漆の漆 黄泉の秘密
黒耀と千春に前後を挟まれる形で、花渡は進んだ。
半蔵門の奥にもまたそれより小ぶりな門があり、木立に囲まれたそれを、一つ目、二つ目とくぐっていく。
何度か曲がると、先程遠目にに見えていた武家屋敷が間近だ。
「ここが御三家、将軍様の従兄弟さんたちのお屋敷っ! あたしらの詰め所は、この先だよ!」
将軍の従兄弟の家の近くに詰め所を賜るなど、かなりの良い扱いなのではあるまいか。
千春の説明を聞きながら、花渡はぼんやり考える。
少なくとも、反旗を翻す可能性を少しも疑っていないからこその、御三家の目前の詰め所であるはずだ。
普通の幕臣の扱いとは、明らかに違っている。
こうなると、気になるのは誰が千春の言う「主」なのかということ。
更に道なりに行くと、こんもりした森にさしかかった。
梢の重なりが、深い山中のようだ。しんとした空気の中鳥の声が聞こえる。
その森の中の小道を進むと、不意に目の前が開けた。色彩が洪水となり視界を埋め尽くす。
大名屋敷の一つか二つは入りそうな程広大な庭は、一面の花畑だった。
小さな池のほとりに咲く花菖蒲の上に黒揚羽が舞い、花渡の足元には大量の百合がむせ返る香りと純白の輝きを放っている。
南蛮渡りらしい、大輪の薔薇も艶やかな姿を見せ、その向こうに紅白の躑躅が群れ咲く。
花渡には名も知らない異国渡りの花も数えきれぬ程。
所々に松の立ち木や東屋があるが、殆どが花で占められている。
その間に通る曲がりくねった道の一本を、黒耀は迷いのない足取りで進んだ。
花渡としてはゆっくり花見でもしたいところだが、そうもいかないらしい。
辿り着いたのは、こんもりとした木立に埋もれる数奇屋だった。
茶室というにはやや大きい、民家のような造りだが、幕府の御用を足すには色々不釣合いに思える。
ふと見ると、その横に寺の本堂の小ぶりにしたような離れがあるのが見えた。
何とも奇妙な建物だ。
「あすこが、あたしたちの詰め所! さー、入った入った!」
千春に促され、花渡は黒耀に続いてその数奇屋に足を踏み入れた。
黒耀が帰所を告げ、中から僧形の者たちが迎えに出てきた。
作法に沿って黒耀の、そして花渡の太刀を預かるが、花渡の神刀はあまりに重過ぎて、二人掛かりで運ぶ破目となった。
履物を脱いで上がり込み、廊下沿いに案内されたのは、奥まった座敷だった。
「上人様。佐々木花渡殿をお連れ申しました」
「お入り」
うっすら香の香りが立ち籠める座敷の、一段高くなった上座に、ゆったりした黒衣の僧侶が鎮座していた。
出で立ちからして、かなりの高僧だ。
老いているのは分かるが、よぼよぼした印象がまるでない。
過ごしてきた歳月の刻まれた、その奥の眼光は強く深く、理知と力を感じさせ、声にも張りがある。
誰かも分からないまま、花渡は一礼した。
用意された座布団を当てて座り、作法に従って神刀が背後に置かれる。
花渡はその老僧と向き合う格好になり、横に黒耀、千春が花渡を挟むように座った。
「
天海大僧正。
呼ばれたその名に、花渡は愕然とした。
黒衣の宰相、江戸の聖なる結界術を完成させた、天台の誇る高僧。
母親の百合乃からも、その名は聞いたことがある。
だからなのか。
花渡は得心した。
この江戸の結界術をひたすら護るお役目の者たちを生み出し、統括する。
この人物以外、有り得ないではないか。
「ようおいで下さった。今しがた黒耀が申したが、拙僧はこの徳川家に神君様の代よりお仕え申し上げている、天台の僧で
穏やかな声で、天海は呼び掛けた。
威圧的なところが少しもないが、何故か人をして自然と従わせる不思議な力がある。
「巌流佐々木小次郎と熊野の巫女祝部百合乃が一女、佐々木花渡にございます。御坊のような尊いお方にお目通り叶いまして、身に余る光栄にございます」
花渡は珍しく丁寧に平伏した。
流石に緊張する。
相手は神君家康公の天下取りの背後に常におり、更にはこの江戸の町そのものを作り上げた人物なのだ。
花渡は今一つの時代、一つの町と向き合っているに等しい。
「さて、此度の一件、すでに御前のお力をお借り申し上げたが、改めてご公儀にお仕えする身分となって、我らにお力添え願いたい」
天海はずばり本題に入った。
「ご公儀にお仕えする身分と申されると……御霊士とかいうお役目に就くということでありましょうか?」
花渡も、もやもやしていた疑問を素直にぶつけた。
「左様。御霊士なるものは、この天海が天台の修法にて、神の分霊を人の身に宿し、人をもって現身の神となし、将軍家と江戸を共に護らせるお役目のため生み出したるものなり」
そうだったのか。
花渡は隠しようのない説明を受けて、もやもやしたものがすっきり晴れていくのを感じた。
「しかるに花渡殿は、拙僧が修法を施すことなく、伊耶那美命御自らが選んでその身に宿ったという、稀有な例。このように申すのは何だが、いや、思いがけず手間が省けたというもの」
花渡は内心苦笑をこらえた。
「いつごろから私めを御霊士になさろうと?」
「今年に入ってからじゃ。占いで、御前のお名前とご住居が出申した。それから、見張らせてもろうておったのじゃ」
なるほど、だから、千春が接触してきたのだ。
「実は御前の宿せし伊耶那美命、この御霊士を作り出すに当たって、何としても得たい神であったのじゃ」
端然と座り直し、天海は更に踏み込んだ話を口にした。
「何となれば、伊耶那美命こそは生死の理を司る神。江戸をどれだけ聖なる結界で護ろうと、中で人が暮らしていく以上、誰かが日々死んでいく。それに際して、死者を滞りなく行くべき場所へと向かわせなければ、江戸の結界は穢れてしまう」
なるほど、江戸の結界について、花渡も少々疑問だったことだが、それを「造り出した者」にしても懸案事項だったということか。
「であればこそ、拙僧は御霊士の中に伊耶那美命の化身が欲しかった。しかし、なかなか器が見付からず……そのような時に、御前じゃ」
伊耶那美命は、命ある全ての母。
そして死をも司る者。
だからなのだ。
ふと、昨夜の夢で見た、あの妖しの花を思い起こす。あれがもしや伊耶那美命の力なのか。
「そして……今やもう一つ理由ができた」
不意に重く暗くなった声に、花渡ははっとして天海を見た。
「花渡殿。御前の仇である、宮本武蔵に会うたそうじゃが」
「はい。それが……」
何と説明したものか。
人間ではなくなっていたのは事実だが、ならモノと言い切って良いのか。
「仔細は千春より伺っている。どうやらこれは、拙僧が当初予想していたより大事であったようじゃ」
「どういうことにございますか?」
そう言えば千春が何かに気付いて口ごもっていたような。
あれは何を知ったからなのだろう。
「花渡殿。そもそも、モノとは何かをご存知か?」
唐突な質問に、花渡はいささか面食らった。
「……人間に害なす、悪意の塊の化け物だと聞き及んでおります。地獄の奥底から這い出し、人間も同じ地獄に引き込もうとするのだと」
花渡の理解は、子供の頃母親から聞いた、ほぼそのままだ。
「うむ。では、モノが何故生まれるのかをご存知かな?」
「モノが何故……でございますか?」
考えたこともなかったことだった。
地獄の瘴気が凝って自然に生まれたりするのではなかろうか?
「これは市井の人間に対しては秘中の秘である故、そのつもりでお聞き願いたいのじゃが」
天海はふと、姿勢を正した。
「モノはな。元はと言えば、人間なのじゃ」
一瞬、花渡は意味が理解できなかった。
「はっ……それは、どういう……」
モノが人間であるはずがない。
何となく人間に似ているのもあるが、大部分が人間とはかけ離れている。
特に中身はそうだ。
人間を食らっているではないか。
「正確に申せば、死んだ人間じゃ」
ぱちりと、天海は扇を鳴らした。
「死んだ人間は黄泉に赴くが、その黄泉の更に深みに、ある恐ろしいものが封じられている。そやつが、理不尽な恨みや他人を骨までしゃぶり尽くそうという邪な欲望など、汚穢な感情に囚われ堕落した死者の魂に、その思いを叶える力をやると囁く」
さしもの花渡が慄然とする。
そのようなことが。
全くの初耳だ。
「その囁きを死者が受け入れれば、そやつはモノに作り変えてしまうのじゃ。作り変えられては、既にそれは人とはかけ離れた化け物となり、決して人には戻れぬ。これが、モノが生まれる仕組みという訳なのじゃ」
花渡は慄然とした。
自分が斬り捨ててきた、あれらが全部元人間だというのは、到底信じたくない。
人殺しの禁忌など理由があれば簡単に無視できるが、人と化け物の境を超えるおぞましさは、耐え難いもののように思われた。
が、同時に疑問も湧く。
「黄泉は、伊耶那美命が統括しているはずではございますまいか? 伊耶那美命はその黄泉の深みの怪物を封じることは叶わぬのですか?」
何かが、花渡の内側で鳴り響いたように感じられた。
「それじゃ、花渡殿。問題はそこなのじゃ」
天海が大きく頷いた。
「伊耶那美命が、まさにその恐ろしいものを封じておるのじゃ。生死の理を司る伊耶那美命こそが、その恐ろしいものを死の眠りに封じ、黄泉の更に奥深くに封じて、そのとてつもない力を十全には振るえないようにしておる」
花渡が目を見張る。
今まで通じそうで通じなかった何かが繋がりつつある。
「じゃからこそ、その恐ろしいものは、自らに近い性質の穢れた魂にしか手が出せぬのじゃ。善良なる魂は、伊耶那美命に寿がれて常世国なり極楽浄土なり、相応しい場所に行く」
きっぱりと、天海は断言した。
「もしかの恐ろしいものが目覚め、現世に這いずり出ることにでもなれば、穢れた魂のみならず、清浄な魂、そればかりか地上にまで手を伸ばし、現世の全てを我が物とするであろう。それを封じている唯一の神こそが伊耶那美命」
ああ、なるほど。
それで。
全てが、花渡の中で繋がった。
「拙僧が伊耶那美命を欲したのは、それが理由なのじゃ」
それが理由。
切実この上ない、理由。
花渡は既に知っていることのように、その話を飲み込んだ。
同時に、昨夜の夢のあの巨躯の怪物が瞼にちらついた。
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