第6話 溺れる手が掴んだもの
当て所もなく走って迷った挙句、靴は失くすし、髪飾りは落とすし、涙でメイクはぼろぼろだし、小雨は降りだすし……もう、最悪。
遠く聞こえる夜会の賑わいに背を向けて、私は裏庭と思われる場所の古びたベンチに腰掛けた。夢中で走っていた時は分からなかったけど、素足で走っていたため、タイツが裂けて足の裏から血が出ている。
今頃になってジンジンと痛み出す足を投げ出して、
寒さに凍えながら休んでいると、草を踏み締めてこちらに近付く足音が聞こえてきた。こんな姿誰にも見られたくはなかったけれど、冷え切った身体は鉛のように重くて、気力が減退している今は特に億劫だった。どうせ、私は淑女じゃない。遠巻きに嘲笑われるような存在だ。見られたって面白おかしい噂がひとつ増えるだけだろう。
そのまま動かずに居ると、人の気配が私の目の前で足を止めた。
風に乗って
瞼を開いて答え合わせをしようとすると、彼は掌で私の眼を塞ぐ。ぼやけた視界に木漏れ日のような新緑色の光が差して、痛みが引いていくのが分かった。パンパンに腫れた私の瞼を見かねて、治療魔法をかけてくれたようだ。違和感が無くなったので、もう大丈夫だと彼の手を退けようとすると、今度は頭からコートを被せられた。
「アーサー……様、なんでしょう? どうしてここに? 貴方、今夜は不参加のはずでしょう?」
未練を自覚した時から、私はアーサーが参加する夜会を徹底的に避けて来た。今夜も事前に参加者リストを入手して、アーサーの名前が無いことを確認したはずなのに。
コートの中でモゾモゾ動いて、顔を出せるところ探していたけど、続くアーサーの返事に顔が出せなくなってしまった。
「そのまま被ってろ。瞼は治ったけど、酷い顔をしている」
「だ、誰が酷い顔ですっ……んっ、ちょっと!? どこ触ってんのよ!」
足首を掴まれ、足裏を撫でられている。手袋をはめているのが余計にくすぐったくて、堪らず笑いが込み上げる。これって最早拷問じゃないの!? 羞恥とくすぐったさにコートに顔を埋めたままぷるぷる悶絶する私はさぞ滑稽だろう。アーサーの忍び笑う声が聞こえる。いっそ、殺しなさいよもう!
「なぁ、アビー。ガードナー卿とはどういう関係なんだ?」
「……え? 貴方には関けっ……なっ……ふっ、あはははは! くすぐるの、やめ、てよ!」
「くすぐってないよ。俺は真面目に治療してる」
「や、いや、嘘よ、ひゃっあははははは! もう、や、やめて〜!」
「笑ってないで、質問に答えろ」
ちょっと待って。これ本当に拷問になってるじゃないの。
無理やり口を割られそうになって、慌ててコートから顔を出すと、アーサーは私の前に跪いて思いの外真剣な表情で私を見上げていた。治療が終わっても足首を掴まれたままなのは、答えるまで逃さないってことかしら?
「あ、足を治してくれたことには感謝してる。ありがとう。……だけどもう、私たちはなんの関係もないでしょう? 我が家の事情は話せないわ」
「君の家の事情? まさか、あいつに金を借りたのか?」
「……だとしても、貴方にどうこう言う権利は無いわ」
ガードナーが私の結婚を斡旋しようとしている理由が、母の借金なのかどうかは知らない。どっちにしろ、私が売られるように嫁に出されることは変わらないし。――だけど、そんなこと、この人にだけは知られたくない。
「ねぇ、もう放して。こんなところ誰かに見られたら、貴方も酷いことを言われるわ」
事情を知らない人が今の私たちを見たら、アーサーが跪いてプロポーズしているようにしか見えない。一度破局した女に縋り付くなんて、セシル家の名に傷が付くでしょうに。付き合っていた頃と変わらないアーサーの熱い視線から眼を逸らし、私はもっともらしい理由をつけて彼を追い払おうと試みた。
けれど、私のそんな気遣いは彼を余計にイラつかせたみたいで。
「こんなところって……例えば、こんなところか?」
言うが早いか、アーサーは私の足首に口づけを落とす。私の眼を真っ直ぐに見つめたまま。
「や、あっ、なにを」
忘れたはずの青い熱情が、一瞬にして顔を駆け昇る。思わず仰け反り、コートを引き上げて顔を隠そうとしたけれど、一手遅く取り上げられてしまった。アーサーは立ち上がってベンチに片膝を着き、背もたれを掴んで私の逃げ道を塞ぐ。私を見下ろして、憎々しげに眉を顰めた。
「君はどうして困難な方へ進みたがる? こうなってもまだ、家族を取るのか? 捨てれば未来が拓けるのに」
「……捨てないわ。愛してるのよ。私を簡単に切り捨てた貴方には理解できないでしょうけど」
ごつっと額を合わせて、鼻先が触れ合う。白い吐息は絡み合うのに、互いの唇までの距離が遠い。
「捨てられないなら、なぜ『助けて』の一言が言えない? 妹たちのために我が身を犠牲にできるのなら、
「誰に縋れって言うのよ。誰も助けてくれなかった。家族のことは家族で解決しなきゃいけないからって、皆見ないふりして嘲笑っていたじゃない」
涙の跡を撫でる彼の指が、くすぐったくてもどかしい。こんな風に簡単に翻弄されて期待してしまう自分が、一番嫌い。
「少なくとも俺は、最愛を守るために奔走する君を嘲笑ったことなど一度も無い」
「でも貴方は、私との婚約を破棄した。貴方との結婚が、私の唯一の希望だったのに。あんなわけの分からない注文に従え、妹たちを見捨てろと、貴方が台無しにしたんじゃない!」
これ以上近づくのはお互いのためにならない。今更醜い思いをぶつけたって惨めなだけ。彼の胸を押して拒絶しようとしたけれど、逆に引き寄せられ強く抱きしめられてしまった。彼の熱い吐息が雨に濡れた耳朶を撫でる。
「……そうだ。君は俺のために何も捨てられなかった。俺の最愛は君だけだったのに、君にとって俺はそうではなかった。……君の最愛の妹たちは、俺から見れば憎い恋敵に過ぎない」
苦しげに吐露された告白に、私は呆然と眼を瞬いた。
まさか、妹たちに嫉妬してたって言うの?
声に出さずとも態度で問うていたようで「幻滅したか?」の彼の問いに、なんと答えればいいのか分からなかった。
「恋敵って。あ、貴方がそんな風に思ってた、だなんて、私……全然気づかなくて。だって、貴方はいつも冷静で、私ばかりが貴方のこと好きみたいで……妹離れしろって言われて、私頭が真っ白になっちゃって、貴方が何を思っていたかなんて考えられなかった。……でも、そんなの理由にならないわね」
婚約破棄を言い渡された時でさえ、私の頭の中は妹たちを守ることでいっぱいだった。そんな態度ではアーサーが私の愛情を信じられなくても仕方ない。
アーサーも私と同じように私の妹たちを大事にしてくれる。一緒に怒ってくれる。助けてくれる。拒むはずがない。という驕りがあったのだ。それは、私が彼と同じだけの思いを返せてこそ生じるものだったのに。双方の落とし所を探るでもなく、自分の要求ばかり押し付けて、相手の思いを考えなかったのは私も同じだ。
「ごめんなさい。……今更言っても手遅れでしょうけど」
「ああ、遅い。手遅れだな。君が頼れるのは、もう俺しか居なくなってしまった」
彼は抱きしめていた腕を緩めて、私の肩にコートを掛けながら断言した。
「だから言えよ。『助けて』って。俺に縋れ。――俺が全部解決してやる」
カッと頬が熱くなる。縋れ、ですって?
貴方にだけは頼りたくない。面倒な女だと思われたくない。そんなの格好悪いじゃない。私にだってプライドがある。貴方の手を借りなくても生きていけるの。貴方は縋り付くような女、大嫌いじゃない。だから、貴方の前では良い女で居たいのに。
最愛だったなんて言われたら、こんな風に抱きしめられたら、まだ間に合うのかと期待してしまうじゃない。
返答に迷って視線を逸らす私に焦れたのか、彼は私の頬を撫でて唇を指でなぞる。『縋れ』と言ったのは貴方なのに、貴方の方が懇願しているみたいよ。
至近距離で見た彼の眼は、僅かな光を集めてあやしい金色の光を返す。まるで夜闇の中に潜んで獲物を狙う猛獣のような獰猛な光。怖いのに、眼が離せない。喉がひくりと引き攣る。プライドと羞恥が鬩ぎ合って苦しい。でも、嫌じゃない。
これが、きっと最後の選択肢。選択を間違えたら全部終わってしまう。
貴方がくれたチャンス、私はまだ終わらせたくないから――私の小さなプライドなんて捨ててみせる。
「……おねがい……たすけて」
ああ、どうしよう。食べられちゃう。
その答えを待っていたとばかりに激しく重ねられる唇。まるで遥か上位の存在にゆっくりと捕食されるような、仄暗い恍惚にくらくらする。付き合っていた時でさえ、こんな激しいキスはしたことがない。絡む舌に言葉も呼吸も奪われて、涙が滲んだ。
「もう心配いらない」
囁く彼の声に頷いて、私は彼の肩に頭を預ける。安心したら、なんだか気が抜けちゃって身体が重い。頭がぼうっとする。
アーサーは私の身体を横抱きに抱えると、馬車まで運んでくれた。家の紋章が無い裕福な平民が乗るような馬車に見えたけど、内装はうちの馬車より豪華かもしれない。アーサーは私を椅子に座らせると、自分は馬車の外に出た。
「男爵夫人とガードナーに怪しまれないように、逆らわず状況に身を任せるんだ。――俺を信じて待ってろ。君の願いは全て叶う」
分かったわ。
朦朧としていたから、ちゃんと答えられたのか自信がないけれど、アーサーが笑ってくれたような気がしたから、きっと通じたのだと思う。
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