6
中島はぱっと手を離した。
自分のやったことが信じられないとでもいうように
あたしは、それが悪魔の声だと気づいていた。
中島の目がそれた一瞬の隙に踵をかえし、階段を駆け下りる。
「ゆ、結城! 明日の放課後、数学準備室に来い。必ずな!」
その声までも黴菌が含まれているようで、あたしは両手で耳をふさいだ。
昇降口まで一気に駆けた。下駄箱の前で足をとめ、耐えきれずにうつむいた。視界が涙で滲み、熱いものが頬を伝ってゆく。
(汚ない。汚ない。汚ない汚ない汚ない――)
涙を拭こうにも、中島に汚染された手を使う気にはなれなかった。肩口でぐいっと目元をぬぐい、顔を上げたところで、あたしはぎくりと立ち竦んだ。
下駄箱前に悪魔が佇んでいたのだ。
陽光が燦々と差し込む中で、悪魔のまわりだけが切り取ったように黒ずんで見えた。
その顔はひどく青ざめ、すさんでいた。目元には影が落ち、灰色の瞳は濁って見える。昇降口一帯は聖書の物語のレリーフが施され、まるで聖堂のようなのだ。きっと苦しいのだろう。
身体を乗っ取られた恐怖と怒りが込み上げたが、憔悴しきった悪魔の姿を見ていると、猛々しい感情はたちどころに萎えていった。
自分の姿と重なり、泣きたくなった。
「……つらいんでしょ。行っていいから」
悪魔はうつろな目をゆらりとあたしに向けた。長い睫毛が力なく伏せられると同時に、悪魔の姿はかき消えた。
どっしりとした疲れだけが残った。
(……帰ろう)
無断の早退になってしまうことが一瞬あたまをよぎったが、もうどうでもよかった。何も考えたくない。
帰ってすぐにシャワーを浴びるのだ。早くしないと黴菌が――。
じわじわと、蝕まれてしまう。
のろりと下駄箱前のすのこに足を踏み出したところで、あっと立ちすくんだ。
お母さんがいる。
まだ出勤前の時刻だった。こんな時間に帰ったらびっくりさせてしまう。そして理由を聞かれるだろう。
何を言ってごまかそうが、きっと心配をかけてしまう。
そう思う一方で、母に会いたくてたまらなかった。具合が悪くて早退したと言えばきっと心配してくれる。もしかしたら、仕事を休んで一日そばにいてくれるかもしれない。
(……だめ。そんなことさせられない)
あたしはうつむいた。
校門を出て、なんとなく家とは反対方向に歩いていると、小さな公園をみつけた。
二組の母子が砂場のまわりに集っている。ふらふらとおぼつかない足取りで公園に入ってきたあたしを、母親二人が驚いたように見た。
あたしはそれを正面からまともに見返した。自分の母と重ねて、ついじっと見入ってしまったのだ。すると母たちは子供を連れてそそくさと公園から去ってしまった。
こんな午前中に制服姿で外をうろついているのだ。学校をさぼるような素行の良くない学生に見えのかもしれない。
(髪、茶色いしな……)
そんなことを思って、落ち込んだ。気持ちがどんどん沈んでゆく。
親に守ってもらえるあの子たちがうらやましかった。同時に、守ってもらえなかった幼い日々が脳裏をよぎる。同級生からの嫌がらせや、大人の男からちょっかい出されたこと――。
――もう過ぎたことだ。
ぎゅっと目をつむり、そう自分に言い聞かせる。
取り巻く敵と、ずっとひとりで戦ってきた。母を煩わせることはできなかったから。
(いいんだ。あたしは守ってもらえなくっても。自分の身は自分で守ればいい)
それに、あと数年で大人の仲間入りだ。そしたら、あたし自身が母を守れるようになれる。
そのためには、お金と社会的立場が必要だ。勉強という手段だけが、道を切り開いてくれるのだ。
(……頑張らなきゃ)
受験のことを考えると、たちどころに脳が切り替わり、冷静になれるのが良い。
中島につかまれた二の腕を眺め見た。これだって、ちょっと触られただけ。たいしたことではないのだ――心の中で何度もそう繰り返しながら、水飲み場に向かった。
蛇口を最大に開き、水流をうちつける。腕はたちどころに赤みを帯び、しばらくすると痛みを通り越して感覚がなくなっていった。
水道をとめ、真っ赤になった腕をぼんやりと見つめた。肘を屈伸すると、刺すような疼痛が走った。
(……これからどうしよう)
喉から熱いものが込み上げ、ぽたりと涙が乾いた土に吸い込まれていった。
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