■□月星暦一五四二年十月③〈少女の物語〉
■アトラス→□ハイネ
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レイナ達に先行してニ週間前に月星入りしたアトラスも、思いつく限りのできる手はすべて打った。
もちろん、三ヶ月間も何もしていなかった訳ではない。
アリアンナの協力や、ヴァルムやライの伝手を使い、アトラス自身も何回か実際に月星に赴いて準備を進めて来た。
結局、あとは準備を怠らずに待つこと以外できることは無い。
椅子に座ったレイナは、卓の上に常備されている菓子に手を伸ばした。
お茶の時間以外の間食をあまりしない彼女にしては珍しい。
澱粉と砂糖で練ったものに木の実や乾燥果物などを入れて一口大に切り分けた菓子で、月星では一般的なものだ。疲れた時にちょっと口に含むのに適している。
「すまんな、嫌な思いをさせて」
――あの娘が王子を連れてくるのではなかったのか?約束を違えたのか?
――あの娘が殿下を、我らのタビスを六年も拘束した?
王城でそんな声が聞こえてこなかったはずが無い。
ネウルスに至っては面と向かって口にしただろうことは容易に想像できる。
もっとも、本人を目の前にして口に出すだけ健全とも言える。
皮膚は案外色々なものを感じ取る。
無言の圧。
好奇の視線。
歓迎されていない空気。
そのようなものに晒されて、本人が感じている以上の負担なっていたりする。
「大丈夫」
レイナは立ち上がって壁に寄り掛かるアトラスの前に来た。
とん、と額だけを器用にアトラスの胸に当てる。
「ちゃんと、あなたを還すって決めたから。その為の役に立てるのなら、大したことじゃない」
レイナの背中に伸ばしかけて躊躇ったアトラスの手は宙を泳ぐ。
やがてそっと彼女の頭に触れ、優しく亜麻色の短い髪を撫でた。
同室にいるハイネは礼儀正しく目を逸らす。
□□□
「ねぇ、レイナ。聞いていいかな」
ハイネは席に戻った彼女に真顔で問うた。
「アトラスを送り届けて、その後君はどうするの?」
「どうもこうも、私はすべきと思うことをするだけ。せっかく色んな国の人が招待されているのだから、何か縁が結べると良いわね」
曖昧な笑みを貼り付けた顔で、レイナはそんなことを言う。
「そうじゃなくて!君は、ただ還すだけでいいのかと……」
「ハイネもここまでの道中で見たでしょう?お城でも感じたでしょう?この国の人には、タビスが必要だわ。多分、私達が知識として理解している以上に」
「レイナっ!」
はぐらかす幼馴染の名を呼ぶ声には苛立ちがこもっていた。
レイナは困った顔でハイネを見やり、アトラスも一瞥して、床に目を落とす。
「……六年程前、大事なものを落っことした少女が、ある男の人に拾われたの。右も左も分からないのに、その人の心配そうに覗き込む瞳は不思議と信じることが出来た。初めは助けられた恩だったと思う。その人の大きな背中を追いかけると安心出来た。隣で歩くのが楽しかった」
とつとつと、誰にともなくレイナは語り始めた。
「ある海の綺麗な国で、少女は高熱を出してしまったの。蓄積した疲労からきたもので大事にはならなかったけど、少女には休養が必要だった。身分を隠して旅をしていた筈の男の人は、身を晒して従兄弟を頼ったの。そこでは従兄弟の幼馴染と言う女性が少女を介抱してくれた。女性はたった四歳歳上なだけだったけど、とてもきれいで大人に見えた。少女は女性がその人と親しげに話すのが嫌だった。その人を取られてしまうみたいで腹が立った。そして、その人と大喧嘩をしてしまう訳だけど、その感情が嫉妬だったのだと今なら判る。少女はその頃にはもう、その人が大好きだったの」
ハイネはそっとアトラスを伺い見た。
アトラスは感情の読み取れない顔で耳を傾けている。
「旅の間、その人は少女の全てだった。その人と一緒にいるのが当たり前だった。その人と一緒にいる時間が幸せだった。その時間がずっと続けばとさえ思っていた」
レイナもまた顔色を変えずに、淡々と語り続ける。
「でも、旅は終わりを告げる。あんなに帰りたいと思っていた故郷で、会いたかった筈の家族に会えない事実よりも、その人が死んじゃうかもしれない大怪我を負ったことの方が
レイナは顔を上げ、ハイネを見詰める。
「少女は……いえ、もう少女という歳でもないけど、その人のことを愛しているわ。そう直接告げることはなくても。きっと、これからも変わらず愛してる」
レイナはそう言って微笑した。
その顔は美しく哀しい。
「その人には思い出を貰ったから。大切な時間を貰ったから、大丈夫なんだ」
ハイネは一筋頬を濡らしていた。
「……解った」
そう応える意外に、ハイネに他に何が言えようか。
聞き終えたアトラスの顔色も変わらない。
アトラスもまた違う意味で、何かを語れる立場に無いのだ。
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