホコの意図が、久志彦にはまったくわからなかった。
「家が火事になったときの火傷ですけど、小さい頃のことなので詳しくは憶えていません。これが何か?」
「いえ、少し気になっただけです」ミホコはそれ以上は何も聞いてこなかった。
「まずは古代文字の研究家である伊藤先生に会ってみるといいよ」太田教授はそういって連絡先を教えてくれた。
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