027: 居所

 千織は昔から天才的だった。

 幼少の頃に興味だけで挑んだプログラミングの大会で優勝して以来、メディアのインタビューを受けたり企業の見学をさせてもらったり、大勢の大人たちにちやほやともてはやされた。

 しかし、そのことが家族の関係を歪にしてしまった。

 千織には兄がいた。全く取り柄のない、ただ優しいだけの青年だった。早々と勉学の道を諦めて、フリーターとして色々な職場を転々としていた。

 千織という宝を手にした親は、そんな兄を徹底的に否定した。優しさが災いしてか、人間関係に悩まされて兄が職場を移す度、親は兄を根性が無いなどと言って責め立てた。

 無職になっていないだけましの、家族の荷物。兄に対する評価はこんなもんだった。

 兄への罵倒は千織の心も追い詰めた。兄のように親から見放されたくないという一心で、千織は必死の思いで勉強した。

 兄のようになりたくない。いつしか千織も親と同じように、兄のことを見下すようになっていた。


 千織と兄は同じ家に暮らしていたが、顔を合わせることは滅多になかった。兄はすぐに自室へ籠ってしまうからだ。

 だからあの雷雨の夜、久しぶりに兄と言葉を交わしたあのときのことを、千織はよく覚えている。

 眠りが深い千織ですら、途中で起きてしまうような激しい雷だった。閃光から音が鳴るまでの間隔を数え、落雷地点からここまでの距離を推定する遊びをするのも、心細くなるような荒れ模様だった。

 千織は仕方なく布団から這い出て、本を片手にリビングへと降りた。お菓子でも食べながら本を読もうと思ったのだ。

 しかしリビングには先客がいた。黒々としたグランドピアノに手を添わせる兄の姿が、稲光に照らし出されていた。

 誰かが来たことに気が付いた兄は、振り返って困ったような顔をした。そして迷いを見せつつ、穏やかな声色で言った。


「千織も起きてきたん?」


 予想外の邪魔者に不服そうな顔をしながらも、千織はこくりと頷いた。そしてずっとピアノに触れたままの兄の手をちらりと見た。

 兄はピアノを弾くのが好きだった。しかしそれも、千織の勉強の邪魔になるからと親に厳しく制限されていた。

 それにピアノも千織のほうが上手かった。小学校に入学する頃には既にバッハの練習曲を一通りこなし、高学年ではショパンのエチュードを軽々弾きこなした。

 それでも、兄の音色のほうが暖かかった。千織にとっては、ピアノの鍵盤もパソコンのキーボードも同じだった。


「兄さんは?」


 雷に照らされる兄の顔を見つめて、千織は小さく尋ねた。兄はまた困ったような微笑をして、内緒話をするようにひそひそと答えた。


「今ならピアノを弾いてもバレへんかと思て」


 それを聞いた千織は頷いて、絨毯の上にぺたんと座って言った。


「ええんちゃう。俺も久々に兄さんのピアノを聞きたい」


 肯定されたというのに、兄はますます困り顔をした。しかしピアノの蓋を開けるころには、穏やかな笑みになっていた。

 鍵盤を覆う布を丁寧に畳み、兄は椅子にそっと腰掛けた。鍵盤の上に手を置いて、確かめるようにミの音をか細く鳴らした。

 兄が奏で始めたのは、ベードーヴェンの月光第一楽章だった。

 千織は第三楽章しか弾いたことがなかった。技巧を誇示するような弾き方しか知らなかったからだ。

 しかし兄の月光第一楽章は、単調な指運びの中に秘められた、悲痛な叫びが伝わってくるかのようだった。

 月光と呼ばれるこの楽曲は、既に聴力を失いつつあったベートーヴェンが身分違いの恋をした相手に捧げた曲だ。

 雷鳴に紛れた兄の演奏は、自分のことも愛してほしい、諦念に塗れた自分でも居ていい場所が欲しいと叫んでいた。

 最後、その音はだんだんとため息のように掠れ、兄の指は名残惜しそうに鍵盤からゆっくりと離れた。


「全楽章弾けたらええんやけどな」


 振り向いた兄はそう言って申し訳なさそうに笑った。すっかり染みついてしまっているかのように、諦めが自然と滲んだ笑顔だった。


「第三楽章もすぐ弾けるようになるで。誰だって練習すれば」


 千織はかしこぶってそう言った。兄は目を伏せて、ピアノの蓋を静かに閉じた。


「俺には無理や」


 いつの間にか雷雨は止み、うっすらと月光がカーテンの隙間から漏れていた。

 その後千織は兄に言われるがままに寝室へと戻り、結局読めなかった本を枕元に置いて寝た。自分がこの家を出れば、兄は自由にピアノを弾けるようになるだろうかと考えながら。


 やがて千織はアメリカへ渡ることとなった。忙しい家族に配慮して見送りは要らないと言ったが、兄だけは空港まで付いてきてくれた。

 チェックイン機を操作し、スーツケースを手荷物預け機の中に放り込んだ。そして搭乗券を片手に保安検査場へ向かう千織を、兄は寂しそうな顔で見送った。

 最後に交わしたのは簡単な挨拶だけだった。それだけでいいと思っていた。

 半年後、兄が事件を起こしたと親から連絡があった。そのとき初めて、兄が精神的に追い詰められていたことを知った。

 十数人を巻き込んだテロ事件に対して、当然加害者家族を責める声も多く上がった。

 日本に帰ってこない方が良いと親から言われた千織は、アメリカでたった一人暮らし続けるしかなかった。

 そんな折、ドクターから連絡があった。


『我々は事件によって心の傷を負った者を同胞とし、そういった事件を無くすための研究を続けている。君も巻き込まれた者だ。我々と共に来てくれないか?』


 その誘いは孤独に押しつぶされそうだった千織にとって、蜘蛛の糸のようだった。

 彼らの仲間として『SoL』の開発に参加し、数年が経った頃、マガミからカナギのことを聞いた。

 兄の事件に巻き込まれ、片目を失ったために剣道の道を諦めた青年。

 自分が彼を救わなければと、千織は強く思った。兄を追い詰めた自分の才能で彼を救うことができれば、それが贖罪になると信じた。

 だからだろうか。彼を目の前にすると千織の心は波立った。

 『SoL』の中で、センリの力を制御するのが難しくなるほどに。

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