漆の伍 地下に潜むモノ
花渡は夢を見ていた。
深い深い眠りの海の底から、いつの間にか花渡はぐんぐんと上空に引き上げられていた。
体の重さという重さがなくなり、鳥の羽が突風に巻き上げられるように高みへと運ばれる。
頭上には、星空だけがあった。
雲より高く浮かび、花渡は眼下を見下ろした。
高いところと言えば、愛宕山のてっぺんくらいにしか登ったことのない花渡には目もくらむ高さ。
眼下には、江戸の町が輝きながら広がっていた。
輝きといっても灯火ではない。
江戸の町を縫うように、幻妖な光の筋が縦横に広がっていた。
輝きの集積したところは、大抵が大きな寺社仏閣だ。
その溢れる光が幾色もの筋となって、互いが互いと繋がり、きっちりした三角や丸の、小気味良い図を描いている。
その間に光の龍のように蛇行するのは、神威を宿し、穢れを流す水だろうか?
蛇行の端にあるのが昼間の溜池だと花渡は気付いた。
それらの中央に、溢れる光を集めた塔のようにそびえるのは、江戸城天守閣だ。
聖なる光を集めて幾重にも護られ、最も聖性と見えざる力とを集めているのがその城、そしてその城の主たる将軍とその一族だ。
その城のために江戸があるのか、江戸の核としてその城が必要とされているのか、花渡には既に分からない。
一つ言えるのは、江戸自体が厳重な呪法によって護られた聖なる地だということ。
初代将軍、神君徳川家康公は、江戸の吉相に気付き天下を取った後もここに留まり幕府を開いた。
こうして見ると、実際家康公は慧眼という他ない――いや、家康公に進言したであろう誰かが、か。
江戸の聖なる結界術を、花渡は見下ろしていた。
何故、自分はこうしているのだろう、という疑問すら持たず、その現実と霊性が融合した光景に見とれていた花渡だが、ふと、妙なことに気付いた。
光る大地の所々に、妖しく禍々しい花のような何かがひと時浮かび、消える。
まさしく花のように明滅するその中に、尾を引く光が吸い込まれて消える。
あれは。
あれはあれはあれは。
尾を引く光は死者の魂だ。
あれは黄泉に通じる通廊か。禍々しく不吉だが、それは確かに聖なるものを感じさせ――花渡に安心を与えた。
不意に花渡は悟った。
あれは女神伊耶那美の力だ。
聖地でも人は死んでいく。
しかし伊耶那美の力に導かれて行くべき場所へ行くからこそ、この地は
伊耶那美の力で、常に浄化されているのだ。
そもそも、この大地は、女神伊耶那美の力の上に成り立つ。
この大地を産んだは伊耶那美。
どんな神の聖所も、伊耶那美の力の上に間借りしているに過ぎぬ。
生も死も、天も地も、浄も穢も、伊耶那美に全て含まれており、全ては伊耶那美の手の中にあるのだ。
自分はその化身なのだ。
と。
花渡の耳に、どぅん、どぅん、と腹の底を震わす重い響きが聞こえてきた。
ふと、花渡は振り返った。
目に入ったのは、ちょうど江戸城の真南、やや西に寄った辺りだ。
そこが、結界を構成する眩い光ではなく、どろりとした重苦しい何かで輝いていた。
いや、光と言って良いものか、
花渡には判断が付きかねた。
ただ、周りを照らしているようには見える、というだけだ。
現世での記憶を辿る。
火のように燃える愛宕山の山陰の少し向こう、あれは増上寺だったか。
少し場所がずれている気がするが、寺院に間違いないようだ。
その増上寺と隣接した寺院で、何かが動いた、ように見えた。
はっとして目を凝らす。境内のほぼ全部を占める大きな範囲で、何かがうにうにと蠢いていた。
相変わらずどろりとした、光ならぬ光の中で。
突如、ずずうっと巨大なものが、天を掴むように伸び上がった。
そう、それはまさに天を掴もうとしていた。文字通りの意味で。
それは、確かに男の腕に見えた。
恐ろしく巨大な上に歪みきっているが、確かに男の筋肉の巻きついた腕だというのがはっきり分かる。
ずいっと付け根近くまで伸び上がると、その腕の太さは寺院の境内いっぱいになった。
あらぬ方に曲がった指を蠢かせて、その腕は何かを求めるように宙を掻いた。
ぶうん、と腕が振られる。
例え腕一本だけでも、現世に出てこれたのが嬉しい。
そんな意思が伝わる。
花渡の全身が総毛立った。
あの下に体がある。
あの腕は当然、恐ろしい巨大な何かの一部だ。
そう悟った花渡に、その腕から見えぬ何かが押し寄せてきた。
江戸中をぐわんと歪ませるかのような何か。
それは爛れ、腐れた意思だ。
――この世を、現世を寄越せ。
――自分のものなのだから。
――この世に自分が現れるために、この地を汚せ。
脳味噌を侵蝕してきそうな意思を、花渡は押し返した。
巨大な腕はゆぅらゆぅらと何かを掴もうとするかのように揺れていた。
恐らく空気がかき回されている。
見ると、結界の規則正しい光が、その腕の動きに合わせて消える寸前の蝋燭のように明滅した。
結界を阻害している。
花渡は衝撃と共に気付いた。
結界は、様々なモノを追い払うだけではない。
こいつを押さえてもいるのだ。
そもそも、あれは何だ。
モノなのだろうか。
あのような大きなモノがいるとは。
どうしたら良いのだ。
呆然とする花渡の耳に、涼やかな声が触れた。
「あれはモノではありません。それよりもっと恐ろしいもの」
花渡ははっと振り向く。
「……母上……父上」
花渡と同様空中に浮かんでいるのは、確かにあの常世国で出会った、今は亡き花渡の両親だ。
二人とも、あの時の穏やかな顔とは程遠い、険しい顔をしている。
「母上、父上。あれは、一体……」
モノでないというのか。
では何だ。
何が腕一本だけで、こんなにも空気も霊気も腐らせるような瘴気を放っているのだ。
「もうすぐ分かる。いや、お前は知っているはずだ。何せ唯一、あれに対抗できるのがお前なのだから」
「はっ?」
父小次郎の言葉は、さっぱり意味が取れない。
あれだけでかくては、いかに剣の腕が立とうとどうしようもないではないか。
「今に分かります。直接、あれと戦うという意味ではない。あれを、あの悪いものを呼び出そうとしている者を、葬らねばならない」
母の百合乃の言葉に、ますます花渡の頭は混迷を深めた。
「あれを……呼び出す?」
一瞬考え込む。
「呼び出すために、この地を、江戸を汚そうとしているのですか?」
さっき、あの化け物は自分が現れるためにこの地を汚せと伝えてきた。
あの場所は穢れているのか、しかしその境内くらいでは、腕一本現れるくらいが関の山らしい。
なら、江戸中があの寺院のようになったら。
花渡は慄然とした。
この江戸のモノ騒ぎは、あれを呼び出すためなのか。
あれを押さえ込んでいる結界を破り、更に罪なき人々の血で穢して、あれが大地から這いずり出てくるようにしようとしているのか。
「誰が……誰がこんなことを」
表鬼門と溜池に気を取られて、あの辺りのことなど頭にも上らせなかった。
裏鬼門近いあの寺院を制圧し、あのような存在が這い出せるようにまで穢した奴がいるのだ。
それは一体誰だ。
「金地院だ」
静かな怒りを感じる声で、父の小次郎が告げた。
「金地院?」
誰だったろう。
坊主だろうが。
「金地院……崇伝」
その声と共に、花渡の意識はすうっと薄れた。
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