第9話
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そこからは、単純な暴行だけが続く。頬を叩かれて痛みと熱くなる感覚が頭に響く。俺は泣くことしかできなかったけれど、男は俺が涙を一粒垂らすたびに更に頬へと勢いよく手をつけるから、涙が枯れるまでこれが続くことを、ようやく理解した。そんなことがわかっても、俺の涙は止まらないのだけれど。
姉は助けにやってこない。いつもの姉ならば、こんなドラマみたいな場面があったら助けてくれるのに、それでも助けにはこない。
母は帰ってこない。母は帰ってこない。母は帰ってこない。
泣き疲れて、過呼吸みたいな嗚咽だけが広がって、だんだんと涙は流れなくなっていった。男はそれを見ると、満足して笑っている。居間に戻って煙草を吸い始めた。
ようやく終わってくれた。まだ母は帰ってこないけれど、それでも安堵の気持ちが心の大半を支配する。姉はどうしているのか、過呼吸みたいな酸素の供給に疲れながら見に行こうとする。
けれど。
「おい、お前も煙草吸ってみろよ」
──まだ、終わっていないみたいだった。
煙草のことをお母さんに聞いた時に、大人になってからね、と言われたことがある。美味しいかどうかで聞いたら美味しいと言っていたから、きっと美味しいんだと思う。でも、大人になるまで吸わない、ってお母さんと約束した。
そんなことを言って、男の提案を断ると、いまだにずっと慣れない頬への衝撃が、またやってくる。
「ここでは俺が神様だぞ」
そんなことを言って、俺に煙草を吸わせようとしてくる。涙は流れなかった。
男が吸っていた煙草を俺に持たせて、男は俺が吸うのを待っている。吸ってはいけない、と母には言われていたけれど、俺は叩かれるのが怖かったから、もう逆らうことはしない。母や男がやっていたみたいに、口にくわえて真似をする。
「それだけじゃ意味ないだろうが。吸うんだよ、ジュースみたいに」
言われるがままに、吸ってみる。
──言葉に表しようもない、呼吸のできないものの塊。苦味しかない煙の味
「ははっ、子どもが煙草吸ってるとか笑うわぁ」
男は満足そうにしている。けれども、俺はそれに対して吐きそうになる。というか、嗚咽が詰まって、胃の底から、どうしようもない味覚となって放たれる。床にまかれた吐しゃ物、汚してしまったことをきっかけに、また叩かれることを覚悟したけれど、男はそれをひどく楽しそうに笑った。俺はそれに対して何より安堵した。
俺はその笑い方を見て、おもちゃにされているんだ、と感じた。母は買ってくれたことがないからわからないけれど、テレビで見たようなおもちゃの遊び方にどこか似ている。
きっと、俺が寝ている間にも、お姉ちゃんはおもちゃにされたんだ。
幼い物心でも、なんとなくそんなことだけは理解できて、あながち、男が言っていた、俺は神様だぞ、という言葉に納得してしまう自分がいる。
男は立て続けに煙草を吸って、それを吸い終わった頃合いに母が帰ってくる。男は俺と姉を寝室に行くように促して、姉はしぶしぶという具合で、酔歩しているように部屋へと帰っていた光景が印象的だ。母は帰ってくると、例の部屋に男と一緒にこもる。そうして、俺たちはゆっくりと眠ることができた。
……夜中に、すんすん、と母の途切れた声の間に、耳元で響く泣き声。
大丈夫? と俺が声をかけても、それからも泣き声はやむことがない。ずっと、ずっと、ずっと。母と姉の声を交互に耳に入れながら、不安感に苛む一夜だった。
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母が外出すると、帰ってくるまでの間、男は昨日のように俺と姉をおもちゃにする。今度は俺が目を覚ましているときに、姉を寝室からつれていって、例の部屋で途切れた声を聞くことになる。どんなことをしているのかは、そのころにはだいたいのことに想像がついて、姉を悲しませる男が俺はどうしようもなく嫌悪感の対象となる。それでも、抵抗する力なんて幼い人間にあるわけなくて、それは腹に抱えるだけなのだけれど。
姉の途切れた声が終わりを告げた。居間に煙草を吸いに来る男の姿が見えて、俺は布団に隠れた。無駄な抵抗だったのかもしれないけれど、こうしていれば、きっと男も俺を叩くことはないと思っていたから。
──それを、俺はすぐに後悔したけれど。
男が俺を呼ぶ声がする。最初は優しい声かけだったけれど、それは次第に怒声へと変わって、それでも俺は布団にこもり続けて、抵抗した。
足音が聞こえる。どすん、どすんと、床に響く振動が、恐怖を加速させる。最初から出てい行けば、叩くだけで終わったのかもしれないけれど、今度はもっと強い力で叩かれたり、昨日みたいに踏まれたりするのかもしれない。
それでも、頑なに布団にこもり続けたけれど、こもり続けて酸素が薄くなっていたはずの空間に、酸素が回る。息苦しさは消えて、目の前に男の顔がある。
男は、先ほどの怒声とは別に、嫌に低い声を出して
「罰ゲーム」
と、そんな一言を呟いた。
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男はポケットから包丁のようなものを取り出した。それは包丁という物と比べれば、だいぶと小さい物だったけれど、刃物に対しての恐怖は加速していく。
やばい、という感情が心を占有するけれど、後悔についてはもう遅い。最初からでていけば、きっと、もっとたたかれるだけで済んだのかもしれない。
男は神様なのだから、逆らってはいけない。神様に逆らったら、大変なことになる。そんなこと、気づいていたはずなのに。
「人間の身体の中で、一番血が出ないところって、腹部なんだ」
男はナイフで俺の腹をなでる。
「それでいて、けがの治りも速いのも腹部。重要な臓器がたくさん入ってるからだろうな。人間の体って不思議だと、何度も思わされたよ」
男は、俺の脇腹をなでながら。
──ザシュ。慣れているように。
──一本の線が、身体に描かれる。
身体の中から音がする。先ほどまで撫でられていた感触は、感じたことのない激熱と、どくどくとする心臓の音、そうして鋭い痛みに転換して、
「あああああああああああ!!!!」
俺は、感じたことのない痛みに意識とか無意識とかなく叫び声をあげる。泣くということさえできやしない。
「五月蠅いから、もう一本」
─ザシュ。手慣れていることを証明するように。
「いあああああああああ!!!!」
「あ、また叫んだ。叫んだら、そのたびにつけ足していくからな」
──ザシュ。
──ザシュ。
──ザシュ。──ザシュ。──ザシュ。──ザシュ。──ザシュ。──ザシュ。──ザシュ。──ザシュ。──ザシュ。──ザシュ。
絶え間ない悲鳴と、身体の中から耳元に響く異音。
声は枯れて、のども痛くなって、叫ばないようにするけれど。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛! ! !」
──ザシュ。
絶え間ない地獄を繰り返す。そうして耳元に俺の叫び声と、だんだんと楽しくなってきたらしい神様の笑い声が空間にだけ響いて。
──……俺は意識を続けることをやめた。
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気が付けば、風呂場にいた。風呂場には裸の男が一緒にいて、シャワーの水で優しく俺の傷跡をなでている。痛みに身体を弾ませると、男は俺の頬を叩く。
「いいか?傷の対処は後処理が大事なんだ。じっとしていろ」
男は、丁寧に、丁寧に水を傷に浴びせる。声を出しそうになるけれど、さっき感じた痛みに比べればましだったから、声をあげないように口を押えた。
「……よくわかっているじゃないか」
男はその行動を見て、にやにやと微笑んで、俺の頭をなでる。
「二度と、俺に逆らうなよ」
低い声で。俺はそれに対して口を押えながら頷いて、そうしてその日の一日は終わりを告げた。
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