とある化学好き大学生の日記

化学好きの大学生

はじめに

作者について

 どうも作者です。これは日記なので所々、作者の事を知らないと......な部分もあると思います。自分がどんな人生を歩んで来たか記録しておこうと思います。ただ、かなりの鬱展開を含むため、読まない方がいいかもしれません......。



〜小学校時代〜

 親の勧めで地域の野球クラブに2年4月から所属。ただ、入ってすぐから元々優しい気性だったことと常に自分に自信がなかった為、いじめに遭う(小学校6年まで)


 勉強自体は親の強制力によって小学校で最も出来たが、5年生からクリスマスや誕生日で欲しいものが来なくなり、友達と共通の話題が無くなり、親がよく約束を破る様になったことから少しずつ不信感を募らせ始める。


〜中学校時代〜

 他にやりたいと思う部活が無かった事、野球自体は好きだったことから野球部に所属。小学校時代のいじめは小学5年終わりに露見したため解消はしていたものの、メンバーはそのままだったため引退までほとんどぼっちの様な感覚であった。(キャッチボールは終始余っていたため後輩の一番下手な子としていた)。


 勉強自体は頑張り、総合点で言えば中学2年あたりからトップを維持。合唱祭3年連続学年伴奏者、生徒会副会長、漢検2級、英検3級、評定4.5↑、推薦入試でも7割以上点数が取れたことより、受験勉強自体はせず、通学圏内トップの公立高に進学した。


〜高校時代〜

 自宅から片道1時間の距離の高校に入学。

 なんだかんだで親の意向(運動部へ行け)を無視できず、田舎かつ、両親は短大、専門卒である事から自分自身も受験がどれだけ大変か知らなかった。そんな経緯でどうせなら珍しい事をやろうとヨット部に入部。この時、顧問とは相談すれば部活の時間は調整する、勉強優先で良いと確約を貰っていた。

 また、勉強を頑張るため、始発(朝6時前には起きて出発)で学校へ行った。序盤は充実した高校生活を送れていた筈だった。


 狂ったのは高1の秋頃から。3年の先輩は引退し、2年は居なかったため、1年秋から部長に就任。この時から顧問との最初の約束は崩されはじめ、平日は午後7時まで、休日は終了時間未定、休みは月に5日あれば良い方。常に顧問の怒鳴り声に晒され、海の上で1人奮闘する日々(他に部員はいなかった)が始まる。その甲斐あってヨットには乗れる様になったが成績はクラス内で地を這う様になった。


 2年生に上がると以前から誘っていた同級生2人と1年生5人が入り一気に部内に活気が出る。自分も張り切って頑張りブラックは変わらずながらも少しだけ成績も上向いた。しかし、それも夏まで。同級生1人は元々持っていた持病の悪化によりほとんどヨットの練習には参加出来ず、もう1人の同級生は階段から落ち、記憶喪失でこちらもヨットには乗らなくなった。


 加えて、生徒会役員であったことから、文化祭全体の運営、増える模試とその直し、重たい授業課題と小テスト勉強、人任せで指示無しでは動かない精神的にキツすぎるクラスでの劇の主役....更に文化祭の次の日にはヨットの大会という超過密日程に耐えられず、全てが終わった次の日、ストレスによる帯状疱疹で倒れる。二週間痛みで学校に行けず、更に二週間の保健室と教室の往復登校を経て復帰するも、クラスで地を這う成績だったそれが更に悪化した。ここで完全に授業から取り残されることとなった。


 更にこの頃から一つ下の部活の後輩が後に世界大会まで出る逸材であった事から顧問に放置される様になる。しかし、部長だった為、様々な顧問の無茶ぶりにも耐えた。しかし11月、更に精神的にキツイ事件が起こる。


 とある金曜日、公欠を使い、部活の大会のため佐賀県唐津市へ向かった。片道約10時間かけて。土曜日はその地の海に慣れるための練習、日月で大会、そのまま次の火曜日には登校という恐ろしい日程だった。加えて大会は最大風速20mの爆風下で強行。疲労が抜けないまま、結局家に帰ったのは深夜2時。そこからなんやらかんやらして2時間睡眠ほどで次の日学校へ行った。勿論耐えられなかった。3限だったか。物理の時間、爆睡してしまったのだ。しかも相手は副担任。肩を叩かれ、聞かれた。


「なんで寝とるん?」


それに対し、起き掛けの自分は正直に答えてしまった。


「昨日まで部活であまり寝れていなかったんです。すみません。」


先生はキレた。


「はぁ!? 好きでやってる部活なんやからそれを理由に授業寝るのは違うやろ! 顧問の先生と担任の先生には報告しとくからな!」


 その後、こんな強行スケジュールを組んだ顧問にもかなりの勢いで叱られ、不本意なまま反省文まで書かされ、加えて職員室で謝罪までさせられた。ある意味、公開処刑である。この時完全に顧問に対する信頼を失った。そして、この日から次第に学校へ行く事に恐怖を感じ始め寝れば学校に行かなければならない事から、不眠症に苦しむことになる。(不登校は親から許されなかった)。


 このあと、部活では次の年に有望な新1年生が入る事がほぼ内定し、一個下の後輩はその子と二人乗りの船に乗る事が決まったため、その子が入るまでは顧問がその船に乗って練習する様になった。他にヨットを指導出来る先生はいない。事実上の指導放棄が始まった。自分は1人乗りのため船速で二人乗りには追いつけず、練習場所も違う為、後輩の指導と部長の仕事を体良く押し付けられる事となった。


 それでも部長であることから、休日も平日も指導して貰えずとも後輩の指導に精を出し、加えて自分より出来ない子と練習しているため課題も分からず、質問も出来ず、逆に後輩はどんどん吸収し、半ば気鬱状態であった。そのおかげか後輩は自分より顧問からの評価を上げ、3年春には顧問よりお前の方が下手という烙印を押されてしまった。


 実際は超軽風時のみ後輩が速く、それ以上の強風時は自分が速いのだが、国体予選の開催地は風が吹かない事や自分は遅くとも夏で引退であった事から将来性を見込んだ事もあっただろう。1艇しかない大会規格の船は後輩が使い、自分は旧規格の艇に乗る。散々だった。それでも部長だった事もあり、後輩がこれを気にしない様に何食わぬ顔で手を抜かず指導は続けた。


 勿論なんの根拠もなく教えていた訳ではなく、顧問に教えて貰えずとも、色んな動画を見て自分なりに研究し結局最後まで風速7m以上の強風時は部内の誰にも負けなかった。


 3年になると先程紹介した有望な子が部に入った。しかし、後に世界大会まで行く二人乗りのペアの指導にかかりきりで最後の夏の大会まで顧問から指導放棄されたままだった。また、大会規格の船は当日いきなり乗る形だったため、感覚の違いを修正出来ず、更に、速く船を走らせる為の様々な動画で見た工夫は実際には自分のモーションが大きすぎてボディパンプ、シートパンプを取られ、反則負け。ここでついに部活からも部長という責務からも解放されたが精神はボロボロで勉強どころではなかった。


 結局部活動終了後も不眠症で毎日4時とか5時にならないと寝られず、6時前には強制的に起こされた。1人なら出発時間を変えられたかもしれないが、妹も同じ高校であり、途中までは親に送ってもらっていた事から同じ時間に学校へ通った。


 そんな状態で授業が聞ける筈もなく、頑張っても結局どの授業も寝てしまっていた。進学クラスであり、周りは勉強頑張っている中、自分は起きていられず授業中寝ている。時にはいびきをかいていたらしい。ぶっちゃけ邪魔者以外の何者でもなく針の筵だった。


 不眠症は直らなかった。この負のスパイラルから抜け出せず、授業が終わったら、この恐怖から逃げるため、唯一のアイデンティティであったスマホゲーム、グランブルーファンタジーに熱中した。寧ろこれがあったからこそ自分は自殺せずにすんだ、ある意味、生命線でもあった。


 結局、偏差値40以下まで成績を落とした自分は一校たりとも大学受験せず現役を終えた。この時、一度壊れた自分を修正する事に必死だった様に思う。このまま大学や専門学校に行けば死ぬ、そんな予感があった。


 そして親に頼み込み浪人することになった。


ちなみに、人伝てに聞いた話だが、この顧問は自分の卒業後、パワハラで懲戒免職か自主退職を突きつけられ、自主退職し現在は隣の県で指導を続けているらしい。理不尽である。


〜浪人時代〜

 親は浪人させるならば、全ての自由を奪って勉強に集中させようと寮付きの河合塾や駿台に入れられそうになった。しかし、自分は断固拒否。加えて基礎も殆ど出来ていなかったため、1人暮らしかつ55段階で基礎から埋めてくれるのが売りの四谷学院に入った。無論、お金を払って貰う以上は頑張る気持ちもあったが、高校で受けた精神的な疲労を回復したい自分もいた。この時は意識していなかったが、今思えば猶予が欲しかったのだ。


 しかし現実は違った。初めての1人暮らし、知らない事が多かった。しかも親からWi-Fi契約を禁止され、唯一の拠り所であったグラブルもまともに出来なくなった。結局、色々無理したせいで5月にはベッドから起き上がれない日も多くなり、予備校には半分も通えず、何とか起き上がれた日もゲームをするため、色んなコンビニでおにぎり等を買い、店の外でWi-Fiを借り、何時間も立ちっぱなしでやっていた。これしか無かったとはいえ、結果からいえば更に精神を病んだ。この後、フルオート機能の実装でグラブル熱は冷めるも、結局現役時よりセンター試験等、点数を落とした。おそらく3割台。理系大学の判定はほぼ全てEだったのはなんとなく覚えている。


 親にもう一浪頼んだが流石に許されず、よく分からないまま願書に名前だけ書かされた。試験会場で初めて大学の名前と学部学科を知ったくらいには病んでいた。


 結局一校だけ受けた大学に合格した。受からないと思っていたため専門学校に行くつもりだったが、親からの説得により大学に行くことに決めた。


 しかしこの時、日本には新型コロナウイルスが上陸し始めていた......

 

〜大学時代〜

ーー一年ーー

 鬱は治っていなかったが、大学に行けば何か変わるかもしれない。この時は少し期待もしていた。しかし実際には、コロナ禍により入学式も宿泊研修もなく、講義もオンラインで大学に行くこともなかった。それまでパソコンなど殆ど使った事もなく、授業は基本板書で受けてきた自分にとってとても辛いものだった。講義は教科書の朗読会や録音音声を聞くだけ。酷いものだと教科書を読んで課題を提出みたいなものもあった。加えて大学の課題提出、授業動画投稿用のサーバーが弱すぎて課題提出中に落ちるのは日常茶飯事。それまで書いてた内容は勿論全部消えます。動画の読み込みだけで授業が終わった事もしばしば。


 結果、zoom、classroom、ブログ、youtube、gメール等、教員事に様々な提出法や履修法を要求される地獄、オンライン慣れしていない地獄、授業レベルが低すぎる地獄から次第に鬱が悪化、講義にも出なくなって行った。


 大学1年時、結局全ての授業を放棄。履修取り消しはしなかったため、取得0単位、GPAは0.00であった。しかし、1→2年は自動進級のため二年生になった。


ーー二年(1回目)ーー

 散々だった1年を終え、この頃は時間の感覚がほとんど無かった。講義が既に始まっていることさえ知らずチューターから連絡が来たほどだ。この時が人生で一番やばい時期だった。自分には生きる価値が無いと本気で思っていた。かと言って自分から死ぬ勇気はなく、常に家の戸の鍵は開けたままで、誰か殺しに来てくれないかと本気で思っていた。毎晩そんな自分の情けなさに涙を流し、かといってどうしようもない自分を恨んでもいた。また、正確な時期は覚えていないが、そんな自分を見られるのが恥ずかしいやら情けないやらでこの頃LINEを消し全ての過去の友人との関わりを断った。


 当然そんな状態で講義に出られるはずも無かった。そんな時、大学のチューターから学生相談室で話を聞いて貰ったらどうだ?という話を貰った。当時の自分は藁にもすがる思いだった。病院の精神科に行って薬漬けになるのは嫌だった。病院自体が怖いと言う方が正しかったかもしれない。親はハナから信頼していなかったので相談出来ず、ずっと抱え込んでいた自分にとってはここで何か変えられるかもしれないと思い予約しようと電話をかけた。


 1秒でも早く話を聞いて欲しかった。でも実際はそうはいかなかった。予約の際、聞かれたのは時間割だった。正直、大学に通える状態じゃなかったからそんなものはどうでも良かった。なのに空きコマに入れる様無理矢理説得され、予約が取れたのは二週間後だった。


 勿論その間一つも授業は出ていない。ゴールデンウィーク前で欠席時数は3前後、最早手遅れに近い状態だった(5回欠席でアウト)。それでも折角時間を取って貰ったからとそこへ行った。まず訊かれたのは、ここにきた経緯と時間割だった。訊かれるがままに話したが30分しか時間がない中で何が分かるというのか。結局15分くらいで現状だけ話し、時間割を聞かれ、覚えていなかった為、5分ほどの沈黙の後、時間割見ていいよと言われ、なんとか書いたがそれですでに25分、結局残り5分で頑張って授業に出て、ゴールデンウィーク明けの同じ時間にどれだけ学校に行けたか報告に来てと言われてタイムリミット。


 地獄だった。何も変わらないどころか、寧ろこの尋問の様な時間で更に悪化した。こんな奴が学生相談でよく仕事出来てるなと本気で思った。と同時に死のうと思ったのもこの時だった。


 この後、チューターの先生に駄目だった事を伝え、休学を勧められた。それに同意した後、また幾らか時が経った。


「そろそろ死ぬか」


 どこかのマンションだったかビルだったか。多分マンション。あまりよく覚えていないが、気の向くままに最上階の一つ下の階(屋上は鍵がかかってて入れず)まで登った。欄干の上に立ちあと一歩で死ねる、そこまで来た。でもその時、途端に涙が出てきた。どうして自分は死ななきゃいけないんだろうとそこで思った。途端に死ぬのが怖くなった。結局、自分が落ちたのはーーー。


廊下だった。


(ああ、自分は死ねないんだなあ)


 そう思ったのをよく覚えている。その時頭の中で覚悟が決まったのも。死ねないのならやるしかないと。


 この年の秋から復学した。ただ、高校終わりから数えて3年、運動もろくにせず寝たきり生活だった自分には体力がなかった。なんせこの時は筋力が落ちすぎて、まず、食事はかなりの頻度で喉に詰まってたし、体重は高校の一番重かった時期と比べて10kg以上減っていて、大学に通うだけでマラソン選手並の息切れと汗。加えて腹筋背筋が落ち切っていた事から授業も90分間座っていられなかった。


 だから自分はここをリハビリの期間だと割り切ることにした。21単位取れれば留年しなくても良かった可能性があったが、無理だと悟ったからでもある。結局週のうち二日(最終的には1日)大学に通い、後はオンライン講義でなんとか11単位取得した。この時の感動は今でも忘れられない。ああ、自分でも単位が取れるんだって。やっと大学生になれたって。

 

ーー2年(2回目)ーー

 留年は履修上限から既に確定していたが、この年から本気で単位を取り始めた。自分が本気でやればどこまでいけるのか、と思うと同時にこのまま普通に単位だけ取って普通に卒業ではおそらくこの先の人生で膨らんだ奨学金を返し切れない事も見えていた。だからこそ失敗したら死ぬしかない。その覚悟で勉強した。


 結果としては春学期、一つ落としてしまったものの、20単位以上かつ、GPA3.4程度の成績を納められた。


「まだいけるな」


 秋から教職も取ることにした。教員自体は現労働環境ではなるつもりはなかったが、就職した後の保険として、また就職活動のアピールポイントになると思い時間割を組み直した。

 結果、秋学期は30単位ほど、GPA3.8程度、年間では56単位、年間GPA3.63にまで押し上げ、次の年学業特待生に選出された。


「まだいけるな」


ーー2年(3回目)ーー

 去年の結果を受けて、新たに目標を設定した。学部生時代に200単位以上取得する事、出来る限り多くの資格を取得する事、外部の大学院に進学し研究職に着くこと。


 これらを達成する為に邁進し、結局目標だった漢検準一級は春と冬で2回受けて2連敗し、履修単位取得の為に全力で勉強した事で公害防止管理者試験の出願期限が切れて今年度受検を逃したものの、甲種危険物取扱者は1発で通した。加えてアルバイトとしてSA(スチューデントアシスタント)や散髪屋(内情は労基違反塗れだった)を経験し、実りある一年となった。この一年で、3年次での1年早い研究室配属を確定させ、京大院を目指す覚悟を決めた。取得は64単位GPA3.81を記録した。


ーー3年(1回目)ーー

これから頑張り進捗あれば更新しようと考えている。(2024年4月1日現在)



 最後まで読んで下さりありがとうございます。もっと短くするつもりが気付いたらこんなことに......。自分でも思ってた以上に溜め込んでたみたいです。日記では大して面白いこと書けないかもしれません。でも少しでも励みになればと思います。勉強や仕事等苦しい事も多い世の中ではありますが一緒に頑張りましょう! 勿論応援も大歓迎です♪ どうぞよろしくお願いします。



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