第10話 映画館

 日曜の朝の十時頃、来ていく服を決めたり髪を整えたりといった出かける準備を終え一休みをしていると、二階から姉の美里が眠い目をこすりながら降りてきた。

「ん〜…?宗二出かけんの?」

「寝ぼけ過ぎ、今日デートだって言ったじゃん」

 そう聞くと姉は急に目を見開いた。

「えっ、ちょ!そんな髪で会うの!?」

 姉は顔をしかめ、信じられないという顔をしている。

「あんたそれ、一週間くらい前に千円カットで切ってからそのままでしょ!」

「別に整ってるって」

「普通すぎない?せめてヘアワックスで固めるとかさぁー」

「使ったことないよ」

「私の貸してあげるから!休んでる時間あるならこっち来な」

 姉に言われるがままに照明の眩しい洗面台に行く。

「ちょっとそこで屈んで」

 言われたままにすると水に濡らした冷たい手で自分なりに整えた髪をグシャグシャにされた。

「ちょ、痛い痛い…!」

「あぁ…ゴメン。でもちょっと我慢して」

 水を含んだ髪の毛を重く感じてきた頃に、髪を持ち上げられそこにドライヤーの熱風を吹きかけられる。

 ドライヤーの音がひどくうるさく、姉がなにか独り言を言っているようだが「マッシュ」や「センター」といった単語しか聞き取れない。

 鏡越しに見える姉はブツブツと話しおもむろに首をかしげている。姉自身も、何をしてるのかわかっていないんじゃないのか。

 頭皮全体に満遍なく熱風を掛けられた後でようやくドライヤーが止まった。

「宗二…やっぱあんたはこの髪型でいいや」

「えぇ…」

「いやさ、最初はちゃんとかっこよくセットして上げるつもりだったんだけどね?ガッチガチにセットしたあんたを想像したらなんか異様に張り切ってるみたいであまりにもイタかった」

 あんまりじゃ無いだろうか。

「多少毛先遊ばせるぐらいなら〜ってのも思ったけど駄目だね。いつも通りでいいや」

「じゃあ…もう良い?」

「でもまあワックスはやっときな。ツヤ出るだけでも結構見映え変わってくるから」

 そう言うと姉は洗面台においてあるいくつかの化粧品の中からピンク色の容器を取り出し、中身を指ですくい自分の掌で広げた上で俺の髪を指で溶かすようにして馴染ませた。

 鏡越しに自分の髪が古いロックミュージシャンのように尖っていく様を見届けていると、姉から話しかけてきた。

「それで…相手の娘ってどんな娘なの?」

「…?急にどうしたの?」

「そりゃあそこそこ可愛い弟の初カノだし、気になっちゃうってもんよ」

「どんな娘って…それを知るためのデートだし…」

「あぁ…そっか、そういう感じだったか。でもなんか印象とかさ、特徴とかってあるの?」

 傷の事を言ってしまおうか。

 しかしそれを口にすると、姉から『顔に傷がある女性が好き』というDV予備軍の烙印を押されてしまうかもしれない。ただでさえ『節操無し』という印象が植え付けられているのに、今それを話すのは少々ためらわれる。細かい事情を話す時間もないし、ここは濁しておこう。

「…すごい綺麗な人だよ」

「え〜結局顔?」

「いやそれは…色んな細かい余地が入らないくらい綺麗だったんだよ」

「顔が綺麗だから付き合いますって何だかな〜」

「まぁ…一目惚れってやつだよ。僕には勿体ないくらいには綺麗で、自慢の彼女なんだ」

「…そう聞くと若干ロマンチックには聞こえるか。…はい、出来たよ」

 鏡を見ると、俺の黒髪は洗面台の光が反射してそれはそれはテッカテカになっていた。

「えっこれ付け過ぎじゃない!?」

「いや〜…これいつも自分がつけてる量やっちゃったっぽいわ」

 確かに姉の髪は背中の辺りまで伸び放題であり、俺の短い髪と比べ明らかに長い。しかしこれでは…。

「これ…どっちみち慣れないワックス張り切ってつけて失敗した奴じゃん…」

「あぁ…ハハハ…、ちょっともらうね…」

 姉は先程もやっていたように俺の髪に指を通し、今度は髪に付いたワックスを自分の髪に移し替えている。しかしどうにも変化が見られず、ドライヤーで乾かしたらと提案するが却下された。

「張り付いたワックスが熱でドロドロに溶けて、頭皮も髪も痛むからやめときな」

 だがもうそろそろ家を出なければいけない時間が迫っている。

「ごめん、もう行かなきゃ。バスに間に合わない」

「そっか…ゴメン、やらかした…」

「気にしないで、案外すぐに乾くかもだし」

「ならいいけど…」

 俺はリビングにあるリュックの中身をもう一度確認する。

「財布…ある、念の為入れてた学生証も…ある」

「えっ、そんなに大きなリュックで行くの!?デートって映画館だよね?」

「映画の後にお昼にしようと思ってて、それ用だよ」

 確認を終え玄関に向かう。

「いってきます!」

「いってらっしゃーい、何入ってんだろ…あの中身」

 映画館まではバスで向かった。途中車内でスマホの内カメを使って髪を確認すると、外からの日光が反射して黒いヘルメットを被っているように見える。見回してみると、同乗している他の乗客の目線が痛い。

「着くまで後十分ぐらいか…。乾かないよなぁ…」

 バスの窓にワックスがつかないよう少し前かがみになる。軽く髪を触るが、触った指にそこまでのベタつきは感じない。


 そうこうしているうちにバスが映画館近くに着く。降りて歩いていくうちに映画館が見え、入口の柱の側でマスクをした女性の姿も見えてきた。

 シンプルなアウターと濃い紺色のジーンズから、カジュアルな印象を受ける。

「おっ…おはよう、関口さん。…待たせた?」

「あぁ、おはよう斑目くん。全然、ついさっき来たばかり」

「早いね。正直俺が先に着いてると思ってた」

「お母さんに映画見に行くって言ったら、買い物ついでに送ってくれたの」

「それは…良かった」

 ぎこちない笑顔を作り、会話を続ける。

 「待った?」からの「今来たばかり!」という恋愛ドラマだったりで何十回も聞いたであろうテンプレのセリフだったが、実際に自分が言って言われての立場になると一つの感動というものがあった。

 世のカップルも、このように恋愛ドラマをなぞる形でより深い仲になっていくんだろう。

「ところで斑目くん…頭どうしたの?」

「あっ、これ!?いや実は今日の朝起きてきた姉さんが―――」

 つい二十分ほど前の出来事について事細かに伝える。

「―――って事なんだ…」

「そうだったんだ。でもまあ…オシャレっぽくは見えるしいいんじゃない?」

「『オシャレっぽい』の?『オシャレ』じゃなくて?」

「そう、『オシャレっぽい』」

 フフッと笑う関口さんを見て、小さくとも話題の一つができたことでこの髪になった事もそう悪くない事に思えた。

「ちょっと早いけど、先にチケット取っちゃおうか」

 そうだねと返した関口さんと共に、二人並んで映画館に入る。中は赤いカーペットが敷き詰められ、所々が間接照明で温かな光を放っていた。

 券売機まで行き、『三度目のプロポーズ』の空いてる席を確認する。上映直前であっても大半が空席ではあったが、こういう場合予約を取るのが常識だろうか。

 もし仮に二つ並んだ席、いや関口さんの傷を考えれば四つ以上並んだ空席が見つからなかった場合、俺達二人は離れ離れの席で映画を見ることになり、何のために二人で来たのかわからなくなるところだった。

 次また機会があるならば変な博打は打たず、お互いに相談をした上で予約しておこう。

「ここなんかいいんじゃない?」

 俺は席が内側にあり、埋まった席が列の端までいない、比較的後ろ側の席を指差した。ここならば理想的だろう。

 しかし関口さんは首を横に振り、一番右端で最後尾の席を指差した。

「ここ…?すごいスクリーンから遠いし、結構な斜めから見ることになるけどいいの?」

 うんうんと頷く彼女を確認し、タッチパネルで端っこの席を押す。先に買った俺は『J-21』、次にお金を入れた彼女は『J-20』だった。

 ジジーッと音を出しチケットが出てきたのを確認し、ポップコーンと飲み物を買いに行く。中々の列ができており、黙って待っていると金曜の姉の忠告が頭をよぎり会話を切り出す。

「朝比奈さんは…ポップコーン、塩かキャラメルどっちにするの?」

「私は塩かな。シンプルなのが好きなの」

「俺も塩だね。俺はポップコーン食べてしょっぱくなった口の中を、甘いコーラでリセットするのが好きなんだ」

「いや、私飲み物は甘いの頼まないかな」

「えっ、じゃあ何飲むの?」

「烏龍茶」

「シンプル過ぎない!?」

「コーラとかだと結局口の中が甘いままでリセットできないから。私そこが嫌なの」

「俺はそこからポップコーン食べて、無限に甘いのとしょっぱいのをループするのが好きなんだけどなぁ」

「合わないねー、私達」

「俺の方はだいぶオーソドックスな方だと思うよ…?」

 そんなぼちぼちとした会話をしていたら、列が進み俺達の順番がやってきた。関口さんは本当に烏龍茶とポップコーンの組み合わせを頼んでいた。

 ポップコーンと飲み物の乗ったプラスチックのトレーを抱え、ゲートにいる係員さんにチケットを見せる。

 案内された劇場はまだ明るく、中のお客さんは僕らと同じくらいの年頃の女子たちが多く目立った。恋愛映画だし同然ではあるか。

 誘導灯の埋め込まれた階段を登り、一番上まで上がる。チケットに書かれた席に座ろうという時、関口さんから話しかけられた。

「斑目くん、良かったらだけど席変わってくれない?」

 断っておくと、俺が『J-21』で彼女が『J-20』、本来なら関口さんのほうが内側の席となる。少しでも正面からスクリーンを見たい俺からすれば願ってもないこの申し出に、二つ返事でOKを出す。

 椅子に座る前に、背もたれにヘアワックスが移らないようティッシュで後頭部を軽く拭いておいた。

「…やっぱりベタベタするの?その髪」

「いや、触ってみた感じそこまでかな。まぁ念の為にね」

 話の流れでつい「触ってみる?」と言いかけたが、危ないところだった。断られようものなら俺の脆弱なメンタルは破壊されていただろう。

 座ることにより出来た椅子の下のスペースに背負ってきたリュックを押し込む。

 二人並んで席につき、上映が始まるまで座って待つ。隣り合って座っているためかつてないほどまでに距離が近づき、俺の中で緊張が走る。どこかから「なんでもいいから会話をしろ」と姉に命令された気がした。

「…ところで、何で席変わってくれたの?」

「ん?何でって…そのほうが都合がいいから」

「都合?」

 意外な一言に聞き返す。

「斑目くんが外側に座ったら、映画見てる斑目くんの視界に私が入るでしょ」

「あぁ、そういう…」

 余程彼女は顔が見られるのが怖いのだろう。だが確かにこの場所は理想的かも知れない。軽く見渡してそう思う。

 無論他のお客さんは全員スクリーンを向いてるわけで、隣が壁と俺の体で挟まれていれば万に一つも横から覗かれる可能性は無いだろう。肝心の僕自身は左前の方向にスクリーンがあり、映画に集中さえすれば最後まで右に目線をやる事なくデートを終える事が出来る。

 関口さんからすれば紛れもなく理想的な位置だ。

 そうこうしている内に劇場はやや暗くなり、地域のコマーシャルや上映予定作品の告知がされる時間になった。

 退屈な時間ではあるが、映画と同じように大音量で流れているため会話も繋げず、俺達二人はただ待っていた。

 本当なら軽く顔を見合わせ「この映画が楽しみなんだ」といった軽い会話でも出来ればよかったのだが、スクリーンを見ている内に隣の関口さんが既にマスクを外しているかもしれないと思い、話すに話せなかった。

 しばらくして広告等が終わり、劇場は一気に暗くなった。階段の誘導灯と、非常用出口の緑のランプだけが見える。

 映画の制作会社のロゴが映し出され今まさに始まるといった沈黙の中で、右の方からボソっと声が聞こえた。

「隣、見ちゃダメだからね」

 ガサガサと紙製の何かをしまう音が聞こえ、僕は前に見えるスクリーンにより集中した。

「…もちろん」

 ついに始まった映画自体は、凄くシンプルなものだった。

 主人公とヒロインの幼少期から始まり、主人公からヒロインに向けてのごっこ遊びによるプロポーズから十年後に高校生の時期に移る。好意を自覚した主人公の告白に対し、ヒロインは幼少期のごっこ遊びとは違いNOを出す。その後にヒロインが病により亡くなることを知った主人公が…といった作品。

 開始二十分ほどでタイトルの『三回目のプロポーズ』から今後の展開が透けて見え、俺の思考は残りの一時間余りをどう耐え抜くかに変わっていた。

 恋愛ものが嫌いというわけでは無かった。姉や母さんがリビングで恋愛もののドラマや映画を見ているのを、スマホを触りながらではあったが一緒に楽しんでいたとは思う。しかしこれだけに集中するというのはどうも辛く感じる。

 高校生の役を二十代半ばの俳優が演じ、リアルで言ったら違和感を感じずにはいられないセリフを真面目な顔で淡々と話している。話の展開も回りくどく、登場人物の行動一つ一つに疑問が付きまとっていた。

 こういうのは見慣れていく内に気にならなくなるのだろうが、俺はこういった物を頻繁には見ず、映画館という空間は当たり前だがスクリーンにしか興味の唆られる対象が無い。

 隣に好きな人が座っている空間がこんなにも虚無に感じるとは思わなかった。結局この映画は俺の予想を大きく外れることはなく、病院のベッドで腰掛けるヒロインに向かい主人公がプロポーズをする事により話の展開は最高潮を迎え、「いなくなってしまった彼女は今でも僕の心に生きている」の一言で締めくくられた。

 エンドロールを終え、劇場は明るさを取り戻した。

 長い間同じ体勢でいたせいか、腰のあたりが痛む。軽く体を伸ばしていると、前の方でハンカチを持った女性が目元を抑え大泣きをしていた。涙脆い人もいるものだと思いつつも、トレーを持って階段を降りようとする。

 「じゃあ行こうか」と関口さんに声をかけた。

 「そうだね」と返した関口さんの声はどこか鼻声に聞こえ、目元をよく観察すると少しばかり腫れており心の中で驚いてしまった。

 俺が楽しめなかっただけで、この映画自体は凄く質の良いものだったのかも知れない。

「…なんでそんな見てるの」

「あっ、いやこれは…!」

「もう…早く行きましょう」

 正直、泣いていたかの確認のつもりがつい見惚れてしまっていたのだが、こんなキザっぽい事実を関口さんに気取られずに済んでホッとしている。

 映画館を出てから、お昼はどうするのかと聞かれた。

「ここから歩いて行ける距離にお昼をとろうと思ってる場所があるから、そこに行こう」

 俺は姉の言う通り、先程の映画の感想についてお互いに述べながら歩いた。

 両者の間で語る感想に熱量の差を感じさせない様、注意深く言葉を選んだ。

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