第3話

カナメはマチアスの顔色の悪さに思わず悲鳴をあげそうになった。

その悲鳴をなんとか飲み込んで、慌ててソファに座らせる。

本当に珍しくなされるがままのマチアスにますます不安になったカナメは、アルノルトに何か飲むものをと頼むと同時にマチアスに腕を引かれ強引に隣に座る事になった。

何もかも“らしくない”姿に、カナメはここまでマチアスを不安や恐怖に陥れたのものはなんだろうか、と考え込む。

しかしこれと言って何も思いつかない。

なぜなら、カナメは今もまだ、マチアスが王太子になると聞いた父親があれだけ国王に食ってかかった理由に思い至らないからだ。

男のマチアスと婚約したその瞬間であれば思い至ったのかもしれないが、今ではもうに至れなかった。

いや、のだ。




「アル様、落ち着いた?」


カナメは婚約者になる前──────そう、幼少期からマチアスを“アル様”呼んでいる。

これはマチアスのミドルネーム『フォンス』から取られたものだ。

カナメが無遠慮な子供ではなかったと分かってもらうために少しだけ話すと、最初はもちろん『マチアス殿下』だった。

しかし机を並べ共に学ぶのだからもう少し砕けて、という流れから「マチアスさま」に変化をする。そしてカナメがマチアスにあたりで「もう少し砕けてもいいんだよ。今は学友なんだから」という国王の“意見”を受け止めたカナメが「マチアスさまより砕けるなら、誰も呼んでなさそうなのがいいのかな?なら、アルスフォンスさま?」と今より幼いカナメは考えたのである。

が、アルフォンスは少し長いと感じたようで「アルさま」とミドルネームの愛称に敬称をつけて呼ぶようになった。

この時、この呼び方でも良いかと聞いてきたカナメに対し、どういう思いでマチアスが良いと言ったのか。誰も分からない。ただ彼は少しだけ考えて、「カナメなら、かまわない」と許可を出した。

以来、カナメはこの国で唯一、マチアスを『アル様』と呼ぶ。


「アル様、大丈夫?」

暖かい紅茶をもう一口飲んだマチアスにカナメが再び問いかける。

ふんわりとした甘い香りは、この状態を心配したカナメが勝手に砂糖を入れたから。

その優しさと甘さに、マチアスの鼻がツン、とする。こんな時に泣いたりはしないけれど彼の感情は二日前から常に揺さぶられ続けていて、でいられることの方が不思議だと傍にいるアルノルトは考えていた。

「ああ……いや、まだ、本当は落ち着いていない」

「そう……おれ、もう帰ろうか?」

「帰らずに、ここにいてほしい。ギャロワ侯爵が帰る時まででいいから」

懇願するマチアスの声色にカナメはただ頷く。

本当はカナメはとても不安になっているのだけれど、このマチアスにどうしたのかと話す事を強制するような事は出来ないし、なによりカナメがマチアスがこうなった理由を聞く事自体がどんどんと怖くなってきていた。

マチアスはカナメよりもいつだって冷静で、年相応とは言えない顔を多く見せる。

同じ年なのに全くそう思えず自分の“普通さ”に驚くくらい、マチアスは真面目で自分に厳しい。

最初は学友、そこから仲のいい友人となり、今では婚約者だ。この付き合いの時間の長さでいろいろなマチアスを見てきたし、時には喧嘩のようなものをした事もあった。

マチアスの色々な顔を知っている、と得意になる自信もあるけれど、こんな顔は見た事がなかった。

十四歳のカナメに今、恐怖が襲っている。


互いに黙ったまま並んで座り、どれくらいの時間が経っただろう。

漸くマチアスが口を開く。

それは重々しい動きで、よく分からないままカナメは覚悟をして聞く姿勢をとった。

どんな覚悟をすればいいのかも見当がつかないのに、そうしてしまう迫力がこの時のマチアスにはあったのだ。

「俺が、王太子になる。そう、決まってしまった」

「うん、聞いた。さっき」

「だろうな。ギャロワ侯爵が意見していただろう?」

なんで分かったのだろう、そう顔に描いてあるカナメにマチアスの顔は複雑そうな表情だ。

コロコロと表情が変わっていくマチアスなんて珍しく、これが普段の、不安でもなんでもない状態のカナメなら「新しい発見だ……!」と思うだけにとどまるのだが、今の精神状態では不安や恐怖が増す以外になんの効果ももたらさない。

「俺は……王太子になると決まっていれば、この気持ちは誰にも言わず、墓場まで持っていくつもりだった」

「この気持ち?」

「カナメと生涯ともに過ごしたい、という、カナメを想う気持ちだ」

瞬くカナメのその目には、不安と恐怖が見てとれる。

今からその目に涙が浮かぶのだろうか、そう思うとマチアスこそ恐怖に囚われそうだった。

「しかし、この間まで、この国の王太子はエティになると内内で決まっていただろう?だからこの気持ちを……を叶えてもいいのではないかと思って、カナメに婚約を申し込んだんだ。カナメはしばらくの間、当分発表もしない内密の婚約だと言うのに俺の婚約話避けの婚約だと思っていたようだが」

「そ、それは……ごめんね」

「カナメらしいなと思って自分の事ながら、笑ってしまった」

またマチアスの口が閉じる。

言わなければならない事は決まっているのに、どんな言葉で伝えても意味は同じで、カナメが受けるショックも同じなのに、マチアスは懸命に言葉を探す。

しかし結局見つけられず、諦めてそのまま伝える事にした。


「カナメが王太子妃で、王妃になるのは決まっている。けれど、王は……王は──────王になった俺は、カナメだけでは許されないんだ」


やや間があって、カナメはコテリと首を傾げる。

「おれが、アル様に嫁ぐけど、おれだけじゃ許されないって……誰に?どうして?」

カナメは理解していないのか、理解しているのも関わらず確認したいのか、マチアスには判断出来ない。

だけれど問われたからには、答えなければならなくなった。

「子が……必要だからだ。子供が、いるんだ。俺の、子が」

こんなにも口の中も喉も乾くなんて、マチアスは知らなかった。

カナメに気持ちをはっきりと伝えた時も、カナメがその答えを言ってくれた時だって、ここまでカラカラにならなかった。

口の中は水分がなくなった気がするのに、手はじんわりと汗が出て、背中にはツッと汗が流れていく。

早く何か言ってくれ、マチアスのその願いが通じたのか、カナメは口を数度開け閉めして


「そ……か、おれ、男だもんね。そっか」


これだけどうにか呟いて、膝の上にあったカナメの手がするりとソファの上に落ちた。

沈黙で耳鳴りがしてしまいそうなほど、静かすぎる部屋には呼吸音すら感じさせない。

全くの沈黙が、痛いほどの沈黙が広がっている。

お互いに、何を言えばいいのか、もう皆目見当もつかなかった。

それでもなんとかマチアスがカナメに触れようと手を伸ばすが、ふらりとカナメが立ち上がる。

座っているマチアスを何も読み取れない瞳で見下ろして

「おれ、アルさまと、婚姻はする?」

と沈黙に溶けそうな声で問う。

マチアスはただ頷いた。

「そっか……」

何を思っての「そっか」なのか判断出来ない。それを聞く前にカナメはふらりと、断りもなく部屋を出ていった。

飛び出したというよりも、幽霊のように消えてしまいそうなほど、床を滑るようにふわりふわりと。

何も言えずそれを見送るしか出来なかったマチアスは、頭を抱えてソファに沈み込む。


「なにもかも、今更だ」

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