永遠に咲く花

出 万璃玲

前篇


 ぽとり、言葉を落とす。


「永遠に咲く花があったらいいのに」


 目の前の、名前も知らない人。その人が私に差し出しているのは一輪の白い花。視線をそらした先に、駅構内のざらりと黒っぽい石質の床が見えた。




「あ、まずい」


 ランチどき、最近コンビニなんかで見かける低糖質のパンをもそもそと頬張りながら、同僚の沙紀が声を上げた。私は食べたことがないけれどそれはそんなに不味いのかと訊ねたら、パンの話ではなかった。


「そうじゃなくて、締切の話。忘れてて、まずいってこと」


 仕事の話か。何か忘れていたのを思い出したんだろうと思ったが、それも違った。けれども沙紀は、それこそ仕事の話でもするかのように、やや面倒そうな顔を見せて言った。


「来月、わたし誕生日でしょ。二十八歳になるから、彼氏を作る締切」

「それはまた、半端な気がするけど。キリよく三十歳までとかじゃないの」


 何言ってるの、と。昼休みには私用が許される内部会議用スペースの、座っていたオフィスチェアから立ち上がる勢いで沙紀は言った。


「三十歳は、結婚の締切でしょ。その前に一、二年は付き合いたいから」


 それもそうかと私は納得した。今のご時世、女性は二十代のうちに結婚しないと駄目なんて大っぴらに言えば問題になるが、やっぱり三十歳までには。他人が何歳で結婚しようとどうでもいいけれど、自分は早くしたい。そう思っている人はそれなりにいると思う。


瑞希みずきはあんまり興味なさそうだよね。一人が楽しいならそれもアリだけど」

「……まあ、そうかな」


 曖昧な返事で濁すと、沙紀はそれ以上訊いてこなかった。さっきは椅子から飛び上がるほど力説していたくせに。自分の理想があるからといって、それを押し付けてこないのが彼女のいいところだ。明るくて、あっけらかんとして。ただ単に、他人にそこまで興味がない可能性もあるけれど。いずれにせよ、こうして程よい距離感でいてくれる同僚の存在はありがたい。




 朝、スマホのアラームを二度目のスヌーズで止めた。さすがに起きないとまずい。化粧をする時間がなくなっては困る。音は寝起きの頭に響くので、うっすら聞こえる程度の音量でテレビを付け、時刻を確認できるようにする。


 ケトルでお湯を沸かしてインスタントコーヒーを淹れながら、今日着る服を頭の中で組み立てる。猫舌なので、コーヒーを冷ましているうちにほかのことをする。たいてい全ての準備が終わったときには家を出る時間ギリギリで、ぬるまったコーヒーは私の体内に一気に流し込まれることになる。


 着替えて歯を磨いて、溜め息を吐きつつ顔を洗う。まだ半分寝ているというのに顔に水を浴びせるなんて、日常作業の嫌なこと選手権があったら絶対にランクインするはずだ。

 化粧水とクリームから始め、塗っていないように見えてそこそこ塗っている、OLらしい化粧も手慣れたもの。仕上がりなんていちいち確認しない。毎朝同じ手順が済んだらろくに鏡も見ずに洗面所から出る。しかしその日、たまたま目が合ってしまった自分の顔はどんより灰色で、なんだかとても疲れて見えた。




 それは、地下鉄駅構内の片隅にあった。おそらくチェーン店であろう小さな花屋。二路線を使って会社まで行く私の通り道、乗り換えの動線状に、静かに佇んでいた。


 ただそこにある風景の一部として毎日通り過ぎていたその場所で、ふと足を止めていた。数日前、同僚から「締切」の話なんて聞いたからかもしれない。駅構内の青白い光を受けて、同じ長さに切り取られた花たちが並んでいた。


 店のすぐ前ではなく、二、三歩離れた場所。帰りを急ぐ人たちの道上どうじょうで急に立ち止まった私を、人々は器用にけて歩き去っていく。何を見るでもなく、同じ花瓶に入れられながら銘々の方向へ顔を傾ける花たちを、私はぼんやりと眺めた。



「よかったら、どうぞ」


 ハッと我に返って、顔を上げる。電球色のような人当たりのよい笑顔が、私の目線よりほんの少し上にあった。その人の手には一輪の花。腕捲うでまくりをしたトレーナーからのぞく骨張った手の先には、ところどころ赤切れが見える。胸元に小さくロゴが入った黒いエプロンが、彼がそこの花屋の人だということを伝えた。


「あ……、すみません」


 咄嗟に謝罪を述べた。買いもしないのに店先に居座り、不躾ぶしつけな視線を送られればさぞ迷惑だろうと。


「いえ。せっかく興味を持ってくれたなら、一本持ってってください。お代は要りませんから」

「…………」


 私は彼の手にそっと握られた一輪の花を見た。蕾から開いたばかりのそれは透き通った白で、凛と自信に満ちていた。不意に、その瑞々しい姿の上に、萎れて項垂うなだれた花の映像すがたが重なった。



 以前知人の結婚式で、ささやかな花束をもらって帰った。寝起きするためだけのワンルームに花瓶などないので、使っていない百円ショップのグラスに入れ、台所に置いた。


 水は毎日替えていた。なのに、ある日気がついたときには既に、花はしょんぼりと萎れていた。

 といっても、数日は綺麗に咲いていたはずだ。私が見ていなかっただけ。朝起きて会社に行って、帰ってきて寝る。オートモードで営まれる生活の中、花瓶の水は毎日替えるものという無機質な責任感のもと、それを見もせずに水を替えていた。


 くったりと地を向いた花は茶色くなって、グラスから引き上げたらパリっと音を立てて葉が一枚落ちた。



 そんなことが思い出されて。差し出された一輪から、私は目を背けた。


「……どうせすぐ、枯れちゃいますよね」

「え?」


 お花屋さんの彼が、小さく驚いたような声を上げる。なんて嫌な客なんだろう、お金を払っていないから客ですらないか。他人事のようにそう思う。

 視線を斜め下に向けると、駅構内のざらりと黒っぽい石質の床が目に入った。まるで独り言のように、私はそこにぽとりと言葉を落とした。


「永遠に咲く花があったらいいのに」


 何の音もしないみたいに、後ろでざわざわと人の波が通り過ぎていく。少しずつ、私は日々暮らしている世界のことを思い出した。もう一度謝って、花は断って、さっさと帰ろう。



 目の前の人にはどれだけ嫌な顔をされているだろうと、意を決して顔を上げた。そこには、まだ、暖かい色の微笑みをたたえたお花屋さんがいた。


「切り取りたいと思う一瞬があったなら、それは永遠なんですよ」


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