第9話「その罪の名前」
11月1日。それは、学内演劇主演投票の結果発表の翌日のことだった。カトリックの教えをカリキュラムに取り入れた私立山手清花女子学院では、昨日まで校内を彩っていたハロウィンの装飾を片付ける日になっていた。
放課後、クラスで出た廃棄物を詰めたゴミ袋を手に樹里亜がゴミ捨て場へやってくると、そこには水景の姿があった。橙色の南瓜の残骸がゴミ袋越しに透けて見える様子を、彼女はぼんやりと眺めていた。
「……波止場先輩、こんにちは」
樹里亜に声をかけられて、水景はようやく顔を上げた。
「ああ、樹里亜ちゃん。こんにちは」
樹里亜は手に持っていたゴミ袋をゴミ山の上に積むと、近くの水道で手を洗う。水景もそれに倣って手を洗った。
「主役……なれなかったな」
水景の独り言に、樹里亜は一瞬動きを止めた。すぐに蛇口を閉め、ハンカチで手を拭く。
「わたしも主役にはなれなかったですよ」
「でも、樹里亜ちゃんは最初から主役狙いじゃなかったじゃん」
樹里亜が必死に捻り出した慰めは一蹴される。
「わたしの望みは、主役の波止場先輩と共演することでした。それも叶わなかったので……願いが叶わなかった者同士という点では、一緒ですね」
「そう……俺はどうしてれおなちゃんに負けたのかな」
「さあ……わたしは絶対、波止場先輩の方が舞台上で輝けるって思いますけど」
「……」
頑なに水景を肯定し続ける樹里亜に、弱った水景はぐらついた。
「……樹里亜ちゃん。明日、空いてる?」
「え? 明日は土曜日だから、部活の日じゃ……」
「明日は死者の日のミサだから、部活はないよ。ミサも自由参加だし、参加しない人にとっては休みの日」
「そうだったんですね。じゃあ空いてます」
「明日、打ち上げでもしよっか」
それは遠回しなデートのお誘いだった。樹里亜は想い人の波止場先輩がようやく自分を見てくれたのだ、と喜びで顔を赤くしながら微笑み返す。
「はい、ぜひ!」
***
時は遡ること数時間前。いつものように学食にやってきた水景と七夏は、食券の列に並んだ際の妙な空気に気がついた。
「七夏、俺の顔に何かついてる?」
「綺麗なお顔がついてるかな〜」
「冗談でも嬉しいけど違う。そうじゃなくて……」
「察しなよ。昨日の今日でしょ?」
七夏が突き放すと、鈍感な水景はようやく察することができた。つまり華やかでよく目立つ「絵になる二人」が揃って主演ならず、という結果を受けて噂話されているのだ。
「……どうする? やっぱり学食やめて購買に……」
「今更めんどくさいからいい」
怯む水景をよそに、七夏はいつも通り注文を済ませる。
今までずっと――城ケ崎碧の居なくなった山手清花の中では――最も人気があり、ちやほやされてきた水景は、落胆や憐れみの感情を向けられることに慣れていなかった。その点、芸能界を去る際に散々陰口を投げかけられてきた七夏の方が強かだった。
周りが勝手に距離をとってくれるので、七夏が進む道は開く。さながら十戒を唱えたモーゼのような光景だった。遠慮なく開かれた道を進み、七夏は
「水景は食べないの?」
「あ、食べる……」
七夏に急かされて水景は本日の定食Aを注文し、慌てて七夏の前に座った。
「激辛担々麺おいしー」
平常運転を貫く七夏を見て、周囲の噂好きの少女たちも各々の雑談に話題を戻したようだった。水景は少しの安寧を得て、食事に取りかかる。
しばらく無言が続いた。食べるのが早い水景が先に箸を置き、正面に座す銀髪の幼馴染の顔色を伺いながら切り出す。
「……あのさ、七夏。明日って休みじゃん?」
「んー? そうだねぇ」
「あの、結果も出てひと段落って感じだし……どこか出掛けに行かない?」
七夏はマイペースにれんげで激辛スープを啜り、さらりと返した。
「めんどくさいからやだ」
***
通学鞄を手に淑乃が下駄箱へやってくると、ちょうどれおなと出くわした。出方を間違うとぎくしゃくするのが目に見えていたれおなは、少し食い気味に挨拶を投げかけた。
「川嶋さんごきげんよう!」
「あっ……ええ、ごきげんよう、磐井さん」
「今から帰るところ?」
「ええ……あの、磐井さんも? よかったら一緒に帰りませんこと?」
「およ? 川嶋さんって車送迎じゃなかったっけ?」
「……ええ、まあ、そうですわね……」
淑乃は上手な言葉が見つからずに濁す。
(私とお話ししたかったのかな? でも今日は予定があるからなー)
れおなはなんとなく淑乃の心情を読み取るが、だからといって彼女の求める返しはできなかった。
「あの……磐井さん。明日なんですけれど……磐井さんは、なにかご予定がありますの?」
「明日? 磐井は死者の日のミサは不参加だから、お休みかな〜」
「えっと……一時間だけ! ……一時間だけ磐井さんのお時間、わたくしにいただけませんか……?」
「うん? 何時とか時間指定ある?」
「午前11時から12時まで。いかがかしら……」
「いいよ。どこで待ち合わせする?」
「磐井さんのお店の前でもよろしくて?」
「わかった」
無事に約束を取り付けると、淑乃は安堵のため息をつき、軽くお辞儀をしてその場を去った。
れおなは淑乃の後ろ姿が見えなくなるのを確認し、校門とは反対方向へ急いだ。手入れされなくなって久しい木々の生い茂る小道を抜け、廃教会へ辿りつく。
教会の扉をノックすると、中からジュリが現れた。
「ごめん、待った?」
「俺も今来たとこ」
「それって気遣い屋の台詞じゃん」
「着替えがあるんだからそんなに早いわけないだろ! いいから中に入りなよ、れおな先輩」
ジュリに腕を引っ張られて、れおなは教会の中へ入る。後ろ手に扉を閉め、ジュリに連れられて喫茶室に入った。明るい照明に彩られた喫茶室の中は少し肌寒い季節になってきた。今日からカーディガンを着て登校してきたれおなは袖を少し引っ張って暖をとる。その様子を見て、ジュリはひざ掛けを差し出した。
「今日のれおな先輩の席はそっちね」
ジュリは部員側の席に座り、れおなはその隣に座る。穏やかなレコードの音が心地よい。
「あ、一応やっておこうかな」
取ってつけたようにジュリは言い、れおなに向き合った。
「ようこそ、喫茶ベラドンナへ」
今日のシフトはジュリで、客人はれおなだった。
「お客様の気分はどう? れおな先輩」
「……なんか秘密の逢引みたいだね」
「逢引て! 表現古めかしいよ」
ジュリはバシバシと膝を叩いて笑う。
「うるさいなぁ」
「ごめんって。ほら、メニュー表ですよ~」
「いらない。マスカット&金木犀ね」
「了解。お菓子を出すのだ」
「その言い方、私以外の人にやっちゃダメだよ?」
「れおな先輩にはいいんだ? やった」
「あ~通じない……ほんと調子狂うんだから。はいお菓子はこれね」
れおなはテーブルの上に包みを出す。
「これなに?」
「抹茶カステラ」
「初めて食べるやつだ!」
「老舗の和菓子屋で有名なんだけどね。……その、ジュリくんが食べたことなさそうなものにしてあげようと思って……感謝したら?」
れおなが熱くなる顔を逸らして言うと、ジュリは心底嬉しそうな笑顔を見せる。
「嬉しい! ありがとうれおな先輩!」
「さっさと支度してきなさい」
「はーい!」
ジュリが抹茶カステラを手に退室すると、れおなはスマホを取り出す。
(忘れないうちに川嶋さんとの予定書いておかないとね。11月2日土曜日の11時から12時……っと)
スケジュールアプリに淑乃との予定を入力すると、ちょうど初瀬からも返信があった。
『連絡ありがとう。その時間に現地集合だね。じゃあ後で』
れおなは『よろしくお願いします』のスタンプを送信し、スマホをポケットに戻す。
「お待たせれおな先輩!」
ティーセットを手に戻ってきたジュリはテーブルにポットとカップを並べ、カステラの皿を置く。
「お手並み拝見」
れおなは湯気の立ちのぼるティーカップを手に取り、香りを楽しむ。それから少し息を吹きかけて冷まし、ひと口飲んだ。
「合格」
「やった! 俺も飲ーもうっと!」
上機嫌でジュリも紅茶を口に含む。
「我ながら美味しい! 実はこれ初めて飲む茶葉なんだよね」
「それはよかった。カステラもお食べ」
れおなに促されてジュリは抹茶カステラにフォークを刺した。
「これ好きな味かも! マスカット&金木犀が和風のお菓子に合うとはね~」
「それは紅茶のパッケージの裏面に書いてあるから……」
「親切だなぁ。こしあんの和菓子にも合うって書いてあるよ?」
「それはまた今度ね」
「楽しみにしてま~す」
ジュリは不意にれおなの皿からカステラをひと口分に切り取り、フォークを差し出した。
「れおな先輩、あーん」
動揺を隠しきれず、れおなは無意味に左右をきょろきょろを見るような仕草をした。
「誰も見てないに決まってんじゃん」
「っ……ジュリくんってそういうことするよね」
観念してれおなは差し出されたひと口をぱくりと食べる。
「美味しい?」
「まあね……」
紅茶で口の中の油分を流してから、れおなは言う。
「ジュリくんてさ、私と付き合ってる気分になってない?」
「いやいや。片想いのフワフワした気分を楽しんでるところだよ。そう言うれおな先輩はどうなの? 俺のこと、好きになってくれた?」
ジュリはれおなの目を覗き込む。女性の背丈でも座高が高くなるように、部員側の椅子は少し脚が長いので自然と上から屈まれる格好になる。
「完全に信用したわけじゃないし……」
「えーっ! なんでなんで? 俺ってそんなにチャラそうに見える?」
「見た目だけならかなりそう見える」
「ガーン……」
ジュリは落ち込んで項垂れる。
「いきなりキスしてとか迫ってきたのが未だに響いているというか……」
「それ、そんなに減点だった……?」
「そりゃそうでしょ」
あまりに落胆した声色のジュリを見ると、れおなとしてもやや罪悪感があった。
(嫌いとかじゃないんだけど、グイグイ迫られて流されるとかちょっと自分が許せなくなりそうだし……)
れおなが必要以上に頑なになるのは、意地を張っているせいだった。
「……ジュリくんのこと嫌いってわけじゃなくて……嫌いだったらわざわざ予約したりしないし……」
れおながフォローを始めると、ジュリはスンと立ち直った。
「確かに。じゃあなんで来てくれたの?」
「ちゃんと交流しないと、ジュリくんがどんな人か分からないから。一回デートしただけじゃ、相手のこと深く知るのは難しいでしょ?」
「そっか……前向きに検討はしてくれてるんだ」
「だから今日結論を出せって言われても無理だよ〜」
れおなはポットから二杯目の紅茶を注ぐ。
「あっ、言ってくれたら俺が入れてあげたのに」
「このくらいできます〜」
「お客様に手酌させるのは……」
「お酒じゃないんだから! ふふ……」
「ねぇ、れおな先輩。明日もデートしようよ」
「また? 先週も行ったのに」
「俺のこともっと知ってほしいし、好きになってほしいし、れおな先輩と一緒に居たいんだよ。ダメ?」
「まあ……いいけど。午後からでもいい?」
「12時くらい?」
「12時半くらいかな。どう?」
「やった!」
ジュリはれおなに午前中の予定があることも気づかず、ただ無邪気にはしゃいでいる。
「じゃあメモしとこ。12:30に予定あり、と……」
ジュリはテーブルと壁の隙間に隠していたらしいノートに明日のデートの予定を書く。
「それなに?」
「樹里亜との交換ノート。大事な予定があるときはここに書いておく決まりなんだ」
「ああ、記憶を共有できないから?」
「そゆこと。れおな先輩とのデートって書くと不審がられるから、ぼかした書き方にはなるけど」
「賢明な判断だ。ジュリくんもおかわりいる?」
「お願いします」
これじゃ立場逆転だな〜、と茶化しながられおなはジュリのカップに紅茶を注いだ。
「れおな先輩的には、どこまでOKなわけ?」
「なにが?」
「手を繋ぐのは……いいんでしょ?」
ジュリはれおなの手をそっと握る。それは先日のデートでも受け入れた行為だった。
「どこまでならいいのかって許可とるの、なんか不純だよねー」
「えぇ!? どういうことだよ……」
「『どこまでが浮気じゃないですか』って聞くのって、浮気しますけどいいですかって宣言みたいじゃん」
「俺はそんな浮気野郎じゃないよ!」
ジュリの目は真剣だった。
(そんなことは分かってるんだよ、ジュリくん。決心がついてないのは私だけなのかもね)
二人の間には、しばし沈黙の時が流れる。一時間が過ぎるのは早い。無言のままで居れば、制限時間は訪れてしまうだろう。
「……れおな先輩。リボンの誓いって、知ってる?」
それは学園の中で過ごしていれば、一度や二度は耳にしたことのある台詞だった。当然れおなも、その言葉の意味は知っている。
ジュリはポケットの中から、制服のリボンタイを取り出した。
「俺と、交換してくれませんか?」
僅かに震えるジュリの手の上、深紅のリボンタイをれおなは見つめる。
「……」
無言のままそのリボンタイを手に取り、れおなは――リボンの輪の裏側を見た。
私立山手清花女子学院の制服のリボンタイは、首にかけたまっすぐなネクタイをホック式のリボンで束ねる形になっている。つまりリボン部分は[[rb:解 > ほど]]けない構造になっているので、輪の内側は意図的に覗き込まなければよく見えない。そしてれおなは言った。
「これ、夜半月先輩のリボンじゃない?」
ジュリの脳は追いつかなかった。数拍の思考ののち、戸惑いの反応を返す。
「……え?」
自分の――樹里亜の制服から持ってきたリボンが、夜半月七夏のもの? 一体どういうことだろう。樹里亜は七夏とリボンの交換を行うだろうか? ありえない。ジュリから見ても、それは絶対にありえないことだと確信できた。ジュリの預かり知らぬところで樹里亜が誰かとリボンの交換をすることがあったとしても、その相手が七夏である筈がなかった。樹里亜は波止場水景に想いを寄せているのだから。
「あの……れおな先輩。それってどういう……いや、そもそもどうしてこれがナナ先輩のリボンだって言えるんだよ? 名前でも書いてあんのか?」
「書いてあるんだよ。名前が」
思いがけず自分の問い掛けを肯定されてしまい、ジュリは更に混乱した。
「あれ、もしかしてジュリくんは知らない? 制服のリボンタイの裏にはね、名前の刺繍が入ってるんだよ。……他の生徒でもあんまり知らないのかな? 入学案内の資料の中に書いてあるんだけどなー。子供は読まないか。親御さんは目を通したかもしれないけど……」
れおなは証拠を見せてあげる、と言わんばかりにリボンタイの輪の内側を見せてくる。そこには筆記体で『Nanaka Yowazuki』の金色の刺繍が入っていた。
「こんな特徴的な同姓同名の別人は、白砂さんの周りには居ないよね?」
「そりゃそうだろうけど……どうしてナナ先輩のリボンがここに……?」
「うーん。まず、白砂さんが夜半月先輩とリボンの交換をするってことは」
「ないだろ、さすがに」
「だよね。だとすると……ねぇ、ジュリくんは、白砂さんが『他人のリボンを勝手に自分のものと交換するタイプの人』だと思う?」
些か失礼な質問ではあったが、ジュリは迷いなく答えることができた。
「するだろ、あいつは」
「ふむ。だとすると、こういうことは考えられないかな? 『白砂さんは、勝手に他の人のリボンと、自分のリボンを交換した』……」
「それは、ミカ先輩と? ……ってことは……まさか……」
ジュリはある仮説に辿りつく。
「樹里亜はミカ先輩のリボンを、本人が知らないうちに勝手に交換した。けれど、ミカ先輩が着けていたのはミカ先輩のリボンじゃなかった……ナナ先輩のリボンだったんだ!」
「それが、白砂さんの手に夜半月先輩のリボンが渡る流れとしては一番自然だと思う」
あまりのすれ違いぶりを理解し、ジュリは頭を振る。
「なんてことになってるんだよ……みんな一方的すぎるだろ。じゃあ、夜半月先輩のところには樹里亜のリボンが渡ってるってことか?」
「一番マシな状況ならね」
「れおな先輩の中にはまだ悪い想定があるの?」
「夜半月先輩がどこまで身勝手な人かによるかなぁ。これ言っていいか分からないんだけど……とか配慮してる場合でもないよね。夜半月先輩って、川嶋さんが好きみたいなんだよね」
「えっ!? シノ先輩のことを? ちょっと待てよ、そしたら男装喫茶部って……」
ジュリはれおなが先に到達していた相関図に気づいてしまった。
「うん……ちょっと泥沼だよね。全員片想いとか……」
「仮にも女子の花園で夢の時間を提供する男装喫茶部が? 内部で人間関係完結してんの?」
「それを言ったらおしまいなんだよ、ジュリくん」
れおなは苦笑いでリボンタイをジュリに返す。
「俺、このリボンタイどうすればいいんだろ」
「しばらくの間は黙っておくしかないんじゃない? 返してくださいって言ったところで揉めるだけでしょ」
「そうだよな……」
そして定刻がやってくる。ジュリは名残惜しげにしていたが、時間は時間だった。それにれおなにはこの後の用事もある。
「今日はありがと、れおな先輩。来てくれて嬉しかった」
「うん。明日も会えるんだから、そんな寂しそうな顔はよしなさい」
「分かった。またね、れおな先輩」
ジュリに見送られ、れおなは廃教会を出る。ちらりと振り返ると彼はまだ自分の後ろ姿を見ているようだったので、木々の生い茂る小道を抜けて校舎側へやってきた。どこかで時間を潰さねば、とれおなが考えていると、ちょうど合流を予定していた初瀬と鉢合わせた。
「あ、磐井さん。こんにちは」
「喜多川先輩! お疲れ様です。もうそんな時間でしたっけ?」
「ちょっと早かったかな」
「まだ今日のシフトの部員が片付けしてます。彼に見つかると説明が大変かも」
「分かった。じゃあ近くで……そうだな、自習室で待ってようか」
初瀬の提案で二人は教室棟一階の自習室へ入る。この部屋の窓からなら、廃教会側から出る唯一のルートである木々の裏道を通る人が居れば確認できる。
「見張るにはベストポジションですね」
「そうでしょ。待っている間にこの後の流れを確認しておこうか。鍵は持ってるね?」
「はい。私、地下室のハッチの場所を知らないんですよね」
「じゃあそれは僕が教える。鍵でハッチを開けた後のことは、僕も分からない。実際に開けたことはないから。そうだ、光源……」
初瀬は自習室の隅から非常用の懐中電灯を拝借してきた。
「これを持っていこうか」
懐中時計を入れた初瀬の通学鞄はやけに膨らんでいる。
「喜多川先輩、あれ」
れおなは窓の向こうのジュリを指した。
「今日シフトの部員?」
「そうです。この後は部室で着替えと後片付けなので、廃教会には戻らないですよ」
「なら行こうか」
二人は自習室を出て、周囲に意識を配りながら木々の小道を抜ける。
「よし。誰も居ないね」
扉の隙間から中を覗き込みながら、廃教会の中へ入る。しんと静まり返った教会の中、板張りの床が軋む音が響かぬようにゆっくりと進む。
「こっちだよ」
初瀬に先導され、祭壇の裏側へ回り込む。ステンドグラスの真下、そこには鉄製のハッチがあった。
「本当にあった……気づかなかったです」
「もう僕たちの代だとここじゃなくて新しい教会でミサを行うからね。こんなの気づかないよ」
「そうですね。……開けますよ」
無言で頷く初瀬を確認し、れおなは鍵を挿し込んで回す。錆びた金属同士が鈍く噛み合う音が鳴り、ハッチの鍵は開いた。取っ手に指をかけて天板を上げようとしたが、想像以上の重さでうまく上がらない。
「重たい? 手伝おうか」
「お願いします、喜多川先輩」
二人がかりで力を込めるとようやく天板は上がった。
「これ、うっかり閉まっちゃうと下から開けるの大変そうですね。私が先に降りるので、喜多川先輩はハッチが閉まらないようにここで支えていてもらえませんか?」
「わかった。気を付けてね」
れおなは通学鞄のポケットに懐中電灯を差し込んで光源を確保し、ハッチの中を覗き込む。地下室の入り口は硬く冷たい壁面に梯子状の足場が連なっているので、つま先と指先に神経を集中させながら慎重に降りる。一番下の足場からゆっくりと足を下ろし、床に到達した。
「結構深いですね」
れおなは中の状況を説明しながら懐中電灯で照らす。ざっと見たところ、ここは戦時中防空壕だったらしい。老朽化は進んでいるが、頑丈な造りであることはすぐに分かった。
「もう少し奥まで見てみま……」
れおなが言いかけたその時、悲鳴が上がった。初瀬の声だ。
「何するの、やめてっ!」
これまで冷静な態度を崩さなかった初瀬の動揺した尖った声に、れおなは慌てて足場の真下まで戻る。
「どうしたんですか、喜多川先ぱ……」
一階分の上空、そのハッチの周辺で人影がグラグラと動く。
(誰かと揉み合いになってる!? どうしよう、あそこから落ちてきたらただじゃ済まない!)
先ほど照らしたときに部屋の隅に見えた古いぼろ布の山を手繰り寄せ、ハッチの下へ駆け寄る。
「ひゃっ!」
れおなが到着すると同時に、誰かに突き飛ばされた初瀬が落下してきた。すんでのところで下に潜り込み、彼女を受け止める。
「う……」
落下の衝撃は軽減されたものの、初瀬は呻き声を小さく上げてうずくまる。
「喜多川先輩! 大丈夫ですか!?」
「た、たぶん……」
初瀬はそれだけ答えて気絶した。無理もない。れおなは反射的にハッチの方を見上げた。
「……!」
その人物は、こちらを覗き込んでいた。れおなと目が合う。元より薄暗い廃教会、そこで覗き込む体勢になれば顔は陰になる。仄暗い逆光の彼女の顔は、恐ろしい化け物のように見えた。それでもなお――よく目立つ銀髪のロングヘアは、ふわふわと宙に浮いたようにはっきり見えた。
「ここで永遠に眠っていてくれる?」
冷たい声色に、背筋が凍った。
銀髪の彼女――夜半月七夏は、勢いよくハッチの天板を閉ざした。
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