第44話 可能性の荒野 (アカイ14)
俺はシノブの言葉に対し咄嗟に理解するどころか反応さえできなかった。何故ならそんな言葉を聞いたことがないからである。
もちろんその言葉の並びは知っている。漫画やアニメにゲームにドラマに映画。あらゆるメディアからその言葉を数えきれないぐらい聞いてきた。だから、わからない。だってそうだ。なぜならそれは自分以外の誰かに言われる言葉であり、自分はそれを眺めているだけ。自分とは関係のない言葉の最たるものだ。
俺は男だ。美少女と恋愛をするゲームをプレイしても主人公に自分の名前を付けることはしない。そんな男として恥ずかしいと同時に美少女に対してそんな可哀想なことはしたくないからだ。俺は硬派だ。いたずらに女を傷つけるようなことは決してしない。ただでさえ無意識的な存在がそうであるのだから意識的な行動では極力そうしないように努めてきてた。
だが一度だけその言葉を言われたことがある。ある日下駄箱に手紙が入っていた。放課後に教室で待っていてくださいという文章の手紙。俺にはすぐに分かった。これは、悪戯である。最近クラスの雑談で聞いていたあれ。罰ゲームの告白ゲームのこと。
隣のクラスのオタク君がそれの犠牲になったと聞いていた。だから分かっている。近いうちに自分の番が来るってことを。生贄の順番を弁えている。分かっているのならそのまま帰ればいいのだが俺は帰らなかった。時間まで図書館で待機していた。繰り返すが俺は男だ。万が一が、ある。もしも奇跡的にこれが悪戯で無かったらどうする? 女の子をずっと待たせて傷つけてしまう。手紙の内容はふざけ気味であってもこれは照れ隠しかもしれない。その可能性はないわけではない。万が一あるいは億が一だってある。自分が笑いものにされる可能性か女の子を傷つける可能性か。天秤に掛けたら圧倒的に自分のプライドの方が軽いに決まっている。
俺は男なんだよ。負けていると分かっていても戦わなければならない戦いがあることを知っている。やがて時が経ち教室に入ると夕陽に照らされた女子がいた。隣のクラスの伊賀さん。ちょっとギャル系な元気な女子であり体育会系の男たちと仲の良い。当然一度も話したことはない。よってすぐに分かった。そのうえ伊賀さんは既に小刻みに震えながら笑っている。演技が下手なんだなと思うと同時に伊賀さんは良い人なんだなと思い始めた。だがそれは自分の心を誤魔化しているのだろうとは気づいていた。より傷つかないために。予め期待をしたいというそんな精神。
距離が近づき立ち止まったときに伊賀さんは笑うのをやめ、緊張した面持ちでこちらを見てきた。可愛い子だと俺は思いそれにこうも思った。嘘でも真剣に俺を見つめてくれるのは有り難いことだと。俺が黙っていると伊賀さんの顔はさらに緊張感を増してきた。俺に嘘を言うかどうかで少し悩んでいるのか? それは、素敵なことだった。自分の中にもしかしたらという淡い期待が湧いてくる。間違いなく有り得ないという諦めに支配されたこの肉体に甘美な喜びが血管を駆け巡る。
本当であったら、という有り得ない可能性。その一瞬がこのひと時がこのまま永遠に続いたら、もしも自分の待ち望んでいた言葉が来たとしたら。明日が見えた俺はこの夕陽のなかで死んでも良かったかもしれなかった。
「あのね……すぅきでぇす、つきあってくださ……」
耳の奥底まで届き脳裏に焼き付く音が入って来ると同時に最後にノイズが、やはり入った。
「ごめん! 本当にごめんねこんなことしちゃって。これはちょっとしたゲームでさ」
大慌てで手を合わせて頭を下げる伊賀さんを眺めていると後ろの扉が開かれ男達の笑い声と呆れ声が聞こえてきた。俺は、笑った。後ろの音色に合わせながら笑った。それを見る伊賀さんも笑っていた。
「あっバレてた。そーだよね。じゃあ大丈夫だね。まぁ気にしないで。赤井君もそのうちきっと彼女ができるって」
ありがとうと俺は言いそれから振り返り男達のからかいの中、教室を出ていった。そうである。自分とはそういう存在なのである。結局は伊賀さんの言葉のように俺には彼女なんて出来なかったが、俺は伊賀さんをクソ女だとは一度も思ったことはないしむしろ感謝をしている。
高校時代にたった一度でも自分にも可能性があるかもということを予感させてくれて。それが真実ではなくても作りものの造花であろうと俺の荒涼とした青春の心に咲いた一輪の花。伊賀さんはもうこのことを忘れているだろうが、あの一瞬の期待は俺の胸の中にいまもあり、言葉は耳の底に残っている。ノイズと共にいつだって再生できる。たとえそれが悪戯だとしても。しかしその耳底に残りし声はいま上書きもしくは遠くへと去っていく。シノブはいま俺に言った。俺がずっと求め続け手に入れられなかった言葉を、完全に言い切った。
「アカイ……好きです。私と付き合ってください」
思うとまたシノブが同じ言葉を繰り返した。握る手は熱く掌どころか心臓にまで届く炎のようであり俺は混乱する。俺はいまなにを言われたんだ? なんて返せばいいんだ? それは、その。
「シノブ……俺でいいのか?」
「はい……」
囁きと潤んだ瞳で以ってシノブが答えると俺は震えた。こんなことが……こんな奇跡があっていいのか? 有り得てしまうのか?
「俺のことが好きになったから付き合ってそのあと結婚してくれるってことかい?」
「結婚だなんて嬉しい、あなたさえよければもちろんです」
明るさで輝く麗しい表情で以ってシノブが答えるとアカイの胸は歓喜が渦巻き、それから手を離した。
「こんなことは有り得ない」
シノブの顔は驚きで固まった。
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