捌の伍 崇伝の最期
花渡の全身に、ぬるりとした何かが巻きつき、めりめりと締め上げた。
一瞬、何が自分の身に起こっているのか、花渡には分からなかった。
武蔵を斬り捨てたと思うや否や、視界が暗転して何も分からなくなったのである。
辛うじて、神刀を手放さなかったのが救いだ。
ぎりぎりと締め上げられながら、花渡は自分の体が高く差し上げられるのを感じた。
視界いっぱいに映ったのは。思わず喉を鳴らしたくなるほど怖気が走る見た目の、爛れた傷と疣だらけの見た目の、とんでもなく太い、蛸の足のような触手の海だった。
八本どころではなく、視界を埋め尽くし、うぞうぞと蠢いている。
自分に落ち着けと言い聞かせ、よく見るとそこはだだっ広い部屋だった。
岩を抉り抜いて造られた、八角形の、恐ろしく天井が高い部屋だ。
その一面に、やはり壁一面占める巨大な扉がある。
錦で飾られたその前に、ぽつりと人影があった。
「武蔵を倒したな。そなたなら、さもあろうとは思っていたが」
触手がうぞぞっと動いて、花渡をその人影の前まで運んでいった。
高僧の僧衣を纏った、神経質そうな見た目の老人だ。
自身も触手に、部屋を埋め尽くすモノに腰まで埋もれて、奇態な笑い声を上げている。
「金地院崇伝だな」
わずかに締め付けが緩んだので、花渡は人影に呼び掛けた。
自分が武蔵を倒すことで罠に掛けられたのは理解した。
なら、その罠を掛けた人物は一人しかいないはずだ。
「左様。拙僧をご存知とは話が早い」
息の洩れるような笑いが間近。
花渡は右手の神刀を振るおうとしたが、腕が胴体にがっちり押し付けられていて動かせない。
「無駄よ。それより、そなたと話したいことがある」
にい、と崇伝は笑った。
「私に話だと?」
花渡は訝しむ。
このようにモノに近しくなるほど恨みを呑んだ人物が、自分に何の用があるというのだろう。
「そなたはのう、天海に甘言を囁かれて御霊士の仲間になったのじゃろう?」
わざとらしい猫なで声で、崇伝が花渡の全身をねぶる。
「甘言も何もない。宮仕えのお許しだけだ。お前こそ、甘言で武蔵を取り込んでモノに仕立て上げたのではないか? 地獄落ちに相応しい男だったかも知れんが、この現世で実際にモノに仕立てるなど神々の理を歪める罪だぞ」
そう言えば、この崇伝と武蔵の繋がりは何だろう?
恐らくは九州の地にいた武蔵と、江戸と京を往復していたという崇伝を何が繋げたのか。
「あの方に帰依したる者は、江戸や京以外にもいるということじゃて」
崇伝は更に笑う。
「武蔵はそなたの父親を葬って以後、人前に出ず、肥後熊本藩の加藤忠広公に匿われておった。公の影響を受けずにはおれなかったという訳じゃなぁ。そなたを葬るために、人を繰り返し送ってくれた恩人じゃからの」
そうだったのか、と花渡は得心した。
自分の敵は父を葬った細川忠興だけではなかったのだ。
武蔵を匿って刺客を送っていたのは、肥後熊本藩主加藤忠広。
そやつが『呼ばれざる者』に帰依していたなら、全部の辻褄が合う。
「偉大な父親に憧れ発奮するそなたのような者もいれば、その遺徳に押し潰されて歪み、あの方のお慈悲にすがって人間をやめる者もいる。皮肉なものじゃて」
花渡はわずかに身じろぎをしたが、ますます汚らしい触手の締め付けがきつくなるだけだった。
「……で、私に話とは何なのだ?」
花渡は慎重に切り出した。
「いやなに、そなたに、天海に仕えて御霊士なぞになるのがどれだけ益なきことか、お伝えぜねばと思うてな」
ねっとりとした、目の光が花渡を射る。
「益なき……とはどういうことだ?」
浪士の娘でしかなかった花渡が、正式な旗本の身分を保証された上、江戸始め日の本の命運を掛けた戦いの先頭に立てるのだ。これが益でなくて何なのか。
「御霊士とは何か、そなたは本当に存じておるのか?」
崇伝のにやにや笑いが濃くなる。
「坊主なのだから、私に説明されるまでもなかろう」
そのはずだ。神の分霊を人の生身に宿す秘法の知識なら、崇伝の方が花渡の何倍も詳しいはずである。
「御霊士なぞ、そなたが倒した武蔵と何も変わらぬ、とお教えしたいのじゃ」
花渡はすっと目を細めた。
「言うに事欠いて随分無理のある屁理屈をひねり出したな」
「事実じゃ。よくお聞き」
崇伝の側に、ぐいと運ばれる。
「そなたが宿した神と、武蔵が宿したモノ。何が違う? どちらも同じことじゃ。両者とも人ならざる力を与えられ、神に奉仕する。そのお役目は、神の分霊がその身を自ら離れるまで永劫に続く。隠居の保障もなく、使われ続ける……」
「とんだ屁理屈だな。神と『呼ばれざる者』ではまるで違うだろう。奴は神は神でも……」
邪神だ、という一言は言えなかった。
触手がぐぎりと花渡を締め上げたのだ。
「じゃが、一つ相違がある。あの方は、並みの神と違うて、人間の気持ちを推し量って下さるのじゃ。その晴らせぬ恨み、救いのない思いを汲み取り、それを力に変えて下さるのはあの方だけじゃ。他の神ではそうはいかぬ」
それは他人を傷付ける穢れた思いだろう。
そういう判断と共に、何となく花渡は崇伝の言い分が正しいような、奇妙な感覚に襲われていた。
多分、邪術だと気が付くが、痺れた頭は戻らない。
「何を……せよというのだ?」
再びわずかに締め付けが緩んだと見るや、花渡は問い掛けた。
問い掛けずにはいられない精神状況だった。
「伊耶那美の神威を宿したままで、あのお方にお仕えせよ。何なれば、あのお方のお目覚めを妨げているのが、伊耶那美であるが故。罪の重い者こそ、最も深くあのお方にお仕えせねばならぬのじゃ」
この上なく勝手な理屈を、崇伝は振り回した。
花渡はぐったりとうなだれて何も言わない。
「どうじゃ、ん? あのお方にお仕えするば、そなたをそれなりの地位につけてやるぞ。最早、日の本は我らのものである故。徳川は、このまま、天海と一緒に仕舞いじゃ」
くっと、洩れた笑いがその言葉の答えだった。
「天海様と張る高僧だというからどんなのかと思ったが、まさかこんなのだとは。地位を追われる訳だ」
ははは、と高らかな花渡の笑い。
晴れやかな、あの花咲く笑いだった。
「そんな屁理屈では子供も騙せぬだろうよ。江戸を汚した術はともかく、屁理屈の方はもう少し考える余地があったのではないか?」
崇伝は愕然とした。
花渡には、言葉と共に頭に滑り込ませた邪術が通じていない。
「私は伊耶那美命に選ばれた佐々木花渡だ! 誰がいじけた『呼ばれざる者』なんぞに仕えるか!!」
高らかに言い放った言葉に、崇伝は一瞬言葉を失い……次の瞬間、逆上した。
絶叫を上げて、花渡の全身を締め上げる。
ごぎり、と音がして、花渡の口から鮮血が飛沫を上げた。
だが、それは崇伝をも危うくする行為だったのだ。
花渡の血がかかった触手から、もうもうと煙が上がる。
まるで酸をかけたかのようだ。
モノにかかったというのに、崇伝が苦痛の叫びを上げた。
思わずという感じで触手が花渡を放り出す。
落下する途中に、花渡は見た。
崇伝の体が、モノの海からするする持ち上がる。
その下半身は――花渡を捕まえていたモノが束になって生えていた。
独立したモノだと思っていたものは全て、崇伝自身の体だったのだ。
花渡は自らの血に塗れながら、石の床に降り立った。
右手にしっかり、神刀を掴んでいる。
「おのれ、おのれぇ!!」
崇伝が泣き叫んでいる。
花渡の血は、モノと化した崇伝に余程の苦痛を与えるらしい。
「死ねぃ!!」
花渡を取り囲む、崇伝の触手が雪崩れ落ちてきた。
花渡は咄嗟に虎切剣を放つ。
しかし、背後には届かず――
斬! と背後に銀光が奔った。
「花渡! 油断するな!!」
そこにいたのは。
「父上!?」
死の眠りと夢の中でしか会ったことのない父親、佐々木小次郎が、そこにいた。
花渡の背後を護り、その長刀で背後からの触手を切り落としたのだ。
「花渡、しっかりなさい。あなたの役目はこれから」
誰かが花渡の胸の上に触れた。
一気に、苦痛が消える。
「母上!?」
花渡の真横に立っている巫女装束の女は、見間違えるはずもない、母親、百合乃だった。
その巫女としての霊力で花渡を癒したのだ。
何故両親がここにいるのか、花渡には分かっていた。
今来たのではない。両親はずっと、花渡の側にいた。
「花渡、我らがここの始末をつけることはできぬ」
小次郎が血を撒き散らせてのたうつ触手から距離を取りながら告げた。
「最後の始末はお前がつけるのだ。行け、花渡。戦え!!」
その言葉が終わらぬ内に、花渡は走っていた。
前を塞ぐ触手の壁を斬り伏せ、崇伝を追い詰める。
無数の触手を斬り捨てられる度、崇伝はじりじり下がった。
背後にあの大扉がある。
「良かろう、良かろう。拙僧を斬って終わりにはさせぬぞ。あの方がおいで下さる。そうなればお前らも江戸も、もろとも終わりじゃ!!」
重い音と共に、扉が開いた。
掛けられていた錦が引き裂かれる。
崇伝が、開いた扉に身を躍らせた。
そこは穴になっていたようだ。
絶叫の尾を引いて、崇伝が向こうの暗闇に落下していく。
紐を巻き取るように、長大な触手が扉の向こうに引き込まれ、やがて消えた。
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