ダフォディルの花は春を待ち
城間ようこ
第1話
「ごめんね、もう頑張れないから……虹の橋でママを出迎えてくれるかなあ……?」
言葉を口に出したら、終わりに涙がぽろぽろ零れた。
──幼少期、思春期、社会人生活、思えば私の人生は暗かった。
小学生の頃には既に両親が離婚していて、父と姉との三人暮らしだった。貧しい父子家庭で、一番立場の弱い私には家事や炊事を課された。
小学生の子供が作る食事だ。至らないところはあっただろう。
そういう時、父は毎回「こんな味付けの物が食えるか!」「何だ、この焼き魚!焼き方が固くて食えたもんじゃない!」と怒鳴って私を殴り、気に入らない料理全てを生ゴミにした。
毎回おかずは三品作っていたから、残りのおかずで食事は出来る。でも、怒鳴られて殴られて捨てられて、萎縮しきった私が食事など進められる訳がない。
その為、学校での身体測定では身長が少しだけ伸びても体重は減っているのが当たり前だった。
学校では、そんなみすぼらしい私を生徒も教師も差別して侮辱し、誰からもいじめられた。孤独に苦しむ度、古びた本が並ぶ図書室の片隅で様々な本を読む事に没頭した。
中学生の時には借りていた一軒家の老朽化により、六畳二間の木造アパートに引っ越した。安普請の建物は音が筒抜けで、騒音に苦しんだ。
中学校では、いじめを許さない教師に恵まれたおかげで、私を嫌う教師もいたものの、それでも校則さえ守って普通にしていれば、学校では守ってもらえた。
もっとも、家では相変わらず、父から気まぐれに怒鳴られ殴られるのが日常だったけど、私も反抗期を迎えていたから、やられっぱなしではなかった。
そんな中で私は高校生になり、姉が進路を私立大学に決めた事で、引き換えに私の進路は高卒で就職するしかなくなった。
私は家事炊事と、本屋でのバイトに追われながら、進学率の高かった高校での生活をやり過ごし、卒業して印刷会社に就職した。この頃には家族への反抗心も折られていた。
会社では原稿データを版面に組み立てる組版の仕事に就いた。そこで私は、膨大な量の様々な原稿データを読みながら働けたのが、進学出来なかった自分を慰めてくれたようにも思う。
しかし、大学を卒業して就職出来た姉の振る舞いは傲慢さを増していった。
私は就職してから毎月必ず家にお金を入れていたのに、私より遥かに高給の仕事に就けた姉は食費さえも入れようとしない。
父親も安月給の私からお金を受け取るのは当然のように受けとめているのに、姉には「せめて食費くらい入れろ」の一言さえ言わなかった。
それだけじゃない。姉の部屋は私も共有している六畳の和室だけど、自分の好きな家具を選んで次々と並べるようになり、しかも姉は部屋の真ん中に自分の布団を敷いて寝る。
私は残された隅っこの僅かなスペースに布団を敷いて、姉の家具に邪魔されて足も伸ばして寝られない夜に耐える事になった。
更には、その間もずっと家族の家事の役割分担は変えられなかった。私は働きながら家事も炊事も押しつけられ、家にいても気が休まる時はない。
いつしか夜は歯を食いしばって眠るようになり、奥歯が全て駄目になった時、ついに我慢の限界を超えて、私は父から「出ていくなら二度と家の敷居はまたがせないからな」と言われながら家を出た。
一人暮らしは自由だった。ワンルームの部屋でも、狭くても、布団はちゃんと敷ける。やりくりさえ頑張れば、好きに動ける。
私は好きなアーティストが飼っているという、フェレットの存在がふと気になりショップへ見に行って、試しにと抱っこさせてもらえた。
まだベビーのフェレットは小さくて柔らかくて、温かくて、私の中で衝動的な感情が込み上げた。私は小さくて尊い命に一目惚れした。
フェレットを即決でお迎えして、部屋に連れ帰ってすぐに、フードをふやかしたご飯を作った。フェレットは匂いを嗅いで、ぺろぺろと食べ始めた。見た瞬間、心の何かが満たされて涙が溢れた。
しかし、自由は続かなかった。姉が私を呼び出して、「お父さんも歳だし、お母さんも呼んで家族全員で暮らせるマンションを共同で買おう」と言ってきたのだ。
私はフェレットと暮らしているうちに、すっかり癒されて、心も柔らかさを持つようになっていた。
そのせいか、「確かに、また家族全員で暮らせるなら……両親も老後はゆっくり暮らせた方がいい」と思って受け入れてしまったのだ。
若いとはいえ、正規雇用されている二人だ。結構な中古になるものの、それなりに広いマンションのローンが通った。
私も自分の部屋が持てた。大きなケージを置いて、フェレットと共に生活した。会社では代替わりした後任の上司から目をつけられ、罵られたり査定を最低にされたりしながらも、家に帰ればフェレットがいたから救われていた。
だが、姉はマンションを購入して僅か一年で「ローンのお金は入れるからね」と嘘をついて結婚し、マンションから出て行ってしまったのだ。
両親もこれには困ったようだけれど、私への金銭的な搾取は当然エスカレートする。私は蓄積されたダメージで精神を病み、心療内科で自立支援医療制度に助けられつつ、抗うつ薬や抗不安薬、睡眠薬を処方されるようになった。
耐えるしかない日々。そこで、追い討ちをかけるように、可愛がっていたフェレットがインスリノーマに罹患した。
フェレットの通院代の為にも働かなくてはならない。家にも給料の半分以上のお金を入れる事を決められている。私はフェレットを介護しながら働き続けた。
毎週通院させ、世話は寝る間も惜しんで、四時間おきにフードをスープにしたものを食べさせる。食べてくれるのが救いだった。働いている時間は、親に食事を与えてくれるよう頼んだ。
でも、フェレットは半年続いた闘病の果てに、私が会社で働いている時間に大きな発作を起こし、いつも通り急いで帰宅した私は、既に手遅れで最期を迎えたフェレットを目の前に、泣き叫ぶ事になった。
親の与えるスープは、あまり食べたがらなかったらしい。食べたくないなら食べなくていい、と親は判断していた。
嘆く私に、父親は背後から「こうなるから生き物は嫌なんだ」と愚痴を投げつけてきただけだった。
フェレットの葬式をする為、上司に淡々と「ペットのお葬式をしたいので休みを下さい」と頼んだ時、私は相当酷い顔をしていたようだ。
それまで嫌味しか言わなかった上司なのに、この時ばかりは「あ、ああ。分かった」と休みをくれた。
そしてフェレットとお別れをした。心に大きな穴を開けて、個別で火葬されるフェレットの煙を見上げた。
その頃の私は息抜きを求めて、あるノベルゲームにのめり込んでいた。「愛憎の彼方へ」というタイトルのゲームは、貧しくも慎ましく暮らすミニアム子爵家令嬢、アウロラとして異世界転生してしまうヒロインが、攻略相手と結ばれてハッピーエンドになる。
このゲームはとにかく鬼畜設定というか、敵キャラの悪役令嬢達には散々にいじめられるし、攻略相手達は皆、難攻不落かと思えるほど攻略難易度が高い。
それでも、昔の西洋を思わせる舞台は耽美で美しく、異世界にふさわしい文化や風習、精霊とか魔法の設定が面白くて、頑張って攻略してゆき、ついにラスボスとも言える攻略相手ともエンディング間近まで進められた。
フェレットを亡くした直後の私は、仕事でいくつもの納期が重なっていて、間に合わせる為に四週間にわたって、休日出勤はもちろん、早朝から深夜までの勤務を続けた。
それは大事にしていたフェレットとの悲しい別れに心を痛めた私が、気を紛らわせるには他に手段もないと思えたから不満はなかった。ひたすら働いて、やっと全ての納品を済ませられた。
そして、一息つかなければと一日だけ有給休暇を取って、ゲームのエンディングを楽しみ──その翌日に出勤すると、上司が嫌味を込めて私に言ったのだ。
「困るんだよね、有給休暇なんて取るくらいなら、休日出勤とかすんなって上から文句が来てんだよ」
納期に間に合わなければ、困るのは会社のはずなのに。私は無事に納品させて、仕事も一段落つけたから有給を一日もらっただけなのに。私はやるべき事を全て頑張ってやったから、なのに。
私の中のバランスが落ちたガラスみたいに壊れて粉々になるのを、まざまざと感じた。
私は鬱病を悪化させ、すっかり拗らせてしまって寝たきりになった。会社は主治医の手配で休職した。処方薬は限界まで増えた。
寝たきりになった私に、家族は冷たかった。食事も用意してもらえない。「早く仕事に戻って家に金を入れてくれなきゃ、こっちだってタダ飯食らいを抱えてる余裕なんてないんだから」と責め立てられた。
──もう、私を繋ぎ止めていてくれたフェレットもいない。
がらんとしたケージを眺めながら、愛するものもいない日々の虚しさ、社会生活の虚しさに打ちひしがれた私は、ある夜耐えかねて、手元にある処方薬を全てシートから取り出して、水で喉に流し込んだのだった。
薬が回るのは早い。最後の方は体がぐらぐらして、だらんとしてしまう手を無理矢理上げて薬を口に詰め込んだ。
そして、静かになってしまったケージの前に倒れ込んだ。
それが最期の力だった。
──そして体の重力を感じなくなると、私は太陽のない青空の中にいた。足元を見ると、部屋で倒れている自分の体が見えた。
「何なの!朝っぱらから人を起こして!」
足元から聞こえてきたのは母親の不機嫌な声だった。
「あいつの部屋から物音もしないし、声かけても起きてこないから部屋を覗いたら床に転がってるんだよ、おかしくないか?」
歳を取って小心者になった父親がうろたえている。母親は私の部屋を見ようともせず言い返した。
「どうせ睡眠薬が変に効いて、酔っ払って寝てるんだよ。そのうち勝手に起きてくるから、放っとけばいい!」
ああ……幼い頃に別れた母親の性格を、私は分かっていなかった。
もう見たくもない。フェレットの魂が待ってくれている所へ行きたい。そう思っていると、背後から女の人の澄んだ声が聞こえてきた。
「愛されなかった魂のあなた。虐待と搾取の対象だった人生を断ち切った、憐れな魂」
振り返ると、純白のドレスを着た美しい女の人が立っている。私を真っ直ぐに見つめる瞳には、侮蔑も嫌悪もない。
彼女は青空の向こうにある、小さな光を指さして私に告げた。
「私は創造主の娘である女神。──あの光の世界で、生き直させてあげる。今度こそ幸福に満ちて、愛されながら生きられる人生を、あなたにあげる」
小さな光が渦になって近づいてくる。それを怖いと感じた瞬間には光に飲み込まれ、「もう生きたくない、フェレットの魂と寄り添って眠りたい」と訴えようとして足掻いていた私の意識が途切れた。
──そして産声が響く。誕生に対する安堵と歓喜の声が続いて、私の魂に何か手を加えられ、嘆いてばかりいた魂は温かい手で洗われた。
これが新たな始まりになる。
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