弐の壱 時塚千春

 町奉行所での取り調べは案の定、形式的なもので終わった。


 またお前かという顔を露骨に見せる赤星の上司である与力が、花渡にごく表面的な質問を幾つかし、僅かの時間で花渡は解放された。


 まだ初々しい矢野が、よりにもよって将軍様のお膝元で、何の後ろ楯もない女に執拗に刺客を送る何者かを放置しておいて良いのか、と抗議したが、出過ぎたことを言うなと切り捨てられた。


 一応は、今度のような脅迫があれば奉行所に届け出よ、というお達しが、せめてもの情けらしかった。


「いつもの如くだ。お前を狙っている奴は、奉行所では手出し出来ない相手だそうだ」


 盛大な溜息が、赤星の大きい口から吐き出される。


「お前が大大名だの旗本だのの姫君だのという立場だったら奉行所も放ってはおけないだろうが、一介の浪士の娘では、虎の尾を踏む真似は出来ん、と」


 奉行所の先まで花渡を送った赤星が、露骨な自嘲の笑みを見せた。

 何のための奉行所だと憤る程には若くないが、こんなものだと自らを納得させるには、この男の正義感は強過ぎる。


「ま、いつものことさ。手間を取らせて悪かったな、旦那」


 華やかにさらりと花渡は笑って、赤星に背を向けた。



 ◇ ◆ ◇


 雑踏の中を、緋色の花咲く剣客が行く。


 ひらりひらりと繊手の中で舞うのは、不吉な地獄蝶が描かれた金泥の扇。

 背中には明らかに選ばれた者だけが振るえるのであろう長刀。

 背の高さも相まって、その姿はどこからでも目立つ。


 花渡の心に動揺はない。

 役付きの旗本が城の一室で書面とにらめっこするように、若い僧侶が鐘突き堂に赴くように、今日もやらなければならないあれこれを終えたというだけの話だ。


 自分の境遇に悲嘆めいたものはない。

 ただ、花渡の胸の奥で燃えたぎる炎は、あの人の綺麗な死に顔を取り巻いてぐるぐると渦を巻く。

 自分に刃を向けるだけなら、何の感慨も湧かない。

 虫を踏み潰す気軽さで返り討ちにするだけだ。今日のように。

 だが、あの人に刃を向け、あまつさえ命を奪ったことに対する恨みを忘れる訳にはいかない。


 そう、あの人は。あの人は……


 昼下がり、陽射しは強い。

 花渡は江戸の埃っぽい風に吹かれながら、住処すみかへの道を辿った。



 ◇ ◆ ◇


 花渡の住居は、八丁堀に程近い、湿気った裏長屋だった。


 貧しい者たちが寄り集まるそこの戸口の一つの前に、平たい鉢に植えられた擬宝珠が優しい色合いを見せる、そこが花渡の住居だ。

 人を招くのも憚られるだろうと思われる、あまりに粗末な一室に、彼女は一人で住んでいた。


 建て付けの悪い油障子の戸に手をかける直前、花渡はふと、顔を上げた。


「お前、どこの子供だ? こんなところで隠れんぼか?」


 呼び掛けられて申し訳程度の稲荷の祠の影から顔を出したのは、せいぜい十一、ニ歳くらいの女の子供だった。


 おかっぱというにも短い髪型の上に、白い狐の面を乗せている。

 出で立ちは法被に股引き。

 祭り帰りの子供のようだが、はて、この辺りで今の時期、寺社の縁日などあっただろうか。


 ふと違和感を感じた花渡が次の言葉を発する前に、その子供はとことこと無造作に花渡に近付き、口を開いた。


「お姉さん、佐々木花渡さんだよね?」


 くりくりした大きな目をいっぱいに見開いて問う子供に、花渡は怪訝そうに目を細めた。


「そうだが、何故知っている? どこかで会ったか?」


 花渡の内心が、警戒すべきだと声を上げた。

 普通に暮らしているこんな小さな子供が、佐々木花渡の名前を聞き知るとも思えない。

 そして、子供と言えども、忍の一族の者なら、刺客に使われることがある。


 子供は無邪気に見える表情で、真下から花渡を見上げていた。

 えらく身長差があるせいで、いささか首が辛いのではないかと思われる姿勢だ。


 子供にしても小柄なその娘に、殺気は感じられないが、特別な修練を受けた忍なら、そういうものも隠すことが出来る。


「私に何か用か? お前、この辺で見ない顔だが、誰かの使いか?」


 その可能性もある。

 どちらかと言うと、まずそちらを疑うべきだろうが、花渡の中の尖った部分が違うと叫ぶ。

 子供の動き方が気になった。

 無造作に動いているように見えて、その動きは明らかな鍛練の跡がある。


「ちょっとね。お姉さんと話がしたいある方に、伝言を頼まれたの」


 その言い方がまた気になった。

 事情を知っている者の表現。

 本当にこの娘がただの使いなら、伝言を頼まれたとは言っても、花渡と話をしたい者がいるとは言わないだろう。


「何だ、使いか? 仕事の依頼か」


 花渡は普段、旗本や大名の家の女衆の護衛や、男を入れたくない場所の用心棒、あるいは仇討ちの代行として暮らしを立てている。

 その辺りの可能性も無ではないが、こんな子供を使いに立てるだろうか。

 花渡はさりげなく娘との間合いを取った。


「ちょっと混み入った話になるんだ。他人に聞かせたくないから、上がらせてもらっていい?」


 娘がちょこんと首を傾げる。

 花渡は一瞬だけ迷ったが、結局頷いて戸を開け、中を示した。

 娘は礼を口にすると、好奇心に目をきらきらさせながら敷居をまたいだ。

 こんな狭い部屋では長刀は振るえないが、花渡は素手での戦いもそこそこいける。

 第一、娘の口にした「混み入った話」が気になった。

 こんな年端もいかない子供を使いに「混み入った話」とは恐れ入るが。


 煎餅のような座布団を差し出し、茶を沸かした。

 客など滅多に通さぬが、花渡自身が茶を好きだったため、自分用のが一応余っていた。


「花」


「ん?」


「花、あるね。好きなんだね」


「母親が好きで育てていたのでな。その癖がうつった」


 玄関の土間と背の低い貰い物の茶箪笥の上に、花があった。

 白い躑躅の盆栽と、ささやかな蘭の花。


 収入の粗方を衣装に注ぎ込んでしまうせいで、部屋は中身も粗末なものだったが、ただ花だけが住人の意識のように香る。


「長いねー」


「何がだ、刀か?」


 背後の刀立てに立てられたそれを、娘は粗茶をふうふう吹きながら眺めた。


「知ってる。物干し竿って言うんでしょ? 佐々木小次郎の形見、なんだよね?」


 ぴくり、と花渡は反応した。目を細める。


「そんなことまで知っているお前はそもそも何者だ? 誰の使いなのだ?」


「名前はね、時塚千春ときつかちはる。あたしを使いに立てた方のお名前は、悪いけど今は言えないんだ。あまり……大っぴらに表立たない方がいい方だから」


「ほう」


 花渡はますます興味を引かれた。

 子供の悪戯にしては、気が利いている。


「なら、お前が持ってきた仕事は、表沙汰に出来ない仕事ということか?」


 花渡はちょこんと正座した千春をじろじろと眺め回した。

 どう見ても子供だ。

 こんな子供が持ってくる「表沙汰に出来ない仕事」。

 多少小賢しくなった年頃の子供が、大人を担いでやれと、ややこしい悪戯を決行したと考えるのが、一番筋が通っている気がするが。


 ふと、胡乱気な花渡の表情に、千春は気付いたようだった。


「あっ、あたしは……ッ! 歳は、その、十二……てことになってるけど……! 違うんだ、あたしが子供だからって、悪戯とかインチキとかじゃないよ!」


 千春が、あたふたと否定し始めた。


「お姉さんを終生召し抱えたい方がいらっしゃるんだ。その方にお仕えすれば、ちゃんとろくがいただけるよ! もっといいところに住めるよ!」


 花渡は怪訝そうに眉をひそめた。


「仕えて禄をもらえるなら、それなりの旗本か大名ということか。終生召し抱えるとは、どういうことだ」


 無論、女衆の護衛の仕事で、旗本や大名に仕えたことはある。

 しかし、それは期限を切られた雇われ仕事で、所謂禄をもらえるような宮仕えとは違う。

 その女の安全に責任を持つ代わりに幾ばくかの賃金を貰い、期限が来たら離れてまた次を探す。

 いつ命を狙われるか分からぬ身としては、上等な仕事と言えた。

 しかし、禄をもらえるような仕事となれば、武家として正式な「家臣」と認められることになる。浪士でなくなるのだ。


 だが実際のところ、それは不可能だ。


 徳川幕府は、女に家督の相続権を認めていない。

 花渡が女である以上、一個の武士として禄をもらえるような立場にはなれないのだ。

 特例として、江戸城大奥のような特別な場所に仕えでもしない限り、千春の口にするようなことはあり得ない。


 まさか、どこぞの旗本か大名から、妾奉公めかけぼうこうの誘いなのか。今までなかったことではない。


 しかし、目の前の千春はどう説明する。

 妾奉公の誘いに女の子供を寄越すのは、いくら何でも不自然過ぎる。

 しかも、恐らくは戦いに対応出来るように鍛えられた子供を。


 訳が分からない。


 不快だった。

 何かに巻き込まれようとしているのは確かだが、その何かが見当もつかないというのは。


「お姉さん。さっきから気になってたけど、血の匂いがするね」


 花渡の質問には答えずに、千春は花渡を見詰めた。

 ああ、と頷き、花渡は何となく己の匂いを嗅いだ。

 自分ではいい加減麻痺しているが、他人からすれば濃厚な血臭は気になるだろう。


「お姉さんを召し抱えたいって言ってるあたしの主は、お姉さんが命を狙われてるのを知ってる。辛いよね、子供の頃からずっと。お母さんも、鍛えてくれてたお父さんのお弟子さんも、そのせいで亡くなったんだよね?」


 千春の表情が曇る。

 実に気の利く子供だなと、花渡は感心した。


「あのね」


 意を決したように、千春が顔を上げる。

 花渡の刃を呑んだ瞳と、千春の子供とは思えない強い瞳がぶつかり合う。


「私の主は、お姉さんを殺そうとしている黒幕が誰だか知ってるよ?」


 沈黙。


「その主とやらが黒幕、というオチではないのか?」


「とんでもない! 馬鹿なこと言わないで! 逆だよ! 主なら、そいつに働きかけて、お姉さんの命を狙うのを諦めさせられるかも知れない!」


 千春が、ぐいっと身を乗り出した。間近で花渡の目を覗き込む。

 互いを探り合うように、二人は動きも言葉も止めていた。


「……私が命を狙われてるのを知っていて、その上で召し抱えたい? おまけに、その黒幕に働きかけることが出来る? 何者だ、お前の主というのは?」


 実際の話、黒幕の見当は付いていた。

 母親の百合乃は、父親小次郎の死後、そいつから腹にいた花渡を守るために、数人の弟子に守られて豊前を脱出したのだ。

 いくら個人として強くとも、歯が立たない権力の前には火の粉を振り払うくらいしか出来ない。


「多分、お姉さんは知ってるんだよね。お姉さんのお父さん、宮本武蔵にっていうより、そっちに殺されたようなもんなんだってね。私たちも分かって……」


「そいつに働きかけることができるとしたら、同じくらいの権力を持っている何者か……同格以上の大名か? それとも公儀こうぎに近しい者か?」


 反応を伺う。

 千春の光の踊る目からは、子供離れした落ち着きの他に何も見て取れなかった。

 無邪気な子供の顔の下の、老練とすら言える精神に、花渡は不気味さすら感じ始めた。


「ごめん。まだ言えない。お姉さんが、主の誘いに応じる意思を見せてくれて、改めて主がお姉さんに然るべき形で話すのでないと」


 私は本当に使いで、主と違って何の権限もないの、本当にごめんと千春は言う。

 千春の若さからして本当だろうと花渡は判断した。

 そもそもこんな子供に重大な話をされても、正直にわかには信じかねる。今だってそうだ。

 ならば。


「質問を変えよう。時塚千春、お前が何者か教えてくれ」


「ふえっ、あたし!?」


 千春は目を見開いた。

 全く予想していなかった訳ではなさそうだが、上手くかわせる自信があったらしい。


「そうだ。お前がそもそも何者か分からない。良く分からない主とやらの使いで十二の子供だという以外はな……」


 いきなり、花渡は動いた。

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