第3話 邂

 夏の終わりに八重澤家を晩餐会に招待し、別荘は賑やかなものになった。

「明後日帰るのか?」

「午前中にはここを出る。本田とも一緒にいられるのは明日で最後。寂しい?」

 虎臣は素直に頷いた。大人に隠れてこっそり繋いだ手は熱い。今宵は夏の暑さがいっそう厳しかった。

 食卓にはいつもより豪勢な食事が並んでいる。

「ビーフステーキだ。俺好き」

「八重澤も? 僕も」

「幸一坊ちゃんもたんとお召し上がり下さいな。お代わりはたくさんございますよ」

「ありがとうございます」

 幸一はタエにお辞儀をした。

 虎臣は自然と幸一の横に座り、フォークを手に取った。

 牛肉は異国から輸入も積極的に行われていると、父がよく語っている。

 虎臣は兎肉より、断然牛肉派である。

 父親同士は仕事の話に花を咲かせていた。虎臣は幸一の隣に座ったのが今さら恥ずかしくなった。夏休みの間は一緒に遊んだり宿題をしたのに、なぜか家族には見られたくないし薫子に対して罪悪感の芽が出た。

「幸一は明日も虎臣君と遊ぶのか?」

「そのつもり。会えるの最後だから、海に行こうかなって考えてる」

 そんな約束はしていなかったが、虎臣も頷いた。

「薫子も遊んできたらどうだ?」

 父に言われても、薫子は頷かなかった。

「泳げないのを気にしているのか?」

「ひどいわ。そんなことをばらさなくたって」

「これから泳げるようになるさ。そんなむくれるな」

「それだけじゃないもの。兄様は幸一さんとふたりがいいんでしょ?」

 虎臣はあやうくナイフを落としそうになる。思わず幸一を見るが、彼は薫子を見つめたまま何も言わない。

 薫子は「だって明後日お帰りになるんでしょ?」と続けたので、胸を撫で下ろした。

「友達になったし、次いつ会えるか判らないし」

 虎臣はそう返すしかなかった。

「なら薫子は明後日に虎臣と遊んでもらうといい」

「海に行きたくないなら、勉強は教えられるよ」

「宿題は終わったわ。だから明後日は潮干狩りに行きたいの。お兄様だけずるい」

「わかったよ。明後日は潮干狩りに行こう」

 大量の貝は美味しく食べたものの、新しい遊びに参加できなかった薫子はおかんむりだった。

 幸一は薫子の話には興味を示さず、黙々とフォークを動かしていた。




 ひと泳ぎした後、海の生き物を取ろうと人の波から離れたところまでやってきた。

「雨降りそうだな」

 雲の流れが速く、気づいたときには空一面が灰色に覆われている。光も射さず、太陽は行方知れずだ。

「わ、降ってきた」

 小雨どころの話ではない。針のような雨が容赦なくふたりを叩きつける。

「ほら、いこ」

 幸一は虎臣の手を握った。虎臣も握り返す。

 どこへ行くか判らない。けれど幸一となら、どこだって良いとさえ思えた。

 息が切れ初めてから間もなく、人の気配も消え、目の前には洞窟があった。

 戸惑う虎臣とは対照的に、幸一は中へと進んでいく。いまだに離れない手がある限り、後ろをついていくしかない。

「声響くね」

「そうだな」

「僕たちみたいに雨宿りに使われてたのかな?」

「それか防空壕代わりとか」

 壁には大人のものと思われる黒い手形がある。虎臣には助けを求めようとしているように見えた。

 暑いのに全身に寒気が襲い、鳥肌が立つ。異国では今も人命が奪われ続けている。いずれ日本にもそういうときがまた来るのかもしれない。そう思わずにはいられなかった。

「飴、食べる?」

 幸一の手には有平糖が乗っている。虎臣は一つ取った。

「これ、好き」

「俺も」

 今日はいまいち会話が弾まなかった。

 会えるのは今日が最後。もう会えないかもしれないし、親同士の付き合いで次はすぐにやってくるかもしれない。

「なあ、口吸いしよっか」

 虎臣は目を見開き、吐息混じりに「え?」と答えた。

 幸一の顔が迫ってくる。作法なども判らず恥ずかしくなって目を瞑った。息ごと唇が吸われ、口の中にある飴ごと取られた。

 奪い返してほしくて、虎臣は彼の後頭部を掴んで唇を重ねた。

 生暖かな舌に飴が乗っている。舌を絡め合い、飴を取ろうとするが、引っ込んでしまった。

 気づけば押し倒されていて、背中にごつごつした石が当たる。頭が痛くないのは、幸一により守られているからだ。

 足が絡み、薄い布越しに触れる箇所に熱がこもる。伝わる。

 飴は、もうない。

「俺、今日のこと、絶対に忘れない」

「うん……僕も」

「もう一個、食べる?」

「…………うん」




 真夏の暑い日、身体にも変化が訪れ、知らなかった世界に足を踏み入れた。




 一方で性が歪み、普通ではないと知ってしまったのは、もう少し先のことになる──。










「虎臣、忘れ物はないか?」

「大丈夫だよ」

 心配そうな父をよそに、母は相変わらず部屋を出てこなかった。厄介者がいなくなって清々しているのだろう。

 この春、虎臣は高校一年生になった。同時に、家を出て夢だった寄宿舎つきの高校へ入学することが決まった。実家へ戻れるのは長期休暇だけで、それ以外は許されていない。

 厳しい世界でも、夢は叶えた。暖かいが寂しい家庭。そこで育った虎臣は、別の居場所を作りたかった。

「兄様……」

「いつも薫子のことを想っているよ」

「私も、兄様が大好き。夏には帰ってきてね」

「ああ、そのつもり」

 六歳離れた薫子は大きくなった。だがおしゃべりなのは相変わらずだ。

「必ず手紙書いて送ってね」

 手紙。虎臣は数年前の出来事が脳裏に浮かんだ。

 別荘で出会った八重澤幸一。十二歳の夏に別れてから何度か手紙のやりとりをした。だが突然、彼から来なくなったのだ。

 受験などで忙しかったのかもしれないが、それでも毎日のように待ちわびていた。気づけば虎臣は高校入学目前となっていた。

 入学式の前に寄宿舎へ荷物を置きに向かう。持っていけるものは下着類くらいだ。私物の持ち込みはほぼできない。

「一年、本田虎臣。お前は一階の部屋だ」

「ありがとうございます」

 軍隊のような立ち振る舞いをする先輩に、必然と背筋が伸びる。鍵を受け取り、虎臣は足早に与えられた部屋に向かった。

 虎臣は部屋の前で止まる。扉の表札には、八重澤幸一と書かれていた。

「八重澤……」

 こんなことは有り得るだろうか。同姓同名の男の名が札に書かれていて、しかも同じ部屋だ。

 恐る恐る扉を叩くが、返事はない。

 中はそれぞれが使用する机や椅子、布団が二組ある簡素な部屋になっている。狭くはないが、もし三人部屋であれば窮屈に感じるだろう。

 机には教科書や帳面が山積みになっている。充分な文具類も揃っていた。

 最初にすべきことは私物になるものに名前を書くことだが、まずは箪笥に下着をしまった。箪笥は一竿しかなく、これは二人で使うしかない。相手がどこを使いたいのか判らないため、一番下の端に置いた。

 帳面に名前を書いていると、廊下で人の気配がした。

 虎臣に緊張が走る。指先が微かに震えた。

 扉を数回叩く音がし、

「はい」

 と小さな声で返した。

「本田…………」

 八重澤だ。十二歳の夏に湘南で出会った、あの八重澤幸一だ。身長も伸び、声変わりもしている。

 突然、胸がはちきれんばかりに悲鳴を上げた。こんな感情は最後の夏に洞窟で親にも言えない行為をしたとき以来だ。

「久しぶりだな。数年しか経ってないのに、随分大きくなった」

「八重澤こそ。表札を見たときは夢かと思った」

「ああ、俺もだ。こんな偶然があっていいものか。それと夢を叶えたんだな。おめでとう」

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