第一章 天空界ヘメリア

1-1

若い男たちの声が聴こえる。


「こいつどうする?』


っちゃうか?」


「姫様からの指示があるまではダメだ」


僕は薄暗い部屋の中にいた。

冷たいコンクリートの床に敷かれたボロボロの薄い布が一枚。その上で両手を縛られて胡座あぐらをかいている。


ここは一体どこだろう?


うっすらと目を開けると、目の前に見えるのは太い鉄格子てつごうしとその奥に見える上り階段だけ。


なぜ牢屋ろうやに閉じ込められているのか見当もつかなかった。


これは拉致らち?それとも監禁?


罪を犯した記憶が全くないのに殺されるのか?


そもそもここはどこだろう?


さっきまで学校をサボって公園にいたはず。


愛用していたスマホもなければ財布もない。


脳内で情報がスクランブルし整理ができないままでいる。


目を開けていることがバレないよう頭を少しだけ上げてみると、恰幅かっぷくの良い兵士が三人、槍を持って立っている。


その背中には白い羽が生えていた。


これはハロウィンのイベントか?


でもハロウィンは少し前に終わったはず。


まさかタイムリープしたとか?


もしかして異世界に転生?


いや、そもそもこれが夢だという可能性もある。


もしそうなら早く覚めてほしい。


何度も確かめたがどうやら違うようだ。


なぜならコンクリート上の部屋は寒く痛い。


痛覚が僕の全身を駆け巡る。


それに彼らの羽は作り物のようには見えず、ナチュラルボーンだったからだ。


牢屋にぶち込まれている理由がわからないが、残念ながらこの状況は決して良いものではない。


牢屋にいる時点で何か罪を犯したということになるが、全く記憶にない。


政治家のようなその場しのぎの言い訳ではなく本当に記憶がないのだ。


だとしたら誰かをかばって捕まっているとか?


いや、友達のいない僕に限ってそんなことはありえない。


小さいころ仲良くしていた一人の子以外、まともな友達なんていないのだから。


すると、奥の階段を降りてくる足音が聴こえてきた。


重そうな黄金の鎧と隙間から見える太腿ふとももはモデルのように長くも程よく鍛え上げられ、背中にある二本の長い剣が只者ただものではないことを証明している。


兵士たちが敬礼しながら鉄格子の前の道を開けた。


「姫様」


姫様と呼ばれるその女性はミントグリーンのロングヘアをなびかせ、同じくミントグリーンの大きな瞳をしたとても美しい人だった。


オーラからかもし出されているその気品きひんと存在感は173cmある僕よりも背が高く見えた気がした。


背中に生えるその羽は煌々こうこうとしていて、兵士たちよりも透き通るように白い。


「こいつが例の男か?」


その女性は鉄格子越しに僕の目の前に立ち、両腕を組みながら見下し睥睨へいげいしている。


その目は瞳の美しさをかき消すほどに冷酷なもので、威圧感という言葉が最も適しているだろう。


目を合わせないようにそっと目をらす。


「はい。おそらく地上人かと思われます」


「しかし、どうやってこの地にやってきたのでしょう?」


「まさか、ディアボロスの子とか?」


ディアボロスってゲームとかに出てくるあの悪魔のことだよな?


紳士という言葉以外適していないくらい純粋無垢むくなこの僕が悪魔の子だなんて冗談がすぎる。


一人の兵士の疑問に他の兵士たちが同調する。


「この目つきに高いはな。まさにディアボロスそのものじゃないか」


僕はそんなにも悪い顔をしているのか?


たしかに目つきは良くないし、何かと目をつけられるタイプではあるけれど、それにしても悪魔は言いすぎな気がする。


「だとしたら早いとこ処刑せねば」


「地上人である以上、この世界に害を与えることは間違いない。さっさと処刑してしまおう」


三人の兵士が矢継ぎ早に話を進めていくなか、その姫は表情ひとつ変えずに言い放つ。


「あれは本の中の話だ。現実と混合させるな」


「しかし、地上人がいると知られれば多くのものが混乱します」


「あの本によってこの世界が変わってしまったのも事実です」


「雲におおわれたこの地に地上人がやってこられるわけがありませんし、やはりこの男は悪魔の……」


兵士の言葉をさえぎるように、


「武器も持たない地上人一人に一体何ができる?それにいまは他にやることがあるだろう。ソルニアとスティネイザーの紛争に巻き込まれないよう民を守らねばならんのだ。お前たちはそのために尽力せよ」


姫の言葉に応えるように敬礼をする兵士たち。


「それにしてもソルニアの連中はどうして我が国の上空でドンパチやるんですかね」


「山々に囲まれたスティネイザーが戦いにくいのはわかりますが、どうせなら違うところでやってほしいものです」


「我が国が両国に挟まれた場所にあるといえ、いい迷惑です」


そのナントカという国とナントカという国がこの国の上空で戦っている最中だということはわかったが、まずはこの状況を説明してほしい。


ここはどこなんだ?


どうして僕は捕まっている?


あきれた様子の兵士たちをよそにその姫は冷静な言葉で返す。


「おおかたハロルドの命令だろうよ。スティネイザーの土地だけでなく、我らの土地も奪おうという算段だろう」


「ソルニアはこの世界で最も大きな国ですからね。小さなスティネイザーからすれば中心地に入れられたくないでしょうね」


「賢いグリューンだ。あのソルニア相手に何も策を講じていないわけがない。それにクリスティンも協力してくれると言っている」


クリスティンという名を聞いた一人の兵士が、


「お言葉ですがリリィ様。小生はどうもあのランカウドという国が信用なりません。最近ではクリスティン様の見えないところで色々とあやしい噂を耳にしますし」


「なら貴様はフルンリヒトのようにここがソルニアの領地になっても良いのか?」


「いえ、そんなことは」


「ソルニアは強大な国だ。まともにやりあったら勝てん。いまは民の不安を解消してやることが最優先だ」


「はっ!」


「リリィ様、この地上人はいかがいたしましょうか?」


僕の顔を一瞥いちべつした姫は表情一つ変えずに「放っておけ」と言ってきびすを返して去っていった。


「気の強そうな人だったな。絶位Sだ」


ボソッと独り言をつぶやくと、一人の兵士がこちらを睨みつけた。


「貴様、いま何と言った?まさか姫様を愚弄ぐろうしたのではないだろうな?」


ちゃんと聞こえていなかったみたいだが、どうなら誤解を生じてしまったようだ。


「よせよせ。こんな卑賤ひせんなものに姫様の美貌びぼうなどわかるまい。妖艶ようえんさと気品さ、そしてあの白く美しい羽はこの城内、いや、この地で一番のお方だ。こんな餓鬼がきには到底理解しがたいろだろう」


「あぁ〜一度でいいから姫様と一晩過ごしたい」


「あの方にはクリスティン様という許婚いいなずけがおられる。我々のような下流階級に好意を寄せるわけがないだろう」


「ランカウドのクリスティン王子じゃ手も足も出やしない。地位・名誉・実力。それにあの美しさ。同じ男としてだけじゃなく、人としても申し分ないお方だ。リリィ様にはクリスティン様しか釣り合わないだろう」


「まったくだ。本当にお美しい」


「俺はまだ諦めてないけどな」


「我々のような兵士の手の届くような相手じゃない。姫様に話しかけていただくだけでありがたいと思わねば」


「そろそろ交代の時間だし、その辺は休憩中に話そう」


「で、この男はどうする?」


「夜になったら処刑して地上にも堕としておこう」


そう言って兵士たちは去っていった。


やっぱり殺される。


相変わらず手には頑丈な拘束具で縛られたまま。


冷たさも相まって徐々に感覚も鈍くなってきているのがわかる。


逃げ出そうにもびくともしない拘束具に苛立いらだつ。そんなときにも身体は正直だ。


ぎゅるるとお腹が鳴る。


あぁ〜腹減った。


ハンバーガー食いて〜。


ポテトも食いて〜。


コーラ飲みて〜。


願ったところで出てこない現実にさらに苛立つ。


せめて近くに可愛い子でもいたらテンション上がるんだけどな。


邪念のかたまりに自己嫌悪しながら動かない両手を外そうと何度も試みるがびくともしない。


-気づけば疲れて眠っていた。


階段を降りてくる足音が聴こえてくる。


空耳だろうか?


脳は起きているはずなのにまぶたが開かない。


ひどく眠い。


コツコツというブーツか何かの足音が少しずつ大きくなってくる。


どうやらこっちに近づいてきているようだ。


助けが来たのか?


まさか、そんなわけないよな。


おそらく交代の兵士たちがやってきたのだろう。


何の罪も犯してないのに処刑されるなんて。


さっきの槍で刺されるのか?


それとも撲殺?


もしかしてギロチンで首をばっさり?


意外と電気椅子だったりして。


僕は一体どんな処刑を受けるんだ?


足音が目の前で止まった。


恐怖で前を見ることができない。


成人式すら迎えていないのにここで終わるなんて。


神様、味噌カツ丼が食べたいなんて贅沢は言いません。


せめて味噌がついたキャベツの切れ端だけでも味わってから最期を迎えたかったです。


さようなら、清阪 奏達きよさか かなた。十七歳。


短い人生に別れを告げ、重たい瞼を開け、おそるおそる顔を見上げると、そこには一人の女性が立っていた。


さっきの『姫』と呼ばれていた人物とはちょっと違う。


目鼻立ちは似ているがどこか暗く寂しげに見えた。


薄暗い部屋だがたしかにわかる。


よどみのないミントグリーンの髪は肩まで伸び、同じ色で輝く瞳、白く細い身体から見える漆黒しっこくの羽は左側にしかなかった。


メイクというものをしたことがないのか、それとも必要ないのか、つややかで人形のようなその姿はまるで、


「天使」


思わず声に出てしまったが、天使なんて実在するわけがない。


それにこんなに可愛い子がこんな薄暗い牢屋にくるわけがない。


そう、きっとこれは夢だ。


「天使なんかじゃない。私は天魔の子」


天魔の子ってことは悪魔の子ってことだよな?


にわかに信じがたかった。


さっきの兵士たちといい、この子といい、これはすべて夢。


気がついたら見知らぬ世界でとらえられているなんてそんなのあるわけがない。


イマーシブエンタメだっけ?


何かのゲームに没入体験でもしているんだろう。


夢かどうか確かめるようにほっぺたを叩こうかと思ったが、手を縛られていることを思い出し、前歯で下唇を思いっきりんでみた。


思っていたより強く噛んでしまったせいか痛みはすぐにやってきた。


「ちょっと、きみ、何してるの?」


その天使が持っていた鍵で南京錠を開錠すると、目の前に駆け寄ってきて、


「血、出てる。早く治療しないと」


目の前でしゃがみ込み、斜めにかけていた小さなバッグからハンカチを取り出し僕の唇をぬぐう。


ミントグリーンの瞳が真っ直ぐ見つめる先には僕の唇、それを見つめ少し開いた口で必死に止血しようとしてくれているなかで胸元に目がいくよこしまな自分がいる。


手を縛られている状態でそんなことを考えていると知られればそれこそどうなるかわからない。


白く細い指が触れるたびに早鐘はやがねを打つ心臓。


人工的ではないその甘い香りが鼻腔びくう

から脳内を伝い、全身の神経を刺激する。


呼吸が荒くならないよう瞳を閉じて必死に考えないようにするも、なかなか言うことを聞かない身体に女性経験のなさを痛感する。


「これでよしっと」


止まった血を見て、両手でひざを押しながらゆっくりと腰を上げ、そのまま腰に手を当てこちらを睨みながら、


「とりあえず応急処置しておいたけど、級に唇を噛むって一体何考えてんの?」


鋭い目つきはどことなく先の姫に似ていた。


手の甲を腰に当て、前屈まえかがみになる彼女に一瞬ひるんだ。


初対面でいきなり怒られるなんて思わなかった。


「いや、気がついたら牢屋にいたからてっきり悪い夢でも見てるのかなって。もしかしたら精魂せいこん吸い取られるんじゃないかと思ったら怖くなって」


それを聞いた天使は少しだけほおを緩めて、


「もし本当に悪い夢なら私淫魔サキュバスじゃん」


淫魔って夢の中で男性を誘惑してくる悪魔ですよね?


でもなんで淫魔?


すると、自分の発言を思い返した彼女は急に恥ずかくなったのか、みるみるうちに赤面していく。


「ちょ、ちょっと待って。いまのなし。私、そんなんじゃないからね」


顔の前で両手をぶるぶると震わせながら否定しているその顔が真っ赤に火照ほてっていた。


その照れた姿がとても可愛く、本当に淫魔でも良いとさえ一瞬思ってしまう自分がいた。


「君はどうしてここに?」


素朴そぼくな疑問だった。


先ほどの兵士たちのように武装もしていないし、南京錠の鍵を持っていたから迷い込んできたことも考えにくい。


「私ね、ここの清掃員なの」


清掃員?


こんなにフェミニンでガーリーな子が?


どう見ても原宿に遊びにきた美少女のようにしか見えないんですが。


彼女はこの牢屋のたった一人の清掃員らしいが、詳しくは話そうとしなかった。


彼女からも素朴な疑問が飛んでくる。


「それにしても不思議な格好ね」


学蘭がくらんをまじまじと見つめている。


学蘭はもともと鎖国していたころの日本と交流のあった和蘭陀オランダの『蘭』からきていて、当時一般的に洋服のことは『蘭服』のことを指していた。


いまの東京大学が導入したことが契機とされていて、明治時代の初期から西洋の文化を取り入れる動きが活発となり、海軍をモデルにしたセーラー服同様、学蘭は陸軍下士官をモデルにしたらしい。


かく言う僕もこのことを知ったのは最近で、だからと言ってこれを誰かに話すような相手もおらず、このまま卒業しても第二ボタンが外されることはないだろうと自ら心を痛めてみる。


「君の学校に制服はないの?」


「どつだろ?私、学校行ったことないからわかんない」


学校に行ったことがない?


行けないのか、それとも行かないのか、彼女の切なそうな表情にそれ以上訊くことをはばかった。


僕も高校の制服を着ては学校に通うフリをして下校の時刻まで時間を潰していた。


不登校なくせに引きこもりでもない中途半端なままこの見知らぬ世界にやってきた。


入学式以降高校には通っていないから、僕のことを心配している人はいないだろう。


「ねぇ、きみ。名前は?」


ミントグリーンの大きな瞳で見つめながら訊いてくる彼女にドキッとした。


「清阪 奏達」


僕は自分の名前があまり好きではない。


小学生のとき、同じクラスにいた同じ名前のクォーターの子がめちゃくちゃイケメンですごくモテていたし、周囲の人には『ソウタ』と言い間違えられていたから、いっそのことソウタに改名しようかと思っていたくらいだ。


「カナタ、素敵な名前」


その言葉に含みやにごりはないと思った。


はじめて褒められた。しかもその相手がこんな美少女。


胸の鼓動が早くなる。


「十七年間生きてきてはじめて自分の名前を好きになれそうだよ」


「カナタくん、十七歳なの?」


「そうだけど、どうして?」


「私と一緒。同い年だね」


正直歳下だと思っていた。


その見た目の雰囲気から歳下に見えていたから驚くというよりも嬉しさが増し、ちょっとだけ運命を感じた。


昔から人付き合いが苦手で大した友達もいない僕にとって高校生活は地獄でしかない。


小・中は地元のやつばかりで顔見知りだったけれど、中学卒業と同時に親の転勤の関係で名古屋の高校に転校した。


地元も良かったけれど、名古屋の街の雰囲気は好きだしなんでも揃っている。


第二の故郷だと思えるくらい居心地も良かった。


でも学校にはすぐに行かなくなった。


大きな理由があるわけじゃない。


なんとなく通うことが億劫おっくうだっただけ。


名古屋城近くの名城めいじょう公園で時間を潰したり、日雇いのバイトで時間を潰していた。


ましてや一人っ子の僕にとって異性と接する機会なんてほぼ皆無だったからこんな美少女を目の前にすると緊張する。


「ごめん、名前言ってなかったね。私はシルフィ。シルフィ・フォン・レーゲンス」


そう言ってニコッと笑う彼女は天使そのものだった。


「リリィお姉様に比べたら落ちこぼれだけど」


遠くを見ながら苦笑いを浮かべるその姿になんて返せば良いかわからなかった。


リリィってさっきまでいた強そうな姫様だよな。

彼女がシルフィのお姉さんだとしたら合点がてんがいく。

よく見たら目元がそっくりだ。


「シルフィ、ひとつ訊いていい?」


「なに?」


「ここどこ?」


「ここはね、私たち天空人の住む世界ヘメリアにある水の国シェラプト」


天空人の住む世界。

地球上にそんな世界があったなんて知らなかった。


「ヘメリアの世界ではね、『黒いもの』=わざわいをもたらすものとして古くから考えられているの。黒い羽を持つ『ウィグロ人』は、白い羽の『ウィブラン人』に長い間ずっと奴隷どれいのように扱われているの。さらにこの世界の人はみな地上人に対して偏見へんけんがあってね。カナタくんは黒いものを多く身につけているし、それで捕まったんだと思うわ」


たしかに僕は『黒いもの』で染まっている。


黒髪に学蘭にローファー。地黒ということもあって上から下まで黒一色だ。


「同じ『黒』だから治療してくれたの?」


すぐに失言ということに気づいたが、リアルタイムの言葉にキャンセルはない。


弁解の言葉を探していると、


「私はこの国の王族の娘として生まれてきたんだけど、なぜか黒い羽でしかも片翼で生まれてきた。だから私は何者でもない……」


たしかに姉のリリィと羽の色が違う。


でも、それだけで分けられるなんてことがあって良いのだろうか。


もし彼女が何者でもないのだとしたら、出会ったばかりの人を治療したりしないと思う。


優しい心を持っているからこそ傷つきやすく、誰よりも温かい。


「君が好きだ」


突然の告白に目をしばたたかせている彼女を見て誤魔化すように、


「いや、あの、そういう意味じゃなくて」


「そういう意味じゃないってどういう意味?」


不安そうな表情はまるで浮気かどうかをたしかめる彼女のようだった。


浮気はもちろん、彼女がいたことすらないから想像の域を出ないのだけれど。


「好きなくらい魅力的だなって思って」


本当は一目惚れだった。いきなり告白したところで奇跡なんて起きやしない。


「ありがとう」


思っていたことと違う答えが返ってきたのか少し戸惑っているようにも見えたが、いまは本音を胸の奥底にしまい込むことにした。



目覚めてからずっと我慢していたものがそろそろ限界を迎えようとしている。


「あのさ、シルフィ」


「なに?」


「その、トイレに行きたいんだけど」


僕のいる牢屋の斜め後ろに簡易トイレがある。


二、三歩歩けば解決する話なのだが、いかんせん目の前に女性がいる状態だとなんて言えば良いかわからず、ずっともじもじしていた。


状況を理解した彼女の耳朶じだがみるみるうちに赤くなっていく。


「ご、ごめん。気がつかなくて」


どうぞどうぞと手のひらをその方向に差し出し、遠慮気味に牢屋を出た。


簡易トイレにまたがると、破裂しそうな膀胱ぼうこうが解放され、思わずふわぁ〜っと声が漏れる。


温泉に浸かった感じとでも言うのだろうか。


上手く形容できなかったが、解放感が半端じゃなかったのは事実。


「ーあの〜、終わりました」


報告する義務はないのだが一応言っておいた。


声に反応した彼女がゆっくりと牢屋の奥から顔を出して、


「もういいの?」


何の仕切りもないこの場所で誰にも見られたくないトイレを好きな人の近くでするというのは拷問ごうもんでしかない。


でも、もう一つだけ解放してほしいことがあった。


「あの、これほどいてもらえません?」


ここに来てからずっと手を縛られたまま。


なんで捕まっているのかもわからないままここに居続けるのは納得いかない。


「ちょっと待ってて」


そう言うと、シルフィは階段を上ってどこかに行ってしまった。


鍵でも取りに行ったのだろうか?


しかし、十分経っても二十分経っても彼女は戻ってこなかった。


なんというか、デート当日にドタキャンされた気分。


デートなんて一度もしたことないけれど。


見知らぬ地でたった一人。


急に思考がネガティブになる。


やっぱり僕は罪人なんだ。


きっと脱獄しようとしたことを告げ口され、処刑されるのだろう。


何一つ成し遂げずにこの世に別れを告げなくてはならないなんて。


さようなら、清阪 奏達。


儚い人生だった。


神様お願いです。


手羽先を食べたいなんてわがまま言わないので、せめてあのスパイシーな匂いだけでもがせてください。


最後に好きなアイドルグループのライブ映像を見させてください。


叶わぬ夢を願いつつ、せめて罪状くらい教えてほしかったと思いながら処刑される瞬間を想像する。


しばらくすると、足音が聞こえてきた。

さっきと同じ音だ。


牢屋越しにシルフィが、


「ねぇ、カナタくんは一体何をしたの?」


僕は一体何をしたのだろう?


ここに来るまでの記憶を辿たどる。


ハロウィンという僕には生涯しょうがい無関係のイベントが終わり、銀杏ぎんなんの独特の匂いが鼻腔を苦しめるそんな時期だった。


コンシューマーゲームでRPGをしすぎて寝不足だった。


親がうるさいので学校に行くフリをして家を出た。


突き刺すような太陽光が落ちてくる瞼を何度も持ち上げ仮眠できる場所を探していると、たまたま通った中村公園駅にある大きな鳥居を見つけた。


吸い込まれるようにその鳥居をくぐったとき、眩い光が差し込み、気がついたらここにいたのだ。


あの鳥居がここにつながっている?


まさかそんなファンタジックな展開があるわけがない。


「僕は、何もしていない」


記憶を辿る限り、本当に何もしていないのだ。


しばらくすると一人の男性が階段を降りてこちらにやってきた。


シルフィがその名を呼ぶ。


「ロベール」


そう呼ばれるダンディな男性は、金髪の短い髪に長く伸びたひげと細長い目の奥にある青い瞳。目元にあるしわ貫禄かんろくを感じる。


身にまとった鎧も腰にかかる刀のような剣も、重さを感じさせないくらい首元の筋肉が日頃から相当鍛えていることを物語っている。


背中の羽の間からは弓矢のようなものが見える。


おそらく遠距離用だろう。

この人は剣も弓も扱うということだろうか。


「お嬢様、急にいなくなられては困ります。お嬢様の身に何かあっては……」


「心配しすぎ。もう子供じゃないんだから」


「ですが、わたくしはお嬢様をお守りするためにここにいます。あまりに自由に動かれてはわたくしも……」


「あの〜」


気まずい空気のなか、意を決して話しかける。


「申し遅れました。わたくしはシルフィ様の使用人をしているロベール・ガニエと申します。以後お見知り置きを」


失念していたかのように深くお辞儀をしてきた。


「ロベール、使用人なんて言い方やめて」


「そうでしたね。失礼いたしました」


「ロベールは私の身の回りの世話をしてくれている守り役。小さいころからずっと面倒を見てくれているの」


「き、清阪 奏達です。ども」


ロベールに向かって会釈えしゃくするが、目を合わすことができず、声もこもってしまった。


はじめて見たダンディでムキムキな剣士。


べつに怯えていたわけじゃない。単に初対面の人が苦手なのだ。年の離れた人はとくに。


じいちゃんが生きていたころよく怒られた。


礼儀や人付き合いを大切にしていたじいちゃんは、所作しょさに対して厳しかった。


箸の持ち方や礼儀作法。


テキトーな挨拶あいさつではなく、立ち止まり相手の目を見て元気よく挨拶する。そうすることでプラスの空気にする。


ご近所さんが来たときに自分から挨拶をしなかったときすごく怒られたことがあったっけ。


人見知りだろうと何だろうと、挨拶は自分から。


『挨拶』とは、心を開き歩み寄ること。


それが祖父、清阪 篤茂あつしげの教えだった。


でも、人見知りはそう簡単に直らない。


じいちゃんの願いもむなしく自分からすることはまだできない。


「ねぇ、ロベール。この人悪い人じゃないと思うの。ここまでの記憶がないって言ってるし」


「地上人ということだけで捕らえられたということでしょうか?」


「そうだと思う。そもそもこの地に地上人がいること自体不思議なことだから怪しまれたんだと思うの」


「しかし、リリィ様の許可なく勝手に拘束を外せば、わたくしたちにどんな罰が与えられるかわかりません」


「そうだけど、お姉様とお話なんて私にはできないもの……」


彼女は姉と話すことにひどく怯えていた。


兄弟のいない僕にはよくわからないけれど、ただの姉妹喧嘩という簡単なものではないことはわかった。


「ねぇ、カナタくん。本当にここに来るまでの記憶がないの?」


再度記憶を辿ったが何も思い出せなかった。


「ロベール、なんとかならないかな?」


腕組みしながらしばらく考えた後、


「お嬢様、こちらを」


鎧の内側からあるものを取り出しシルフィに渡す。


見たところ普通の鍵。

形状は似ているが、微妙に鍵穴が合わないようにも見える。


「交代の兵士たちがやってくるのも時間の問題かと。解錠したらすぐに脱走のご準備を」


「ありがとう。いつもの道でいいのね?」


「はい。できるだけ大きな音は立てぬよう慎重にお願いします」


するとシルフィは牢屋の中に入り、僕の拘束具の穴にその鍵を挿し込んだ後、そこに手を翳しながら何かを唱え出した。


「サラスヴァティー神よ、私に力をお貸しください。ヴィグネーシユヴァラ」


意味は全くわからないが、何かを詠唱えいしょうしたその数秒後、彼女の手のひらが一瞬光ると同時にカチャンという音を立てて拘束具が外された。


手首に若干のあざは残るものの自由に動く両手に解放感で満たされた。


「お嬢様は生まれつき『アーユス』という能力をお持ちです」


アーユス。


森羅万象しんらばんしょうと対話ができ、神の力を借りて治癒術や召喚術が使える魔法のようなもの。

しかし、この能力を使えるのはごく一部の限られた人のみでこの国では彼女だけらしい。


「お嬢様はこの力で人知れず多くの人を救っているのですが、決してそれを誇示こじしようとなさいません」


僕だったら露骨ろこつに自慢して恩着せがましく見返りを要求するけれど、それを一切しないということは根っから優しい心を持っていると思う。

いや、単に僕の性格が悪いだけか。


王族の娘でありながら黒い羽を持ち、そしてこの魔法のような力。


異形いけいな存在がゆえに恐れられ避けられているのだろうか?


「受け入れてくれる人も何人かいるけど、多くの人は信じてない。この見た目でアーユスが使えるなんてそれこそ天魔だよ……」


「僕はその羽、綺麗だと思うよ」


お世辞でもびでもなく本心だった。


白い肌にミントグリーンの髪と瞳。その背中から見える黒い羽は悪魔なんかじゃなく天使。


彼女は目を見開きながら一瞬口角を上げたが、すぐさま暗い表情になった。


「こんな羽、嫌い」


その怨恨えんこんめいた言葉は地球の重力に押しつぶされ、海の奥深くに沈んでいくくらい重く感じた。


「お母様やお姉様のように気高く白い羽を持っていたらこんな生活しなくてすんだのに……」


きっと彼女はこの羽で生まれてきたことでたくさん苦労してきたんだろう。

煩悶はんもんしなくて良いこともたくさんあっただろう。


偉そうなことを言ったって、御託ごたくを並べたって彼女の苦しみはきっと表面上しかわからない。


多くの人はマイノリティを否定したがる。


自分の選択が正しい。失敗したくない。それを証明してくれるのは周囲。


SNSで拡散されたものは流行るし、それに乗っかれば間違いはない。


口コミで広がった店やメディアに取り上げられた店は繁盛はんじょうする。


でも、それによって本質がわからなくなることもある。


良い言い方をすれば個性的。悪く言えば変人。


マイノリティな人は常にこの状況と闘っている。


どちらかというと僕も少数派に入る。


人と違う格好がしたいという理由だけでバレーボール部のときはリベロをしたし、サッカーをかじっていたときはキーパーをしていた。


理由が理由だからどれもすぐに辞めた。


もちろんマジョリティがあるから世の中は回るのだけれど。


悄然しょうぜんとした彼女の表情に返す言葉が見つからなかった。


「ロベールさんはどうしてこの鍵を?」


「この鍵は簡単に言うとマスターキーの複製版。ここレーゲンス城内のほぼすべてを開けられる鍵です」


「ロベールはわたしの守り役と兼任でこの城全体の諸々もろもろの管理も任されているから以前こっそり作ってもらっていたの」


そういうのを職権濫用しょっけんらんようというのでは?とは口が裂けても言えなかった。


助けてもらっておいてそんなこと言ったらまた牢屋に逆戻りしそうだから。


でももし僕がロベールと同じ立場だったら男子禁制の場所に入ったり、高価なものを拝借はいしゃくしたり、なんて仕様もない奸計かんけいを企んでしまうに違いない。


そもそもそんなことを考えている時点で僕の性根しょうねに問題がある。


「あまり長居はしていられません。さぁ、こちらへ」


牢屋を出た後、ロベールの後ろに続く。


他の受刑者からの冷たい視線を浴び、少し気まずくなりながらも正面の階段を上がると広間のような空間に出た。


すると、ちょうど交代のタイミングでやってきた兵士たちと目が合うと、持っていた槍をこちらに向けてきた。


こちらに向けられている槍の先端にビビって足がすくむ。


僕の目を見ながら徐々に近づいてくる兵士たち。


「お嬢様、先にお逃げください。すぐに合流します」


そういって、ロベール手慣れた様子で兵士たちに向かって弓矢を放った。


それが威嚇いかくとなり、兵士たちはそれ以上前に行けないすきに細い通路に向かって走り出す。


ロベールも合流し、僕とシルフィを守るように背後を走っている。


しばらくして振り向くと、さきほどの兵士たちがものすごい剣幕けんまくで走りながら追いかけてくる。


ロベールが放った弓矢が兵士たちの羽を射抜いていたことで空を飛べないでいる。


それでも日頃から鍛錬たんれんを積んでいる兵士たちは足が早く、距離がどんどん縮まっていく。


すると、シルフィが「ここから先はいくつかのトラップが仕掛けられてるから気をつけて」と注意喚起かんきするもその表情はどこか楽しそうだ。


何そのダンジョンみたいな設定?

ってか何でそんな楽しそうなの?

さらっと言っていたけれど、普通に危ないのでは?


二人は仕掛けをすべて把握しているのか、剣山や煙幕をさらりとわしながら進んでいく。


先頭にシルフィ、その後ろに僕、そしてロベール。


タイミングが悪かったら即死するようなトラップだが、僕が無傷でいられたのには理由がある。


前を走る彼女に手を握られていたのだ。


この胸の高鳴りはどっちだ?


久しぶりに走ったから?


それとも温かい右手のせい?


この細い道に入るタイミングで置いていかれないよう彼女にぎゅっと握られていたのだ。


細く白い指で握る彼女の手は力強かった。


こんな可愛い子に手を握られてドキドキしない人などいるのだろうか。いや、いないはずがない。


僕はいま世界で一番幸せかもしれないと思い込みながら彼女についていく。


早鐘を打つ心臓と紅潮する耳朶。手汗をかかないよう願いながらも身体は正直。


汗を拭いたくて掴んでいる手を離そうかと思ったが、一度離してしまったら後悔しそうなので、ごめんと思いながらそのままにした。


数百メートル進んだ先は行き止まりだった。


「えっ?ここ?」


戸惑う僕をよそにシルフィとロベールはくすくすと笑いだした。


まさか、二人も兵士たちとグルだったの?


だとしたら前振りが長すぎる。


しかし、それは全くの杞憂きゆうだった。


「なつかしいね」


「えぇ、よくここからお逃げになられてましたね」


ここから逃げるってどう見ても壁にしか見えないんですが。


感情に浸ってないで状況を説明してくれ。


こっちは色々ありすぎて混乱しているんだ。


「ここはお嬢様のお部屋へとつながる隠し扉なのです」


隠し扉?

それらしきものは見当たらないけれど。


「真ん中にあるくぼみを押してみて」


コンクリートでできた壁に一箇所だけ少しばかりの隙間が見える。


おそらくこれがボタンだろう。

ちょうど腰あたりのところにある壁龕へきがんを手のひらでぐっと押すと、目の前の壁がギーッと音を立てながらゆっくりとスライドしていく。


壁が消えたその奥に大人一人通るのがやっとの細い通路が現れた。


振り向くと兵士たちが追ってきているのが見えた。


荒げた声で何かを叫んでいるようだが、距離があってうまく聞き取れない。


「シルフィ、やつらは何て?」


「いますぐ止まらないと、この槍でお前の心臓を突き刺すぞって言ってる」


いや、怖すぎでしょ。


マジで僕何したの?


何で狙われてるわけ?


兵士たちは槍を肩に構えながら兄の形相ぎょうそうで追いかけてくる。


このままだと本当に心臓を突き刺されてしまう。


確実に心臓を刺すため、やり投げ選手のように矛先をこちらに向けたままギリギリまで近づいてくる。


もうダメだ……。


「ロベール、あれ出すからその間に逃げるよ」


シルフィが手のひらを見せながらそう言うと、


「しかし、それではお嬢様のお身体が……」


「大丈夫。一瞬だけだから」


シルフィはつないでいた手を離し、兵士たちの方に向かって何かを詠唱しだした。


「クリシュナ神よ、私に力をお貸しください」


手のひらから光が放たれたと同時に彼女の手の甲の血管が少しだけ紫色に染まった気がした。


苦虫にがむしを噛んだような苦悶な表情を一瞬浮かべた後、それを耐えるようにして、


「おいで、ガルーダ」


そう叫ぶと、閃光と同時に顕現けんげんしたのは赤く大きな鳥。


ガルーダと呼ばれるその鳥は全長三メートルほどの大きさで、身体から通路いっぱいに羽を広げギィーと鳴いて威嚇する。


その姿に驚きおののいた兵士たちは狼狽ろうばいし立ち竦む。


「さぁ、いまのうちに」


ロベールの声と同時に一気に突っ走る背後でブォォ〜という大きな音がした。


振り向いて見てみると、ガルーダが口からブレスのようなものを吹いていた。


通路中が白い煙で覆われると、

「もうガルーダやりすぎ!威嚇するだけでいいって言ったのに」


走りながら膨れっ面でそう言う彼女がかわいくて思わずほおが緩んだ


気がつくと、ガルーダも兵士たちの姿もいなくなっていた。

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