第30話 エピローグ─画家の卵─
数日過ごせば、山奥での生活も徐々に慣れてきた。
昨日に比べたら小雨になったが、まだ雨は続いている。連動するように、蛙の鳴き声も聞こえてくる。
優しい雨であるうちに幸一が釣ってきた魚を焼いていると、背後から肩を掴まれた。
幸一は後ろから脅かすような真似をしないので、訝しみながら振り返る。
「ひっ…………!」
昨日の男だ。風呂場で妖精などと呼んだ、あの男で間違いない。
逃げようにも魚を放っておくわけにはいかずおろおろしていると、幸一が調理場へ顔を出した。
「幸一っ…………!」
助けを求めるように叫ぶと、幸一は鬼の形相で近づいてきた。
「違う違う! 襲おうとしたわけじゃないよ!」
「昨日も浴場で近づいたらしいな」
「それは……謝るよ、ごめんなさい。あまりに綺麗な人がいたものだから、つい」
「綺麗であっても、他人に触れたりするのはやってはならないことだ」
「はい、ごめんなさい」
素直な謝罪に、こちらが悪いことをしているような気持ちになる。……綺麗ってなんだ。
「別に怒ってはいないよ。びっくりしただけで」
男の顔が花が咲いたように明るくなる。悪い奴ではなさそうだが、下から上まで凝視してくるので幸一の後ろに隠れた。
「絵画で君みたいな人、見たことがあるんだよ。大きな絵に君のような妖精が眠っていたんだ。画家の八重澤虎一先生って言うんだけど」
僕は冷や汗がだらだらだった。風呂に浸かったみたいに背中が熱い。けれど幸一は澄ました顔で何も言わない。名乗るつもりはないのだろう。ここはもう、幸一に話を合わせるしかない。
「気のせいじゃないか?」
「絶対に君だと思うんだけど。本当にそっくりでさ、絵画から出てきたのかと思って、昨日は興奮して寝つけなかったんだ。ねえ、俺にも絵を描かせてくれない?」
「俺にも……って言うけれど、僕はその画家のモデルなんて一言も言っていないぞ」
「それでもいいよ。俺はそう思ってるんだから。モデルじゃなくても、君を描きたい」
「うちの妖精、そんなに安くないぜ」
幸一は謎の男の前に踊り出ると、男はむっとした表情を見せた。顔に出やすい、素直な性格だ。
「安くないってひどい言い方じゃないか? 彼が売り物か何かだと言いたいのか?」
僕は幸一の所有物かなにかだと勘違いをしたようだ。彼の頭のなかでは、僕らが恋人だとは結びついていない。
「俺はただ、妖精さんを描きたいだけなんだ。こう見えて、画家の卵なんだよ」
「それは素敵だな。ぜひ君の絵を見てみたいと思うよ。な?」
無理やり彼の話に乗っかってみると、幸一も乗り気に見える。
「そちらの彼は何者?」
「友人だよ。幼なじみなんだ」
「ああ……そうなのか」
男は春日清春と名乗った。春が二つつく名前は本名らしい。
春日は足を痛めて、療養のために湯治へ来たと言う。
「学生時代に槍の訓練で足を痛めたんだ。それから定期的に湯治に来るようになってさ。妖精さんも訓練しなかった?」
「ああ……そういえばあったな」
訓練は真剣にはしなかった。幸一に真面目にやるな、戦場に連れていかれるぞ、と言われたためだ。
「それより、妖精さんってなんだよ」
「だって君の名前を知らないし。でも知らないままでも美しさや儚さが強調されて、もっと魅力的に感じるよ」
「ああ、そう」
投げやりに返事をして、春日の部屋へお邪魔した。
幸一の部屋のように、微かに絵の具の匂いがする。この香りを嗅ぐと幸一を思い出し、腹の奥が疼いて仕方なくなる。
画帳に描かれる絵はどれも趣味の範疇を超えていた。野兎は紙から飛び出そうで、草花が揺れている。
「俺の絵は気にいった? どうかな? 俺に描いてほしい気分にならない?」
「どうして僕なんだ? せっかく自然が豊かなところへ来たんだから、もっと小川や海を描けばいいのに」
「水のせせらぎも美しいさ。でも君みたいな麗しい人の方が、心が踊るんだ。それとも八重澤先生の方がいい? 画家の卵には描いてもらいたくない?」
「僕は八重澤先生のモデルじゃない。似ているだけだって言っているだろ」
春日もそうだが、画家は自分のこだわりを広く持ちすぎている。幸一もだ。幸一の場合は悪い方向へ進んでいないが、それは恋人という間柄だからだろう。裸体を描かせるなんて、普通はありえない。
春日もまた断られると微塵も思っちゃいない顔つきだ。
「君には描けないと思うよ」
幸一が横から槍を突き刺すたび、春日は不機嫌に顔を歪ませていく。あまりつつかないでほしい。
「描けないって? 俺の実力が足りないとでも言うのか?」
「そうじゃないよ。描ける自信があるなら描いてみるといい。でも絶対に納得できるものは描けやしない」
きっぱりと幸一は告げた。
それは僕を彼に描かせろというのか、と尻目に睨む。
「妖精さんは承諾してくれる? どうしても君を描いてみたいんだ。八重澤先生よりも絶対に美しく描くよ」
幸一と何度も目配せをした。が、彼は言うだけ言ってあとは僕に委ねるつもりだ。
春日の画帳は、卵といってもどれも絵画展へ出せる腕前だ。とは言っても素人目の話だが。プロの八重澤虎一先生は、きっと別の角度から見えているだろう。
「判ったよ。受ける。ただし、明日一日だけでいいか?」
「もちろんさ。実は明後日、東北に帰るんだよ。だから明日しか空いてないんだ」
東北交じりの訛りがある言葉遣いだ。所々に独特の抑揚がある。
明日の午前中に来ると約束し、春日とは別れた。
「ごめん」
部屋に戻ると、幸一は謝罪と同時に後ろから抱きしめてくる。
「本当だ。まったく、なんであんな約束をしたんだ」
「お前を俺より綺麗に描けるなんて言われて、悔しかったんだ。虎臣を俺ほど清らかに描ける人はいない。絶対に自信がある」
「はいはい。僕たちがここにいるのは一週間しかないのに、明日は一日会えないかもしれないな」
「明後日からはふたりきりさ。天気も良くなるし、今度こそ川で遊ぼう」
「でもまさか、画家と会うとはなあ」
「おかしくはない。俺だってここにいるわけだし、たまには雰囲気を変えて描きたくなるものなんだ。家にじっとしていたって上手くなるわけじゃないからなあ」
布団に押し倒された。明日は長丁場になり、おそらく夜まで会えない。
外はまだ雨が降り続いている。漏れる吐息はかき消され、シーツは乱れた。
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